笠岡市新山の長福寺裏山古墳群
5世紀の築造古墳群から見る古代笠岡を愉しむウォーク
☆2011/04/02 Saturday今回は ひとりで散策(Link to過去ウォークログ)
現地案内板「長福寺裏山古墳群」より(by笠岡教育委員会)
市指定史跡 昭和38年12月25日 笠岡市走出と山口地区の境界をなす90mほどの丘陵が、南西から北東へ伸びています。古墳群はこの
尾根 線上の約600mの区間に列をなして築かれており、前方後円墳、造出付の円墳、方墳、円墳で構成されています。 これらの古墳は、出
土遺物などか ら5世紀代に次々と築造されたものと考えられています。特に双つ塚古墳は備中西部で最大の古墳であり、吉備中枢をやや離
れたこの地域で、この時 期、急速に台頭した勢力の存在がうかがわれます。出土品は笠岡市郷土館に展示しています。
笠岡市教育委員会
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素盞嗚
神
社
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位置図⇒
古墳の案内板が立っている位置に向き合って『ききなの峠(たわ)』というもう一枚の案内板が立っている。以下、その内容。
『笠岡市走出字木々名(ききな)と山口字聞名(ききな)にまたがるこの峠は、古くから笠岡と高梁を結ぶ交通路として利用されてきました。
特に、道路が整備される明治初年頃までは、ここは物資の重要な輸送路であり、また、山口の大名領を通らずにすむ山道にも通じていました。
このため旅人や行商人たちが峠を越えて盛んに行き交わっていたといわれています。
笠岡市教育委員会
古墳道を歩いておもったこと
つい最近になって古墳道の各所の案内板がすべて刷新されて見やすくなっている。前回ここを訪問したのは市民ウォーキングの頃なので二年
ほど前である。笠岡地域の編年表も書き改められて、すっきりした。弥生時代の遺跡・竪穴式住居跡の広場には立派なトイレが建っているが、いっ
そここに郷土館を移転してはどうだろう。移転候補地として他の候補地として笠岡港を望む古城山公園があるが、当地のほうがいいだろう。
さて、笠岡と言えば津雲貝塚。遙か縄文の頃から人々は笠岡に住んでいた。もっと遡れば笠岡諸島から石器時代の遺物も出土されているようだ。
その後、弥生時代を経て5世紀にはここに多くの人々が住んでいた。農業に適した土地を求めてこの辺りに集落が形成されたのであろう。
津雲人と同一の種族だったかどうかは解らないが、出土した副葬品からは朝鮮半島からの影響を受けた装飾品や武具・農具など、吉備~近畿にひ
ろがる古墳時代の人々とおなじ文化を共有する領域であった。立地は東西600mの丘陵は南北に平野部が広がって見晴らしがすこぶるいい。
現在、遊具や運動公園になっているスペースが生活空間であったかもしれない。遺跡として確認できているのは竪穴式住居跡の一箇所のみ、という
のは寂しい限りである。白鳳時代の古刹「関戸寺」の場所はこの古墳から2Kmほどであろうか。当時は尾根から甍が視認できたことだろう。
広々とした駐車場があり、眺望と空気のいいこの地区は今後も多くの人々が古代への思いを語る聖地として活用できれば、と思った次第。
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七
つ塚古墳
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☆七つ塚古墳群 五世紀前半 一辺が10mにも満たない方墳4基が並ぶ。1号墳 一辺9m、高さ1m弱。内部は長さx幅 2.2 x 0.5mの箱式石棺この箱式石棺に副室が付いており、須恵器・壺とハソウ、土師器の椀あり。主室からは刀・剣・鏃・斧・鍬先などの鉄器と滑石製(かっせき)勾玉・臼玉が出土した。2号墳 一辺8m、高さ1.5m。1号墳よりは古い。内部主体は木棺で、墳丘の裾から須恵器の壺と甕の破片が出土した。 3号墳&4号墳は1号墳より先行して築かれたと思われ、墳丘盛土はほとんど失われている。4号墳の内部主体は木棺で、棺内から鉄刀が出土。これらの古墳群の出土品は朝鮮半島との関わりをうかがわせるものである。(この塚が最古、木棺と石棺の折衷で方角もまたバラツキ) |
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双つ塚古墳
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☆双つ塚(ふたつづか)古墳 5世紀中頃
墳長60m 後円部径40m 高5.5m 前方部幅38m 長30m 高6m 備中西部の最大の前方後円墳。墳丘の周りには淺い周濠と周庭と呼ばれる土手のような高みが巡っている。墳丘は二段築成で、埴輪列が段築部と前方部のつけ根のくびれ頂部で確認された。埴輪の特徴からこの古墳が仙人塚古墳よりも古い時期に築造されたと思われる。 後円部には盗掘穴あり。内部主体は完全に破壊されている。穴の中から銅鏡一面を採集。この周庭東側に接する位置に小古墳群3基が並び、北端1号墳(径13mの円墳)から円筒埴輪が出土した。(双つと呼ぶのは前方部と後円部がそれぞれ盛り土となっている由縁かも) |
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仙人塚古墳
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☆仙人塚古墳 五世紀後半
円墳で墳長35.5m 高5.5m 造出部 長13.5m 高1.5m周濠と周庭をもち、円丘部の周囲には葺石が鉢巻状に巡る。造出部から須恵器が出土し埴輪列も確認。 円丘部には二つの竪穴式石槨(せっかく)あり。一つ目の石棺は中央の深い位置にあり長さ3m幅・高0.8mで扁平な石を積み上げ床に丸い石が敷かれていた。副葬品として明治時代にここから掘り出された短甲が米メトロポリタン美術館に収蔵されている。二つ目の石槨は墳頂表土直下にあり。盛土が流出し破壊が著しく、下半分のみ残存。石槨が上下に重なって埋葬されている円墳。(埋葬者の上に土を盛りて次ぎの埋葬者を重ねる手法が一般的なのかも) |
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東塚
古墳
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☆東塚古墳 五世紀後半
仙人塚古墳の後の築造の前方後円墳、墳長50m弱、後円部 径長25m 高3.5m 前方幅 28m 高2.5m墳丘の周りには周濠と周庭をもつ。円筒埴輪が出土。過去開墾により墳丘の南半分が崩されていたが、平成12年に復元された。前方部の竪穴式石槨は半壊状態で 残存。墳丘の長軸に平行し幅1.2m
長3m、床面には平石を敷く。 出土品は小型の五獣鏡、瑪瑙製勾玉、滑石製臼石、武器、工具、農具、馬具などの鉄器と短冊型の砥石、木棺用の大型鎹(かすがい)など。(仙人塚につぐ出土品が多いのは時代が下る豊かさの証しなのか、盗掘を免れた幸運なのか) |
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現地案内板より抜粋 「古墳の作られた時代」より |
内容 Contents |
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2011/04/01 現在 ↓ |
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新山から見る長福寺裏山(長尾山)遠望
古墳群のある山を長福寺裏山と呼ぶ。命名された時期には長福寺の影響力が強かったことを物語る。
今も土塀に囲まれた武家屋敷を彷彿とさせる古刹である。
長福寺 ⇒ ClickHere |
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長尾山の裾野の集落に木山捷平生家あり⇒ClickHere |
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0000/00/00更新 |
2011/04/01 |

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