小平井の地名は「いささか平たい土地」


「立石神社」に奉納された備中神楽を初めてみた

地名考

小面積小平井の小字の配列:市史資料編『地名編第23章小平井村』(平成16年発行by笠岡市)

 『小字の形状・配列から気づくのは、
  東北部に小字未統合地がある。 →立石・小丸・吹ケ谷・長町・坂川・仁五、皿池尻・池の口・大坪と矩形状小字の並びは西北へのびるこの辺りの
      の低地がつづく古い地層の反映(磆なめら-立石-大塚-土井ケ市-木勢以-尾坂とつづく西南から東北へ走る断層線)。
  吉田川ならびにそれに注ぐ細流に支配されたと見える細長い小字の配列が見える点。
      
 「立石」は道しるべなどに立てた石。交通の要衝である。また、おなじ役割の命名が「追分」で 東西南北交通の結節点。
  牛馬継場などの交通の役割を担っていた場所で、小字「鏡山」(南西端、山陽道の高架が走る辺りか、、)は九州~中国地方に分布する地名で
  飛(とぶ)火(狼煙のろし)や物見を意味するものへの命名。
 「吹ケ谷」鞴ふいご、を吹いた谷(北端の東大戸と接するあたり)。「鍛冶屋」(村中央部)と共にカナくそが残存。6世紀~13世紀にかけて鉄鉱石による
 精錬から鍛冶~鍛錬鍛冶までの一貫作業が行われていた。(1985年 『鍛冶屋遺跡』山陽自動車道建設に伴う発掘調査by 建設省岡山工事事務所)



 寺:  乗福寺 面積壱反六畝二廿八歩、日蓮宗京都妙顕寺派ナリ、本村西方にあり、歴応四年(1341年)僧妙実開基ス

      光明坊 面積壱反壱畝二廿六歩、浄土宗西京東本願寺末派ナリ、本村西方にあり、開基・建立詳ナラズ
     興福寺 面積八畝拾七歩、浄土宗備後国山南村光照寺末派ナリ、永禄元年(1558年) 僧了雲の創建ナリ

 社(やしろ) 春日神社

 拝社地面積三反歩 本村ノ西方ニアリ、祭ル神天児屋根命、本村ノ氏神トス
 
 元禄(1688年~)検地帳に、荒神社は六座、社地は広くて二畝、四ツ堂六基(面積は一つだけ二歩、他は一歩)および阿弥陀堂と天神社が各壱あり



井笠鉄道「小平井駅」跡:

 大正二年から昭和46年まで58年間、笠岡と井原を結んで走った井笠鉄道の小平井駅舎とプラットホームが現存する。
軌道敷の土手は未検証であるが、ネット等からの情報では部分的に現存しているとのこと。
ただ、ネット上に掲載のサイトは鉄道マニア的視点で軽便鉄道としての車両・軌道敷・切符などの鉄道グッズに重きが置かれているようで
線路が走っていた箇所が現在どうなっているか等(軌道跡)まで言及されていないようだ。もっとも、60年まえに軌道がどこに敷かれていようが今の
社会と経済、もっといえば日常生活には関係ナシといえる。(w)

 歴史から学ぶこと。
我々は最低限の知識として日本史・世界史の大雑把な流れを学校で学ぶ。
つい最近の沖縄での出来事で、第二次世界大戦・太平洋戦争末期の本土決戦にに際し応戦した軍部が民間人の集団自決にかかわったか否かで
問題となった。
学校の教科書記述を文部科学省が軍部の関わりを削除し、これに沖縄県民が「ノー」といった。
何故? 史実を曲げて後世に語ることに異議を唱えた。県民たちの多くは自分の血族が実際にあの戦争で軍部指導の下、ニッポン国民の誇りとして
命を捨てた。つまり、歴史とは今の自分につながることだから、曲解は「ノー」だ。

軽便「井笠鉄道」にも自分の血族にあたる分身が関わっていた。
おなじ景色のなかで、いまとは異なる時代のなかで自分の分身が何を考え、どんなふうに景色をみてどう感じたのかに思いを巡らすと必然的な時間の
流れと偶発的な人の行動がいろんな文明を生み出し今日につながっていることを実感する。ある日突然、自分は生まれたわけではない、と気づく。
歴史は自分の分身体験だ。その理由で綿々と神代の時代からの事蹟が後世にまで語り嗣がれているのだろう。

