山峡の美田地帯、入田村を歩く


  消えゆく地名の記憶を保存しませう~(2)

地名考

 ☆2011/04/20 平ケ市(ひらがいち)在住のNさんの案内で若宮神社へゆきました。

 入田番所跡 (現地説明板)
 『福山水野藩が元禄十二年(1699)七月頃から宝永三年(1706)頃までの期間、福山藩に通じる主要街道の他領との境に当たる下フケ・通称「番所の鼻」に設けた番所の趾である。 水野領である入田村は、東の大戸村の旗本戸川領、北の岩倉村の松山池田領と境を接しており、常時、下の往来を警戒していた。福山藩は自国の特産品である畳表に使う藺草を漂白する藺土(いどろ)の産出地を、ここ入田に求めていた関係から、その採掘を他領から守るためにも、特に番所を置き厳しく取り締まっていたものと考えられる。 番所の広さは、元禄十三年入田村御検地水帳によると屋敷地としては、拾間(一八m)X四間半(八m)で三畝十七歩(三五四㎡)となっている。役人は、水野家分限帳によると、「一、 六石壱人ふち 入田番所 壱人」と、記載されている。現在屋敷跡や畑の痕跡はないが、唯一、井戸の跡が残されている。』⇒番所設置は水野藩断絶後か?
 この標識は ⇒ぼっけえ史跡 福山側 入田番所跡  史跡案内板の併設あり: by 陶山公民館郷土史研究会

 (入田村沿革) 「笠岡市史」第二巻より抜粋
 『入田村の石高は元禄十三年(1700)「入田村年貢割付目録」によると、三百拾八石壱斗四升七合である。
関ヶ原~天明八年(1788)までの統治は笠岡と同じなるも、吉田・大戸・小平井・篠坂・有田などと共に倉敷代官所管轄に編入となる。其の後、文政十年(1813)2月より一橋領となり明治維新を迎えた。
この間元和五年(1619)~元禄十一年(1698)の79年間は福山藩水野領となっていた。
この水野統治の時代には「入田番所」なるものが入田村下フケの番所の鼻という山裾台地に(前述の)番所が設置されていた。』
別資料だか、明治7年小田縣石高一覧に記載されている入田村は、高三百四十九石五斗 百拾七軒となっているので幕末にかけての190年の間に増産となった石高は僅か30石余り(10%up)の変化である。

      
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01 国司神社の地神碑 山陽自動車道工事で隣の大国堂と共にこの地に遷座。五神名は天照太神、大己貴命、少彦名命などの基本形 2011/04/20
02 備中国名勝考絵図 文化十二年(1815)編集、小寺清之著に採録された「新田池」、別名青草池。現在では仁池と呼ばれているようだ。 2009/02/20
03 陶山氏支城入田城 入田の小字には射場山、的場、平ケ市、峠ケ市などの城下町にかかる名称が残る。ケ市(かいち)は居館跡か? 2011/03/01
      
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入田の中央部に鎮座する四ツ堂。水野藩統治時代にはこの毘沙門堂以外に東光坊と峠の二箇所に四ツ堂があったと、元禄十二年の村明細帳にある。写真の木の根元にも小祠があって石仏が祀られている。千手観音像であろう。御堂の左手には万人講の石造もあって、この辺りが村街道の中心部であったと思われる。ただ、毘沙門天は一間四方の吹き抜け北面の格子戸の向こうに祀られていたが、人為的な破損を受けていた。同行のNさんのハナシではこの堂宇の周りにはあと一体の石仏があったという。足下に蟇のようなモノを踏みつけた像であったという。邪鬼を懲らしめる神像は寺門などでよく見かけることがある。無造作に置かれた石仏が毀されたり持ち帰られたり、無関心という狭間につけ込む邪気である。地域住民の管理だけではなく行政レベルでの文化財保存が望まれる昨今だ。







 「ドウツキ」は胴付、導突か、字は不明。あるいは塘築(とうつき)石が訛ってドウツキとなったのかも知れない。(塘は堤と同じ)
この石の使用法は溜池の土手を固め留時、丸木で櫓を組み滑車でこの石を釣り上げて落とす。つまり地固め用具である。丸石の腹には鉄帯が捲かれており金輪がぶら下がっている。この輪の数だけの人数で吊り上げていたのだろう。錆付いた金具を手に取ってNさんが見せてくれた。「手作りの鍛冶屋さんの仕事だねぇ~。こんな処に無造作に置いて、、、立派な石造文化財だよね。」他の住人の方のハナシだとこの辺りに村共有の「道具収納小屋」があって、その小屋を壊したとき、撤去から漏れてこの場所に残ったのだろう、とのことだった。この石の他にも精米用の米臼が二基、山裾の生活道路の脇に放置されていた。 









