伝えたいわがふるさと


にいやま「文化を楽しみ育てる会」監修 2008/10/25刊

地名考

新山村の誕生:笠岡市史からの抜粋。

 明治21年(1888)市町村制が公布され、一年後の明治21年4月1日より全国的な市町村合併が施行された。
現在の笠岡市域内39ケ村は合併して15ケ村に統合された。
このとき明治以降の「新賀村」と「山口村」とが合併し、双方から一文字ずつとって「新山村」が誕生した。
「町村合併標準:有力ナル町村タランニハ相当ノ区域及ビ人口ナカルベカラズ。三百戸以上ヲ常例トス」
 明治24年当時、合併の後の村勢は戸数410、人口男1,075 女992 、昭和28年に笠岡市との合併となるまでの65年間は小田郡新山村が存続。

新山村の地名と支配:「伝えたいわがふるさと」からの抜粋。 → 出版された書籍のReview

 山口・新賀村は古くより「甲弩郡」に属したものと考えられ、名前が歴史文献上に出てくるのは室町時代永享3年(1431)の『御前落居記録』である。
 「大原勝林院通厳申来迎院領備中国(小田・甲弩・新賀・山口)四箇村事」と書かれている。この書は足利幕府6代将軍義教の訴訟審理裁断で、
 120件が記録として残っている。 
 新賀の地名につき「甲弩郷史談会」の記録によると、
 「シンガという音読地名は少なく、新しい土地の意。新賀は新開(新涯)の「イ」が抜けて好字の「賀」を充てたものであろう。
 本郷の地は尾坂川のつくった扇状地で砂礫の地である。安養寺の縁起書に「寛文の頃(1661-73)まで、東西南北竹藪、小石池。。。未開発」とある。
 その記録内容は、山口・新賀が京都大原の来迎院の社寺領(荘園)の譲渡にかかる紛糾)
 新賀村の領主は毛利支配後、関ヶ原合戦の後は幕府領、「寛永備中絵図」には「新加村」とあり石高426石、慶長10年(1605)~寛永19年(1642)
 の37年間は旗本宮城領(徳川談判衆)、この後幕府・庭瀬・幕府と変遷し、文政10年(1827)より一橋領として幕末を迎えた。

 山口の地名由来についての文書は、宝暦年代(1758ごろ)に書かれた「谷本家文書」
 「当村を山口と名付けたる事、先年有て其の所をまぶ口といふ。金山口ゆえ山口と名付けたり。久司村(楠)、中ノ才當を申也。」
 またこの地域には平安時代よりの熊野五流の修験道の名残がある。真言宗醍醐寺派の系統として山伏寺「明王寺」がある。この寺の本尊は甲弩
 の神護寺と 同じく不動明王である。修験の山に入る口を「山口」と呼ぶ例に吉野山口神社がある。
 山口村の領主は、戦国末期より毛利支配を経て、関ヶ原以降は幕府領、慶長14年(1609)~寛元12年(1672)の64年間は岡山藩主池田光政公の
 母福正院の化粧領(953.43石)、その後元禄12年(1699)以降は庭瀬領で幕末を迎えた。
       
社寺考
小田七代220年の統治:小田・甲弩・山口・新賀

 応安三年(1370)小田の地に庄ノ上小松秀清(とこのうえひできよ)が地頭職として京都より入部した。この秀清の出自は紀氏で亀山天皇の後裔、
曽祖父は石清水八幡宮の一山百坊を治める僧侶。
石清水八幡神社は源氏の氏神とされ、鎌倉・室町将軍らに信仰されており、そのうえ秀清の伯母は足利三代将軍義満(1368-94)の母。
その縁から、秀清は義満が将軍になった翌年、応安三年に地頭を命じられ、僧籍を離れ「床ノ上」を名乗って武士になり小田に入部した。 
そのころの小田、甲弩は、足利尊氏兄弟が演じた骨肉の争いで破れた弟=直義の領地で荒廃しており、新賀や山口を守っていた武士たちも喜んで
床ノ上秀清の家来になったに違いありません。
 秀清は義満にたいそう優遇されますが、小田神戸山に城を築き、床ノ上を小田にかえたのは二代康清 です。康清の弟に室町時代を代表する歌人
僧・清厳正徹(しょうげんしょうてつ)がいます。正徹は七十八歳と長生きをして、長禄二年(1458)に没していますが、歌集「草根集」、歌論書「正徹
物語」、紀行文「なぐさめ草」などが現存しており、卓抜な発想を駆使した夢幻的な妖艶美を形象した和歌によって、中世第一の歌人とされています。