そんなことを思いながら小平井駅につづく井笠道を歩いた。

景色考

春日神社: → ClickHere
 
 奈良の本社『春日大社は、平城京の守護の為に創建された御社で本殿向って右(東)から、第一殿 茨城県の鹿島神宮から迎えられた武甕槌命
(タケミカヅチのミコト)、第二殿 千葉県の香取神宮から迎えられた経津主命(フツヌシのミコト)、第三殿 天児屋根命(アメノコヤネのミコト)と第四殿
比売神(ヒメガミ)は大阪府枚岡(ひらおか)神社から、それぞれ春日の地に迎えて祀られている。奈良時代の神護景雲二年(768)、現在地に四所
の神殿が創設されたのが始り。藤原氏の氏神として有名。
』(引用先サイト 春日大社

御祭神の天児屋根命については、
『岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出した。天孫降臨の際ニニギに随伴し、中臣連
などの祖となったとされる。名前の「コヤネ」は小さな屋根(の建物)の意味で、託宣の神の居所のことと考えられる。
中臣連の祖神であることから、中臣鎌足を祖とする藤原氏の氏神として信仰された。祝詞の神、出世の神ともされる。中臣神社(京都市山科区)、
枚岡神社(大阪府東大阪市)、春日大社(奈良県奈良市)、吉田神社(京都市左京区)などに祀られている。また、全国の大鳥神社に祀られる
「大鳥連祖神(おおとりのむらじのおやがみ)」は天児屋命と同神とされることがある。』(引用サイト Wikipedia

この小平井の春日宮は奉納された石鳥居に室町時代末期の年号が刻まれており岡山県の石造美術重要文化財に指定されている。。
参道口に掲示された笠岡市教育委員会の説明による神社の縁起は
『春日神社はもと小平井村の村社で、言い伝えによると陶山義髙が笠置山落城の際、奈良春日神社の神鏡と木像とを奉携し、建武二年(1335年)
三月に社殿を奉建したのがそのはじまりという。』
境内別社として、「立石神社」、「龍神社」、「水分神社」、「門戸神社」が確認できた(鳥居があるのは立石神社のみ)。
また本殿にある瓦紋はお馴染みの「三つ巴」(今後は便宜的に、最初の茂平での発見にちなみ戎紋と呼ぼう)だった。


☆2009/02/27 福山図書館で『おもしろ福山史』 平井隆夫氏著 で渡辺一族のルーツを知る。
 
 天文五年(1536年)領主渡辺杢之允正の寄進が扁束裏面に刻まれいる鳥居で有名。この渡辺杢之允正なる人物がこの時代に小平井を領有した
証であり、笠岡市史には備後国沼隈郡山田村の渡辺越中守兼の弟だろうと書いている。
また、「備中小田物語」には天正年中(1573-1592)には杢之丞、同頼母領。笠岡宮地に移住すと申し伝えり、とあるらしい。
「芸備風土記」からの引用では、「渡辺越中守は明応年中(1492-1501)尼子に属し、後大内に属し、又その後毛利に属す」とあり、杢之允正が小平井
を領有したのは大内からの勳功だろうと書いている。

杢之允・頼母の二代にわたる領有が関ヶ原の毛利敗退によって終わるのは明白であるが、渡辺氏が備後国地頭職として入国したのは、山名宗全持
豊(1404-1473)の命であり、文明年中(1469-1487)、越中守兼の時代に長和荘草戸村に入ったといわれている。

その後、杢之允正が春日宮に鳥居を寄進するまでの間が70年では弟説は疑問であろう。また、笠岡の宮地に居住しながら父子二代にわたって小平
井を領有するのは井上伯耆守春忠や村上隆重など、大内勢力下で笠岡城代・城主となった武将との距離感も配慮する必要がある。
(杢之允正のルーツが山名宗全持豊の差配で備後へ入ったのであれば、杢之允正自身の備中入りについても同様の配慮が必要かもしれない)

