対村上軍への砦「馬鞍山城」
  
永禄八年(1565)小田政清の築城
Back ⇒ ホーム
image0007
備中国 笠岡カントリークラブへの阿倍山道をのぼる
 馬鞍山城(山口)「笠岡市史第1巻」より
標高224メートルの山に築城されたもので、「小田物語」によれば永禄八年(1565)小田政清が築城したと伝えている。
この頃、小田氏の勢力が笠岡地域に浸透してきたことを物語っていよう。小田氏は亀山天皇の裔紀朝臣床上小松氏より出ると伝える。
正平二十四年(1369)小松秀清が地頭として小田庄に入部し、神戸山城を本拠として有力な国人へと成長していった。歌人として著名
な正徹も小田氏の出自と伝える。小田氏は小田康清の時代、在地名を称して小田を姓とした。

 小田氏は備中にゆるぎない勢力を扶植した庄氏に属し、岩屋、竜山(ともに矢掛町小田)に築城し、走出の折敷山城もその支城とした。
後述する諏訪山城も、馬鞍山城の支城として、笠岡に本拠を移した村上氏に対するために築城したと伝えている。小田氏が神戸山城
から本拠を馬鞍山城に移したのは永禄八年(1565)、小田高清の時代といわれる。
小田氏は毛利氏の備中入部とともに毛利氏に属した。小田氏と笠岡地域とのかかわりは先述したように持宝院薬王寺への燈料の寄
進や、梵鐘の寄進にとどまらず、甲弩の神護寺の再建、走出長大明神の再建などがあげられる。
 毛利氏に属した小田氏は各地の戦闘に参加し、文禄元年(1592)小田元家のときには遠く朝鮮の役に出陣し、文禄四年(1595)には
安芸国に所替を命じられた。「長雨に照日の本のてらされば、小田にみのらぬ いねといふなり」という一首を詠んで本貫の地を離れた
と伝えられている。

                                                    位置図: 笠岡市山口(字城山)
image0007.jpg