萌黄ケ原合戦後の動向: 小田家家系図(資料:「神辺城と藤井皓玄」より)
 萌黄ケ原の戦いの後、政清は屋敷山に隠居して六代目高清が馬鞍山城主となります。
(小田氏が本拠地を神戸山から折敷山にその本拠地を移したのはこの高清とされる))
さて、これより十六年後の天正十年(1582)六月。
小田氏七代目を継いで馬鞍山城主となった元家は、水攻めにあっている備中高松城の
救援に出かけています。このとき元家は毛利軍の先頭にたって羽柴秀吉を悩ましてい
ますが、家来の中には、新賀・山口から出かけた者も必ずいたに違いありません。
            
 元家の陣営であった目指山(ひさしやま総社市)のふもとには、現在、記念碑が建て
られています。 その後の元家は、秀吉の天下になると「朝鮮の役」に出陣して海を渡り
(文禄元年(1592))ますが、文禄四年(1595)、毛利輝元に呼び戻され側近の「鷹あず
かり」となります。
しかし、その別命こそ安芸小田(東広島市)に領地替えせよとのことでした。
そこで、元家は、小田をはなれる歌一首
  (長雨にて日の本のてらざれば 小田にみのらぬ いねをいうなり)
を詠み、泣く泣く馬鞍山を下ったといいます。

 その後の馬鞍山には毛利氏の城番が詰めていましたが、「関ケ原の役」後は徳川氏
の代官となった小堀氏の城番にかわり。元和元年(1615)、徳川家康の出した「一国一
城令」 によって一夜にして壊された、と伝えられています。
谷本家文書には、貞享年代(1684)崖崩れしたとあります。 元文二年(1732) の古地
図には、古城山とあり城跡のような形が書き込んであります。
 なお、小田氏の家宰(家老)だった広井氏や、家来だった人たちは、この地に残って
郷土づくりに努めてきました。


 

景色考

 新山のみどころ:サイト内リンク
 

No 表題 事 跡 備考
08 荒神社参道地神 疫神社鳥居の間に立つ五神名地神碑は五角形の基壇があり主神天照大神は北面に鎮座、かなりの劣化  2012/04/12 
01 古代スポーツ公園 古墳時代にこの地方を治めた豪族たちがいた。前方後円墳を筆頭に多くの墳墓がこの地に眠る。市民憩い地 2008/12/13
02 政所山城跡 新賀は京都来迎院の荘園だった。この政務をとりおこなう場所を政所として今に地名として残っているという。 2009/04/04
03 井笠鉄道新山駅 大正2年11月17日に開通した井笠鉄道の現存する唯一現役の駅長さんと「新山駅」舎。鉄道博物館的存在だ。 2009/04/06
-2 同上 (2) 井原史談会会報に載った「井笠鉄道唱歌」 by井上奈緒氏「史談いばら」No28 2009/07/06
04 文豪木山捷平生家 彼の作品は未だに未読。市主催の市民ワーキングに参加したとき、捷平生家を訪ねたことを思い出してUpです。 2008/12/13
05 磐座の岩上神社 巨石を取り込むように本殿が建っている。その脇には自然石を組み合わせた祭壇があり、これが本殿か? 2010/01/05
06 長福寺裏山古墳群 井笠地方で最大・最多の集積古墳群。中期古墳時代、5世紀の成立なので造山古墳とほぼ同時代の遺跡 2011/04/02
07 海神社 わだつみじんじゃと読むそうだ。 訪問予定



☆2009/04/03 「にいやま文化を育てる会」の国定氏に面談、初対面にもかかわらず史跡案内をいただいた。
 国定さんは郷土史探究と創作民話の著作、ハーモニカ演奏、絵画、朗読など地域文化の啓蒙と普及など多分野で現役、ひっぱりだこのご活躍。
 ぶしつけのおしかけ訪問に、ご多忙のところ時間を割いていただき、新山史に関し種々ご教示いただき、お世話をおかけいたしました。
☆2009/09/06 13:30-16:00 「にいやま文化を育てる会」主催の『秋の勉強会』に出席。
  表題: 笠岡地域の荘園と街道
  講師: 東京大学史料編纂所 教授 榎原雅治氏 ⇒ にいやま文化を育てる会の会長が現役教師の頃の教え子だっといういうご縁で実現とか。
      中世荘園制度については造詣が深く著書も数あるとの紹介があった。 その著書=アマゾン書店 
  講演会MemorundomView⇒ ClickHere
 