 井上伯耆守春忠の鳶尾城 → ClickHere
 渡辺一族の系譜       →  ClickHere



立石神社: → Click Here
 、【詳細不詳】 この日(6/23)、春日神社の参拝を終わって参道をぬけ鳥居を出た辺りに建っていた電信柱に一枚の張り紙を見つけた。
「祈願万能の神社!小平井立石神社 第7回 御礼和め 奉納神楽 病気平癒・子宝成就・大願成就・邪気退散・厄祓・安産祈願
 地方では立石大明神ともいう。
 今年もきました!!立石神社夏の恒例イベント!
 敬神崇祖の念篤き岡山県神社庁所属の神楽師たちによる夢のイベント!大黒様の一粒万倍の福を貰いにご家族で是非お越しください。
 日時: 6月29日(日) 10:00~16:30頃
 主催: 立石神社奉納神楽実行委員会 協賛: 個人数名 (掲示責任者) 宮司名 住所 & 電話番号」

 この張り紙を読んだ後、春日宮を昇ってきた方向と反対の東南へ歩を向けた。
乗福寺の正門の前を横切って段々畑の中の下り坂を下りると笠岡ICの一本北側の道路に出た。自動車がやっと一台通れるほどの幅員道だ。
この小平井道(R48笠岡美星線)をどんどん東へ歩いていくとこんもりとした社に当たる。
ここが地図にもなき鳥居のマークで立石神社だった。この境内で二度目となる同じ神楽の張り紙を読んだ。
偶然とはいえ雨にぬれて消えかかっていた春日宮の張り紙を読み、なんとなく東へ歩き、木の茂みに引かれて社に導かれそこで又読む張り紙。
ちょうど神社の下の田圃の消毒作業で休憩ちゅうの女性と話ができた、聞けば茂平の青木から嫁にきたという。
実家に帰るには単車に乗って40分ほど、道がわるくてタイヘンだったとか。上の神社の神楽は一般参加OKだから見においで~ってことだった。

☆2008/06/29 (日曜日) 立石神社の備中神楽
 
この日は曇天、午後からかなりまとまった雨が降る予報で、中国・九州の西日本各地には土砂災害の注意報がでていた。
10:00開演なので車でいった。駐車場になるようなスペースは見当たらなかったので行ってみると道路脇に車が駐車させていた。
神楽を奉納する舞台は本殿裏の広場。ブルーシートと竹と垂木で舞台小屋ができていた。観客席が10坪ほど、畳が敷かれた舞台が10畳ほどか。

立石宮はシモの神様だという。
こどもの寝小便に絶大効果あり。また成人のシモ問題も効能ありとのこと。
拝殿の後方に鎮座する御本殿には男性シンボルが奉納されているとか。(隣に座りあわせた土地の男性談、生まれはs10生ごろか。。。)
立石とは字のごとく石が立つ=道標であり同時に強烈な自己主張のシンボルだ。ネットでみると巨石をご神体にした社が多い。
ここではこの土地の小字が「立石」なので地名から命名された社であろうが、土地の人から情報を聞くといろんな経過があるようだ。
つまり、春日宮に合祀した経緯(当時賽銭ドロボーが横行しモラル低下を抑止するため)、神楽を舞う宮司さんの発案ではじまった経緯、
立石宮から春日宮へ分祀されたものだという説などなど聞く人ごとに見解が異なる、口伝縁起にもなり難い情報の交錯だった。
それはさておき、備中神楽 ⇒ 当日画像へClickHere


