「笠岡地域の荘園と街道」 (講座)


  by 東京大学史料編纂所教授 榎原雅治氏

地名考

にいやま「文化を楽しみ育てる会」主催、秋の勉強会
 
  2009/09/06 Sunday 13:30 ~ 16:00 於:新山公民館
      聴講者は地元の会員+笠岡・井原・福山など約60名

荘園制度の発生と概観

  荘園とは奈良・平安の中央集権的律令国家の徴税と民治の体制の変化から発展した治政形態である。
従来は中央政府が全国に国・郡・郷(里)を置き直接治めていたが、中央政府に代わり貴族・大寺社・緒官司
が自力救済的に武力・裁判権を持ち、収入を確保する体制を持つに至った。
文献史料では政府直轄支配地(国衙領・公領)が国の下に見られる郷・保と表記され、荘園地域は荘(庄)と
区分されている。

  荘園の発生要因は戦前では大貴族・大寺社が地方に大土地を占有することによる、あるいは独自に開墾
した土地が荘園となったという考えであったが、現代では中央集権的は徴税制度の麻痺し国家財政確保を目
指した国家政策の転換があったという見方が主流である。

近隣の荘園分布と痕跡

  小田郡・後月郡の荘園分布は下表に、鎌倉初期の岡山県域の公領と荘園の分布状況は下図のとおり。
赤が荘園、青が公領分布である。公領は主要都市部(岡山・総社など)と交通流の要衝である山陽道沿線
と旭川・吉井川・高梁川沿地に集中している。当時の川舟は岸に沿って人が綱で引っ張って川を遡上した。
この分布から荘園が自然発生的に形成されたものではなく、政府主導の意思が見える。
荘園支配は中央にいる貴族・社寺などの領主が地方に荘官・下司・公文などを派遣し、地方の名主(みょう
しゅ)と呼ばれる有力百姓などを統括した。この政務をおこなう場所を政所(まんどころ)と称した。
荘園支配の工夫として、領主たちは地方に鎮守(宮・寺)などを都より勧請して信仰の共有を図った。藤原氏
一族氏神「春日や興福寺領では「春日神社」、延暦寺など比叡山領は「日吉神社」、東寺領には「大師堂」が
建てられた。これらの鎮守では雨乞い・疫病除けなどの祈祷がおこなわれると共に、領主たちの年中行事が
地方の政所・鎮守でも同時に催行された。
その行事は現在まで引き継がれているものがある。正月のかきぞめ(鎌倉末期の年初文書作成行事)・とん
ど焼きなど、同時に領民たちは領主に対して年中行事にあわせ贈り物をした。これが次第に銭納に変化した。
(正月(鏡餅)、三月(草餅)、五月(菖蒲)、七月(瓜・茄子・索餅(麺)・蓮メシ=蓮の葉に載せたメシ、九月
(菊)、歳末(炭)など。

岡山県域の公領(青)と荘園(赤)分布 鎌倉中期の県域内武士団分布

鎌倉中期の武士の台頭
 

   源平合戦のあと源頼朝が鎌倉幕府を開いた。
その後、後鳥羽上皇による承久の乱(鎌倉幕府では、東国を中心に諸国に守護、地頭を設置し、警察権を掌握し
ていたが、西国は支配しきっておらず依然として朝廷の力は強く、幕府と朝廷の二頭政治の状態にあった。
その頃後鳥羽上皇が承久3年(1221年)に、鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱)、蒙古襲来(文永
の役(文永11年・1274年)と弘安の役(弘安4年・1281年))の混乱を乗り切った鎌倉幕府の支配体制は強固な
ものとなる。鎌倉東国武士たちは地頭となって地方に下り、それまでの荘園の地方支配者(下司・公文)に代わ
って荘園領主に年貢を納める役割を担ってゆく。地方に派遣された東国武士は鎌倉幕府に対しては兵役の義
務を負っていたが、年貢の未納、山野の利用方法などをめぐり荘民同士の紛糾の解決をめぐる争いが生じた。

地頭・領主の対立と下地中分(したじちゅうぶん)

   下地中分とは、日本の中世に使用された用語で、荘園公領制下の土地の分割を指し示す語である。鎌倉
時代中期から南北朝時代までを中心に、主に西日本で見られた。このような分割が行われた場合に両者が図
面(「伯耆国東郷荘下地中分絵図」など)を作成したことを窺わせる史料が残る。

   荘園領主と地頭との対立が激発し、解決策として荘園土地を折半し領主領と地頭領に分けるた。これが下
地中分である。あるひは現地荘園の支配は地頭に一任し、荘園領主は一定額の上納を受領する契約=地頭
請負の手法が取られた。