No. 表題 Title   内容 Contents
001  北部笠岡の戦国山城位置図  画像みる    ↓
     
岩屋山城

折敷山城

馬鞍山城


政所山城

諏訪山城
 政所山城(まんどころやまじょう)△66m 「伝えたいわがふるさと」より

 ここは、川原田山、河内田山、長畝山とも名がついていますが、政所山は、この他が京都大原の来迎院領の荘園であったことの関係が
あると思えます。
 政所とは荘園の事務を取り扱っていた所で、走出庄は、武宮(たけのみや)のあたりが政所だったと比定しています。新賀の政所も同じ役割
をしていたのではないかと考えられます。
 永禄九年に起った「萌黄原」の戦いでは、小田氏の家来になった有岡右京が守り、向かいの諏訪城とともに、村上軍をはさみ戦ったと
思われます。(小田家持の時に広井市郎宇右衛門・中谷孫右衛門が在城した。「備中集成志」)


 諏訪山城(すわやまじょう)△70m → ClickHere

 山口と新賀の境にある標高約七十メートルの台地の端にあり円形の城で、大間の城山とも呼ばれ、ふもとの開発領主中谷孫右衛門
が守ったとあります。このような城を陣城とも詰城ともいいます(馬鞍山城の支城として村上戦時に築かれたとされる)。
 在田軒道貞は 「備中小田物語」 の中で「大間の城山、すわ山ともいえり。この山は当村新賀のきかいなり。むかしむかし笠岡の城主
村上高重、吉田まで手に入れ当村へ切り入り、手負い死人数を知らず。紅波楯(こうはたて)を流し山野の草木を染めて色かわりけるゆえ
に、今に萌黄原となん申しはべる」と書いています。


 馬鞍山城(まくらやまじょう) △224m ⇒ 2009/09/06 麓まで接近 ClickHere

 馬鞍山に城を築いたのは五代目となった小田政清です(「小田物語」によると永禄8年(1565))。
その頃のことを記している在田軒遺貞の『吉備国温知伝』によると、時は戦国時代の真只中、政清は、有岡新之丞の治める走出村を奪い
取ろうとして、折敷山城を見下ろす小田川対岸の岩屋山に出城を築いていました。
 ところが弘治元年(1555)の秋祭の夜、とつぜん攻め寄せてきた軍勢によって神戸山城を奪われてしまうのです。このことは「下克上」の時代
ですから不思議なことではありません。道貞はこの軍勢を矢掛猿掛城主の荘実近としていますが、このとき備中石に威勢を張っていた荘(庄)
氏は没落しているので、歴史上では別人(三村氏か宇喜田氏か?)のようです。
城を奪われた政清は一時、木ノ子村の三光寺に隠れます。そして、備後(広島県東部)の鞆まで逃げるのですが、ここにも追っ手が迫ったた
め四国の細川氏を頼って海を渡ったといいます。
 さて、四国に政清が渡って十年目となる永禄八年(1565)五月。十三代将等義輝が家来に暗殺されるという事件が起こります。
これこそ「下克上」の最たるものでしょうが、政清にとっては吉報でした。というのは、備中地方の半分までを平定した毛利元就が、「政清を小田
に戻してやる」、というのです。しかし、元就の腹には小田家の縁戚である次期将軍へむけた、思慮深い何かがあったに違いありません。
この喜びを道貞は「死人が生き返り、枯木に花が咲いたようだ」と書いています。

 小田に戻った政清を待っていたのは海賊の脅威でした。海賊の大将は村上隆重です。三十年前の天文年中、笠岡に上陸した村上水軍は、
地頭の陶山氏にかわり吉田までを手に入れ、元備中守護であった細川領の鴨方までを攻め、次は新賀だと狙っていたのです。
 笠岡より新質まで約七キロメートル。馬に乗って駆ければ三十分。鎧を着て走ったとしても二時間ほどの距離です。そこで、政清は新賀の
諏訪山と政所山に出城をかまえ、馬鞍山に本城を築き、ふもとに根小屋と呼ぶ屋敷を開こうとしました。一日を争うこの城作りには新賀・山口
はおろか小田までの領民も駆りだされて、苦しい日々を送ったに違いありません。