☆サイト内リンク 2012/02/09 

日 付 表 題 場所 摘 要 詳 細
2012/02/09  六十六部 東大戸  才の神のバス停の上道に有り  六十六部日本回国碑とは鎌倉~室町を起源とする法華経納経巡礼行者の足跡なり 
2011/01/03 天神社 東大戸 菅公と少彦名命を祀る社 鎌倉時代・建保五年(1217)の創建。市域で菅公を祀る社は7社中、この社が最古。
2011/01/03 吉田川 東大戸 大戸から合流する吉田支流 以前に吉田川を金浦湾から遡上した。大河をすぎて大戸で二つの水脈の合流点。
2011/01/03 五角地神 東大戸 三叉路のお堂の脇に建つ 五角とはいっても円柱形の地神碑。五神名は経年劣化で判読不能、創建日不詳。
2010/12/01 円柱地神 西大戸 聖霊神社境内荒神社の脇 東大戸の地神碑より更に円柱に進化した形状をもつ地神碑。明治に鳴瀧より移る
2008/05/30 春日神社 小平井 市域最古の紀年石鳥居あり 建武二年(1335年)陶山義高が社殿を奉建す、主祭神天児屋根命、ほか五神。
2008/06/29 立石神社 小平井 字名が立石、春日神社に摂社 偶然見つけた張り紙が備中神楽へ導いてくれた。この社は泌尿器系疾病に霊験有
2008/06/29 備中神楽 小平井 立石神社の裏庭にテント舞台 茅の輪くぐりとの関係か?、一年の前半が区切りとなるこの時期の催行は。初見。
2008/06/23 小平井道 小平井 笠岡ICより東に歩く景観Shot 小平井は空が綺麗だ。田植えの終わった水田には白鷺が飛来し我が餌場に堪能。


No. 表題 Title   内容 Contents
001 春日宮への道 笠岡ICを過ぎて右折し丘陵に入る(小平井公民館で道を尋ねた)  画像みる    ↓
     
春日神社

 
 南北朝の時代に遡る「陶山氏」に関する情報は断片的で恰好の歴史小説の題材となりそうだ。
金浦に山城を築き戦乱に明け暮れる日々には明日という命の確証のない渡世人家業のような浮沈の激しい弱肉強食の壮絶な時間の連続を想像する。
こんな為政者の加護の傘下で農耕に従事する庶民にとっても、明日の安全・保証という確証は空証文のようなもので時流の浮沈で変化した。
隣国情報のみならず気象にかんする情報も希薄なこの時代に明日の確証を得ようとするエネルギーが「祈り」だったのかもしれない。
002  小平井駅で停車の 井笠鉄道の軌道跡  画像みる    ↓

小平井の
道行情景

  人と自転車専用道、いまは主として通学路になっているこの道がかっての軽便鉄道の走行軌道が敷設されていた道だった。
文明開化の明治を経て、時代が大正になった早々笠岡は井原と結ぶ軌道を確立した。
その後、昭和となり東京オリンピックが終わり高度成長期が一段落した頃にこの軽便鉄道も役割を終わった。
ちょうどこの鉄道が姿を消した昭和46年という時期は戦後処理がおわり輸出経済立国ニッポンが更なる経済発展のスタート時期
だった。より大量に、より大きく、より長く=重厚長大礼賛の時代の幕開けがこの鉄道に退場を告げたように映る。


003
小平井の立石 立石神社 画像みる    ↓

備中神楽


立石神社

 詳細不詳の立石神社:

この社の情報はインターネットから得ようとするとなかなかわかり難い。

ご祭神・開設・縁起・氏子数など、土地の人からの聞きとり情報にもこれほどバラツキがあるのも珍しいのではかなろうか。

しかしよく考えてみれば当然だと理解できる。氏神信仰は氏子中の問題であり外なる人には無関係の世界だから。
われわれは(たいていの人が)シバ神やアラー神についての知識は無に等しいはずだ。
おなじ土地だからといってそこに住む人々が同じ神さまを信仰しているは限らない。笠岡ではごくごく狭い地域に何社も神様が共存する例が少なくない。
また、立石神社は「シモの神さま」だという口伝は神社によってご利益が異なる=棲み分けの状態が原型だったことを暗示している。

巨大店舗が中小零細店をなぎ倒す状況は21世紀になって激しさを増してきた時流である。
大社・小社がおなじご利益を競うなら、小社はきっと立ち行かないであろう。近年、ご利益を20~30項目をあげてご祈祷に応ずる神社が多い。
全部に効果あり=全能の神、という信仰形態は一神教のシステムだ。古代からニッポンには八百万神(やおろずのかみ)の世界だった。
このゆえに伝承をひもとくべしと語りかけてくる立石神社にはちがった魅力が輝いている。

☆ 2008/06/29 備中神楽奉納 ⇒ ClickHere
2012/02/09 更新 2008/06/30