| 笠岡新賀 「岩野池」を歌に詠む 俳人在田軒道貞こと吉岡信元伝記 by 笠岡史談会 |
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| 2010/01/05 新賀「岩崎池」を望む里山景色 |
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| 在田軒道貞 没年は元禄8年(1695)年、推定年齢を80才とすると、生誕は元和2年(1616)大阪夏の陣の翌年 |
| 本名は吉岡信元、通称七郎右衛門。東大史料編纂室「読史備要」の俳家系図には「吉岡信光」。慶安四年(1651)発刊の「昆山集」には備 |
| 中信充の名前で「餅雪や日本一の吉備だんご」の句が掲載されているが、いずれも信元であろう。 |
| 笠岡市新賀の人、父は吉岡了貞、初め松永貞徳の門弟たり、師翁没してのち安原貞室に属すと天保九年の「俳家大系図」にある。 |
| 松永貞徳は桃山時代から江戸初期にわたる俳人にして国学者。京都に住し大いに門戸を張った。師事したものは細川幽斎他五十余人 |
| におよぶ。寛永十年(1633)最初の句集「犬子集」を出してより多くの句集が出て、貞門俳諧が確立された。承応二年(1653)没、 |
| 83才、俳諧三神の一人。安原貞室は貞徳の高弟の一人。また貞門の七俳仙のひとり野々口立圓とは特に親交が深かった。 |
| 立圓は初代福山藩城主水野勝成の眷顧をうけ、つづいて二代美作守勝俊にも仕え、文学の師となっていた関係上、福山と京都間をしばしば |
| 往来しその途中に来遊したと思われる。「岩崎の池や新賀のかざり松」信元、「岩崎の松や新賀の若みどり」立圓 |
| 西村燕々氏の吉備俳諧史によると、信元の作品は寛文十年(1670)刊・関卜圃編集の俳諧詞友集に二十句、寛文十二年(1672)伊予宇和島 |
| の桑折宗臣の選集「大海集」には95首、など。句集は天理図書館にいちばん揃っているとのこと。 |
| 俳聖芭蕉の死は元禄7年(1694)10月14日51才、信元の死は元禄8年(1695)年は80才に近いと思われる。確実な年齢は不詳、子孫の家 |
| の過去帳にも記載なし。芭蕉との交流の有無も不明。続々群書類従に輯録されている大阪の俳人西山宗因門の岡西惟中の旅日記「白水郎紀 |
| 行」の中に惟中が吉備津神社から玉島を経て鴨方の句友高戸某宅に一泊、翌朝、尾坂の峠を越えて新賀の信元を訪問したが不在のため会え |
| なかった。止む得ず柿の葉に句を残して笠岡へ出た。浄心寺に泊まり笠岡に逗留、句友西本町の木山十為らと句会を催している。 |
| 信元の父了貞は武家の出であり、大阪夏の陣後に浪人となったようだ。信元もまた武士として当時の新賀の領主宮城丹波守豊盛に仕えてい |
| たようだ。職は多分右筆であろう。期間は不詳。父の死後は帰農の身分となり吉岡ではなく屋号の備前屋を名乗ったとおもわれる。墓石にも |
| 備前屋七郎右衛門と刻まれている。 |
| 父了貞は大阪夏の陣で豊臣方で奮迅し、落城のとき金銅魚藍観音像を背負ったおかげで猛火のくぐり西にのがれた。この縁でこの尊像を新賀の |
| 安養寺に奉納、永代燈油田を寄進した。また浅口・小田・後月三郡にわたる三十三観音霊場を選定した。御詠歌をつくり順路道程・由緒来歴を書 |
| いた巡礼案内冊子をつくり貞享四年(1687)開設した。 |
| 信元が新賀に還ってきたのは父了貞が死んだ寛文七年(1667)前後であろう。延宝五年(1677)12月松山城主水谷左京亮によって新賀村検地 |
| 水帳によればこのときの彼の屋敷は一反三畝二十八歩あって屋敷の所有者は彼の子源右衛門になっている。既に隠居身分であったと思われる。 |
| 彼の残した「吉備物語」(元禄五年1692)「小田物語」(元禄六年1693)はこの時期に在田軒道貞の筆名で出版された。 (2010/01/27 作成) |
| (2010/03/08)「笠岡市史」資料編上巻より引用 原書は昭和3年に県立矢掛高女の教諭・浅野儀一郎氏が某家から一本を借覧し、謄写印刷に付し「備中小田物語」として配布した。原本では 内題「備中小田郡名所物語」、成立は元禄6年(1693)であった。この原書の類本があり、天和・貞享年間に成立したとされる「小田物語」がある。 笠岡図書館勤務の田中舜二氏が発掘しその著者を新賀村の吉岡信元であることを考証した。この類本も原書同様、現存していない。 信元はもと豊臣家の臣で関ヶ原の役の後徳川家に仕え、新賀村を知行した宮城氏に、あるいは宮城氏在地代官の奥村氏の被官人であったと 推測できる。新賀村は寛永二十年(1643)に幕領となり、この期に帰農したのであろう。 |