 折敷山城(おしきやまじょう) △65m → 探してみました ClickHere

 
標高65mの北頂と87mの南頂とに分かれており遺構は北頂を中心とした丘陵にある。
この山城は別名有江城・有岡城と呼ばれ、天文年間(1532-55)ころ、有岡新之丞が在城したと伝えられる。永禄7年(1564)備中・備前の武士
たちの龍の口合戦で討死した小田小太郎の死骸をその重臣有岡右京と名越修理が引き取ったとも伝えられている。有岡氏は小田氏の被官人
とされるが、寛正5年(1464)の備中新見庄の資料に、「有岡左近将監」とあり、細川氏の有力被官人の一人で、吉備津宮の別当職を有する家
とも伝えられる。(この項「笠岡市史」より)
 また関ヶ原合戦の後、宇喜多秀家の家臣楢村監物の居城となったと伝えられる。城は本丸の南側に二の段、三の段を配し、北に北の丸、西
に西の丸を配し、この間にある堀切は見応えがあるそうだ。みちゆきは北側の搦め手方面からコンクリートで舗装された細い路地を登ると本丸
に達することができるとか → 城郭放浪記より

002  「萌黄ケ原」の古戦場跡、現在は山口「中ノ才」バス停付近  画像みる    ↓
 決戦 萌黄ケ原 「伝えたいわがふるさと」より

 村上隆重の一千騎が新賀に攻め寄せて来たのは永禄九年(1566)の梅雨。この奇襲を知らせるため、馬鞍山からは鉦(かね)や板木
が打たれ、小田神戸山城に向けては狼煙をあげて馬を走らせたに違いありません。これを聞いた土豪や百姓たちは槍刀をひっさげて、
諏訪山・政所山の出城に集まってきます。
しかし出城をまもるのは十年間も放浪した政清の家臣や、走出村の一村領主でしかない有岡氏の軍勢です。
それも大半が百姓だったでしょう。   
それに比べて水軍勢は、百戦錬磨のつわものたちです。火縄銃を使うのですから晴れ間をねらってのことでしょうが、尾坂川の流れや
水を張った田の地形からすると、まず有岡勢の守る政所山城が孤立したに違いありません。
そして西半分を取り囲まれた諏訪山城の運命も、風前の灯火です。そこで政清は早馬を小田の西(井原市)にある高越山城に走らせます。
高越山城の主人は伊勢氏(盛勝・高晴父子)で、関東一円を領地にした伊勢新九郎(北条早雲)の生まれた城です。ここに政活は援軍を
頼んだのです。というのも城主は政情の娘婿だったからです。そして、政情は猿掛城の穂井田氏にも早馬を走らせます。
 すは敵よ 馬の鞍おけ はな軍     道貞 (「小田物語」著者 『在田軒道貞』俳人・新賀の人・実名吉岡信元 ⇒ ClickHere

伊勢氏の援軍が来たのは夜で、松明を高々と掲げながら聞き名の峠を続々と下ってきたことでしょう。
そして穂井田勢は、東の堺辺から駆けつけてきます。二軍を合わせると五、六百人にもなります。この援軍を見て齢六十となる政清は
《これだけの鎧武者が集まったのなら乾坤一擲、二度と新賀の地を海賊に踏ませぬよう叩き潰してやれ》と思ったにちがいありません。
 そこで政清は夜陰にまざれて馬鞍山を下り、中のサヤに軍勢を集めます。つまり、地形のすみずみまで知った草原を舞台に決戦は
繰り広げられたのです。
 戦いは小田勢の勝利でした。しかし一方的な勝利ではなかったようです。その激戦のようすを道貞は「手おい死人数を知らず、飛び
散った鮮血は楯までを流し、草木を染めて萌黄色になった。ゆえに、中のサヤの一帯を『萌黄原と呼ぶようになった。』」と書き残して
います。
  夜軍を するや蛍火 もえぎはら   道貞

なお、この書ではこの合戦で走出領主(政所山城主)、有岡右京が小田氏の麾下にはいったと書いている。
「新賀村政所山城主有岡右京は走出村城主有岡新之丞の舎弟なり。この城は笠岡の村上と小田と戦の時、築けるとなん。(備中府志)」


