笠岡市新賀「政所山城」と「二里塚」
 手前道路は、吉田から美星への旧県道48号線
訪問DATE: 2009 04 05 

「政所山城阯」(まんどころじょうあと)△60m
 写真右正面の小丘。ちょうど山口・押撫線が新賀を抜け
て県道48号笠岡美星線との交差部にあたる。
見た目には丘陵が道路によって中央で二分されている。
青い道路標識の向こうが城跡のようがだ、途中墓地への
上り口を上がってみたが、頂上まではムリだった。
雑木と灌木とで道具がないと前には進めない状態だった。
 手前のシャッターを押した位置が大間城(諏訪山城)。
永禄九年(1566)の梅雨の頃に、笠岡から村上隆重の軍
勢千騎がここまで攻めのぼってきたという。
これを迎え討ったのが小田一族の連合軍で、この場所。
から東へ1Kmばかり進んだ「萌黄ヶ原」で激突した。
戦国の笠岡の状態はイマイチ史実が不明瞭である。
平家一門の武将として笠岡イオスナに入り込んだ陶山氏
が鎌倉~室町の幕府に仕えて約300年、足利幕府の滅亡
により下野した後に四国から細川氏が占拠、大内氏幕下
で井上伯耆守忠春が笠岡城代となった。その後、大内氏
に代わって台頭した毛利氏の先鋒四国能島の村上水軍
が笠岡城に入ったとされる。この時期がちょうど萌黄ケ原
合戦の時期になるのだろう。陶山氏の領土を越えて北進
しようと目論んだ結果の衝突だった。

2009/04/06 Created
 
  小田氏の支城、政所山城趾。尾坂川の川原が眼下に見えることから川原田山(かわらたやま)・河内田山(こうちだやま)・
また長い丘の崎なので、長畝の山とも云われた。
走出の尾敷山城主・有岡新之丞の弟、有岡右京が籠もり永禄9年(1566)萌黄が原合戦で村上軍に抗戦したと伝えられる。
県道48号笠岡美星線を隔てた諏訪山城と連携し、挟殺作戦で対峙したと云われているが、決戦となった萌黄ケ原
はこの政所山城~諏訪山城の防御ラインの約1Km北方に在るので、おそらく両城とも突破されたと思われる。
また、「政所」という地名は荘園時代の政務を司る役人たちの官舎があった場所と考えられる。右京は関ヶ原合戦の後は毛利氏
に追従し長門の国に下ったという。
最近の現地調査では山頂付近から刀が発掘されたり累や塚の遺構が発見された。

 

位置図:笠岡市新賀

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