この近隣で下地中分の具体例が現存する地域に大島と甲弩に見られる。

大島・大浦神社競馬の株の分布 小田四ケ村の地名と祭礼からの痕跡

大島神社の競馬神事

   備中国浅口郡大島は三分されていた。まず六條院領の大島保、ここは現在の鴨方にあたる。二番目が大
島新庄で現在の里庄。三番目が徳大寺領であった大島本庄。ここは現在の浅口市寄島町と笠岡市の大島地区
に当たる。大浦神社は大島本庄の鎮守で、毎年十月に催行される競馬神事は「株」をもつ家によって運営されて
いる。
 この株は地頭株と領家株に二分されており、株はその株の名前(土地の名)・住所・人名が登録されている。
この株の分布状況図が上の左図。赤字で書いた笠岡西大島地区には地頭株が分布し、東の寄島地区(旧東
大島)には領主株が点在している。この分限線が鎌倉時代の下地中分線と思われる。

小田四ケ村の地名と祭礼
 
   「笠岡市史」によると、明治初期まで、甲弩村は「山手組」と「沖組」に分かれていた。幕末の文献には、甲弩村
は「地頭」と「領家」に分かれていた。甲弩神社の祭礼で、大正ごろまでは分かれて競馬神事をおこなっていた。
これも鎌倉時代の下地中分の名残とおもわれる。
また社寺・地名からみると、甲弩神社は現在甲弩・走出・山口・新賀・吉田の総鎮守であり、これは小田四ケ村の
総鎮守だったのかも知れない。神護寺来迎院は領主の大原来迎院の末寺であった可能性、新賀の政所山城・走
出の小字の政所は荘園時代の政所の場所の可能性、走出の竹宮・持宝院は走出の鎮守かもしれない。
以上の場所を地図に落としてみると、上の右図のとおり。
北側には神戸山城、南には鎮守・政所山城などがあることから北が地頭領で南が領家、単に甲弩だけでなく小田
四ケ村の下地中分がここにあった可能性が高いと思われるが、推論であり今後の検証が必要になってくるだろう。
検証の方向として、甲弩村の中分線が甲弩だけのものか小田四ケ村のものなのかを祭礼・伝承などを調査し立証
してゆく。また矢掛町の小田地区を含めた地名や伝承調査も必要であろう。

新山周辺の中世文献調査

    全般的に中世文献は少なく、この地域関連で6文書あり。これは多くもないが少ないとも言えない数である。
実相院文書     後醍醐天皇時代、1336年、走出庄の史料。走出庄を京都岩倉・実相院に安堵の記録。
            (走出には政所という地名、独自の鎮守・竹ノ宮(艮)神社があり甲弩・新山とは別荘園)
御前落居記録   室町5代将軍足利義教時代の裁判記録。1431年、正徹の裁判記録あり。
草根集・松下(しょうか)集  正徹とその弟子の歌集、足利義政の時代、1431年訴訟の顛末記録あり。
久我家文書  上級貴族久我家(こが)に伝わる文書。小田四ケ村が大原来迎院の所領だった記録。
東寺百合文書(ひゃくごうぶんしょ) 真言宗本山京都東寺に残る文書、当時の史料数20万点のうち5万点はこの
          東寺文書。前田家が文書整理に「いろは」と「イロハ」の仮名2分類の合計百の函に整理したこと
          から百合文書という。小田・山口・新賀の初見史料、荘園検注(正検・内検)専門技術者のメモか。
          京~小田間の交通費と読める記述あり。「下用途一貫文」 南北朝時代の「今川了俊日記」には
          山崎・湊川・高砂・龍野・長船・辛川・矢掛と7泊し1貫140文とあり。1貫=10万円くらいか。

小田四ケ村付近の街道と町

   地名から「宿」と「市」のつく場所をプロットすると当時の山陽道となる。

大島・大浦神社競馬の株の分布 地名と祭礼の小田四ケ村の痕跡


*** 小田郡・後月郡の荘園  ***  平安後期・鎌倉時代

【小田郡】 

古代 中世 荘園領主 有力な武士
実成郷(みなりごう)         三成庄          南禅寺              平石氏              
拝慈郷(はいじごう) 小林庄
駅家郷(うまやごう) 駅里庄 安楽寿院/九條家 三村・庄氏
草壁郷(くさかべごう) 草壁庄 某親王家⇒善入寺 小田氏
小田郷(おだごう) 小田四ケ村 大原来迎院
甲弩郷(こうのごう) 小田氏
走出庄 実相院
魚渚郷(いおすなごう) 陶山庄 陶山氏

【後月郡】             
古代 中世 荘園領主 有力な武士
荏原郷(えばら)           荏原郷          ?                 那須氏・伊勢氏         
井原庄 摂関家/相国寺 伊勢氏
縣主郷(あがたぬしごう) 縣主保 昭慶門院/青蓮院・尊勝院
出部郷(いずえごう) 出部郷
足次郷(あすわごう) 足次郷?


神護寺境内から甲弩・小田を望む
2009/09/07