萌黄ケ原合戦【森本繁氏著「村上水軍全史」】

  天文九年(1540)秋、村上宗勝(後の隆重)は小田氏への攻撃を開始した。これは小田を支援している尼子氏が、安芸毛利氏の郡山城攻略に向かっている間隙を衝いたものだ。小田氏も負けずに反撃し、激しい攻防戦が展開されて、戦場一面の野草を流血で萌黄色に染めた。
したがってこのときの戦いには、萌黄原合戦という名がついた。だが、宗勝はこの合戦に敗れた。備中の国人領主であった矢掛猿掛城主穂田氏、井原高越山城主の伊勢氏などが小田氏に加勢したためだ。勝った小田氏は南下して笠岡伏越の吸江山に迫り、笠岡城を占拠しょうとした。
 そこで大内義隆は能島村上の救援に乗り出し、配下の備後国人衆渡辺杢之允正を急遮笠岡へ進出させて、小平井を占拠させた。渡辺正は備後国沼隈郡山田の城主である。また竹原小早川氏に命じてその家臣井上春忠を笠岡へ派遣させ、陶山氏の旧領を小田の侵略から守って支配させた。井上春忠は命を奉じ、大内氏の代官として陶山氏の歴代の居城である龍王山の居城へ入った。
 すなわち、天文二十年までの小早川隆景の備中笠岡進出は、こうした大内義隆の尼子氏との対抗戦略を実現するための行動であり、主体的なものではなかったが、この年九月になって、大内義隆が家臣の陶隆房に拭されて没すると、今度は毛利氏による備後・備中経略の先鋒としての使命を担って俄然、積極的な行動を開始した。
注: 萌黄ケ原合戦が天文九年(1540)秋と書かれているが、地元新山の歴史では永禄九年(1566)の梅雨とあって26年の差あり

  以上の状況は笠岡の支配が陶山から大内・毛利への移行期の戦局であり、陶山一族なき後の尼子勢とのせめぎ合いの様相であろう。笠岡に馴染み深い備後国人衆渡辺杢之允正や井上伯耆守春忠などが歴史の舞台に登場する背景の説明とそのストーリーである。また同じ時代に、笠岡の近隣の神辺城をめぐる攻防では尼子と毛利の二大勢力の軋轢に吉井正霊山城主藤井皓玄が翻弄されている。なお広浜の小寺十郎左衛門尉元武は小早川隆景の志川滝山城後略後、東進笠岡進攻に伴い対村上隆重調略の功により広浜に知行を与えられている。
(天文21年(1552)付、知行宛行状「萩藩閥閲録」田畑二町七反歩)


003
民話「おそめ塚」 by 国定和義氏 画像みる    ↓

この碑の場所は長尾山(長福寺裏の古墳丘)の中腹:

  むかし、備中松山の殿様に「おそめ」という娘がいました。松山中でも評判の美しい気だてのよい娘でした。ところが、足軽と仲良くなった
ので、殿様が大変怒って家来に捕えて打ち首にするように命じました。家来は可哀想に思い、こっそりと逃してやりました。
おそめは、ひとりで暗い夜の山道をいくつも越えて、たどり着いた所が山口の親切なお百姓さんの家でした。おそめは、その百姓さんの奥ま
った部屋にかくまってもらっていました。
しばらくして、百姓家にいることが知られたようなので、近くの古墳の中で暮らすようになりましたが、追手が感づいてしまいました。地元の人
たちは、相談して、この娘を絶対渡すわけにはいかないとがんばりましたが、とうとう遣手に捕まってしまいました。
おそめは、城につれもどされる途中、猿掛(現小田郡矢掛町)で打ち首にされてしまいました。殿様から命だけは助けるという許しが届いた
のは、そのすぐ後のことだったということです。
 伝え聞いた地元の人たちは、おそめを手厚く葬りました。
おそめが暮していたと言われる「おそめ塚古墳」は、山口の竹ノ内地区にあります。昭和の初期に真っ二つに掘り崩されたまま、今も竹薮の
中に残っています。横穴式石室に使われていた石組みは、道路の礎石になったと伝えられています。近年個人により「お染塚」の碑が建て
られお奉りしておられます。  

2009/04/06作成 12/4/12更新