 国司神社は天神山の頂上に鎮座。(写真では一番高い茂み)
県道377山口押撫線の北方の赤い屋根が入田集会所。その裏山が天神山。天神前と後の三箇の字地があった。元禄十三年の水野改易後の検地水帳には国四明神は射場山に在った。天神山から西へ三町ほどに宮脇という字がある。その付近だったそうだ。国司神社は大国主命を祀る社で、元の場所に今でも何か残っている、と土地の人に聴いてその場所を訪ねてみた。山の斜面に建つ民家の玄関を繋ぐ小径を辿って歩くと小さな祠が二基あった。一社は朱塗りの屋根の稲荷社で、隣の緑屋根の祠の中の祭壇の木札を見ると「国師神社神璽 明治三十九年鎮座」と墨書されていた。文字通り国司を祀る社=領主の家の産土神であったのだろうか。国司神社境内には摂末社が三社あったが詳細は不明。












 「笠岡市史」地名編、第13章入田村より抜粋
「入田の地形は標高90~100mの盆地、南が高めで東北部が低い。西北に隣接する上稲木村はぐんと高いが、西南に隣する篠坂村との境、ことに平倉と細紐境界に谷中分水境に用水池がある(吉田川と有田川の上流域の交点)。そんな土地の凹みになっている土地が小字「沼ル」(ぬまる)、その下手に「下フケ」がある。フケ(深け)は泥深いという意味である。」
この取り囲まれた盆地の底部地域が入田の良田地帯だ。吉田川の支流となる水源が周りの山から集まってくる。上の写真毘沙門堂(字名、堂ノ上、堂ノ前、堂ノ下)はこの高台に在る。市史によると藺泥を産した土地は三山口(みやまぐち)と石橋。山陽高速道が貫く辺りを「閣面」(こうめん)というが、高免(高率年貢の意)からの転訛だと説いている。歩く感じでは山地であり何の税率だか?











 関藤家の祖霊を祀る社、「関藤左衛門國政神社
入田村東谷に鎮座する関藤家の若宮神社である。若宮信仰は,亡くなった人の霊を氏神とともに祀る祖霊信仰で、この霊廟には関藤家の始祖である関藤左衛門國政を祀っている。この入田の関藤家のルーツについては関藤不二男氏著『よしはま物語』に詳しい。要約すれば国政は遠祖は南朝方の忠臣新田義貞、源氏の岡本氏である。代々伊勢地方の小大名で織田信長に仕えていたが、関ヶ原合戦で岡本国政は西軍に属して戦った。ところが、敗戦によって国政は西国に落ち延びた。最初は備中国市村に匿れ横山氏を称し、自ら尾張浪人で熱田神宮の大宮司の一族を名乗った。後に入田村東谷に邸を構え五ケ村の神官を勤めた。国政から数えて九代目が関藤政方(まさみち、後の関鳧翁)その弟が成章(せいしょう、後の関藤藤陰)である。政方は後に笠岡で医業を営み江戸時代後期の歌人として名を残す。

 所在地: 笠岡市入田東谷


 

No.  国司神社の鳥居松の根   内容 Contents



【現地案内板】 国司神社参道 石鳥居の南側 所在地: 笠岡市入田天神山
鳥居松の根の由来 (字句は原文のママ)
 幕末の頃の入田村は一橋家の天領であった。時の代官が、同じく庄屋であった関藤七左衛門一行の案内で村を視察に廻っていた折、国司神社参道の両側に聳え立つ通称「鳥居松」を見て感嘆し、樹齢を訊ねたところ、的場の与七が即座に千三年になりますと答えた。その訳が軽妙な頓智であったので代官共々、感心した話は後世までも傳はてってた。
時は流れ、太平洋戦争にも神木として供出から免れたものの、而し世は変わり戦後の髙度成長に反比例して何処の山も荒廃し、大気汚染と松食虫の猛威によって松枯れ現象甚しく遂に鳥居松も処分する結果となった。それを哀しむ同志が相計り、せめて其の根を発掘して神を安んぜんと、尚亦、文化財としても末永く保存すべく茲に安置奉納す。 昭和五十三年 九月 吉日


(見るからに巨木でした。。。。) 樹齢を聞かれて、千三年の即答の頓智とは何だろう?
 目通りは?
 笠岡教育委員会が現地案内板に樹木のプロパティ説明に常用する字句。以前より、「目通り」というのは何の長さだろう?と疑問に思っていたので、今回Webでしらべてみた。
「地面(GL)より1.2mの幹まわりのサイズを目通りと言います。」サイズとは樹木の周囲のながさをいうらしい。一方、環境庁調査による「巨樹」の定義では、
「巨樹の定義
1988年に巨樹・巨木林調査を行うにあたり、「地上から130cmの位置で幹周(幹の円周)が300cm以上の樹木を対象とする」と定め、
現在ではこれが巨樹の一般的な定義となっています。 また、巨樹が数本の群生や、広範囲に広がりを持って生えている場合には巨木林と呼びます。」


0000/00/00更新 2011/05/05