用之江の菅原神社
陽光注ぐ南面した小高い丘に鎮座する社
備中国小田郡用之江村:市史からの抜粋『皇国地誌』(明治9年)
本村昔時ヨリ本郷ニアリ漁渚郷ニ属ス爾来其称ヲ改メズ。
社(やしろ) 菅原神社
拝社地東西八十四間・南北十三間、面積三反六畝廿五歩 村ノ中央岡阜ノ裾ニアリ、祭神菅公本村の氏神タリ
樹林之を囲繞ス
菅原神社位置
本社は天神端の山裾、用之江を通る幹道に沿って標高10mほどの小高い丘に本殿を南方(茂平方向)に向け鎮座されている。
用之江を通る幹道は、東へは野々濱~大門~坪生~深津~福山へ、西に向かえば大冝~吉浜~西浜~笠岡へとつづく古来からの重要路だ。
この参道への石段付近に、村の神々がひしめいている。道路を挟んで向き合っている碑が「社稷碑&常夜燈」でこの並びには地蔵尊と太子堂が建っている。
また参道口の真南には金刀比羅宮と刻まれた常夜灯が在る。火を燈す踏み石も南に向いて、沖から舟で来る参拝者を迎えているようだ。
境内には別社として「荒神社」が祀られている。
この社から十五町ほど東にいけば吉浜の「菅原神社」がある。
縁起や祭礼やそもそもの二座の関係等、尋ねたいと思ったが市史にも記述なくインターネットでもヒットしなかった。
明治時代までの村社会は郷の集合体であり、すべての社会的要素と構成が地域的に完結する最小構成単位が大字であった(隣の集合体との連携不在)?
今後のテーマとして温存したい。
☆2008/09/17 笠岡市史3巻p139 菅原神社創建 万治二年(1659)
お隣の吉浜にある菅原神社の創建は延宝2年(1674)吉浜干拓地が完成したのを記念して福山藩主水野氏によるとされている。
とすれば、用之江の菅原神社が15年ほど前にこの地に祀られていたことになる。
これが事実だとすれば、吉浜新田への入植は隣接した村であった用之江が母体となっていたのだろうか?
☆2009/02/05 城見地区ふれあい推進委員会(安藤清孝氏に面談、同氏が過去に編集し、配布された資料より引用させていただきました)
**** 用之江の史跡 ******
用之江に残る地名: 天神端・馬場・万福寺・天神免・野宮・堂坂・曲り坂・坂ノ奥・才ノ峠・峠・仏峠・真倉峠・上之谷・小屋ケ谷・白塚谷・東谷
| No |
表題 |
事 跡 |
時期 |
| 01 |
真田講堂
城見小学
校 |
明治43年4月に着任の校長が講堂建築費用の捻出案を提案。児童たちが余暇に編んだ「麦桿真田」の収益金を積み立
て基金とし、以来20年に亘って継承され千円を超えた、昭和5年8月23日ついに棟上げをおこなった。多くの労力協力と
1,830円の資金で完成し、「真田講堂」と命名された。 |
昭和55年
建立石碑 |
| 02 |
旧城見村
役場 |
明治22年に用之江・大冝・茂平の三村が合併し城見村となったとき役場が用之江に移された。当時の城見村の戸数は
400戸、人口は2,100人あまりだった。現在は1,200戸、人口は4,000人弱。この場所は現在の用之江公会堂。 |
明治22年
建立木造 |
| 03 |
菅原神社
境内別社 |
龍王社(本殿裏側に鎮座、雨乞いのため松葉の千把・千貫焚きがあった)、荒神社(用之江地区には四社の荒神社があ
り、この宮講で祀る社以外に青木・上の谷・白塚谷・先の谷がある。知工地区内では七荒神半と言われ荒神信仰が盛ん
)、八幡神社(本殿裏にあり、祭神は応神・比売・神功の三柱)、妙見社(裏参道に沿った道の小祠、眼病治癒で北極星と
言われる妙見菩薩が祭神)、また大冝大橋城跡山麓には、「妙見神社」・「瑜伽神社」・「地主神社」がある。 |
小祠
群総称 |
| 04 |
株神様
十二社 |
株神とは「家の神」・「宅神」などと呼ばれ、一族で十二神(クビラ・バサラ・メキラ・アニラ・アンテラ・アニラ・サンチラ・イン
ダラ・ハイラ・マコラ・シンダラ・ショウトラ・ビガラ)を祀る。下組地区の同姓同族の方々7軒でお祀りをしてきた。 |
小祠 |
| 05 |
薬師堂
荒神社
|
祭神は「薬師如来」で日光・月光菩薩を脇士とし十二神将を眷属(一族)とする信仰。用之江には城見保育所の西、小字
万福寺の丘に荒神社と隣り合って祀られている。眼病に霊験があり、下組地区には今も薬師講があり祀っている。 |
神社 |
| 06 |
貴布祢
神社 |
貴布禰とは気生嶺・木生嶺・黄船・貴船・木船などの表記あり。祭神は「高オウ神」でご神木の桂の木の如く「気」が龍の
如く立ち上る嶺の意味で水の神さま、京より勧請。用之江では上の谷の山麓に祀られ、六地区で順番に祭礼をつづける。 |
小祠 |
| 07 |
石鎚
神社 |
「霊嶺石鎚山総本宮石鎚神社」と称し夏期大祭(お山開き)は7月1日から10日間で登拝する。祭神は石鎚毘古命、神社
には三体の御神像(玉持ち・鏡持ち・剣持ち)、用之江では白塚の他3ケ所に勧請し岩屋に祀り7月はバスで四国に詣る。 |
岩屋
小祠 |
| 08 |
弁財天
小祠 |
七福神の一つ「弁財天」を祀る。もとはサラスパティと呼ばれる印度の古代神で大河の神。流れる水の音にちなみ音楽
と知恵の神。三大辨天とは鎌倉江ノ島・近江竹生島・安芸厳島だが、用之江では長沢田池の東端、水際に鎮座す。 |
小祠 |
| 09 |
岩下
神社 |
昭和60年代に城見台団地が造成されるまでは北麗にあった社を造成後山頂に移したという。祭神は大山祇尊(おおやま
づみのみこと)・葛城大尊天・正一位伏見稲荷大明神を祀る。本殿も鳥居も真新しく平成元年再建、氏子数は16軒と聞く。 |
神社 |
| 10 |
荒神社
稲荷宮 |
上の谷に在る「荒神社」に「稲荷神社」が祀られている。鳥居は稲荷神社のもの。稲荷は稲成とも表記され起こりは稲作
まつわるもの。祭神は倉稲魂神(うがのみたまのかみ)で和銅年間、秦氏の遠祖・伊侶具公に遡ると言われる。 |
神社 |
| 11 |
森山城・
明地城跡
|
森山城:城見小学校よりやや西寄り、標高114mの丘陵、城主陶山義高が貞和5年(1349)足利直冬勢先鋒と交戦
明地城:用之江~福山の県境・標高140m、森山城と同じく陶山義高が貞和5年(1349)直冬軍と最初に交戦した。 |
城跡 |
| 12 |
地名
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(山)唐松山(大冝では大見山)、重山、城山、三倉山、八木山、森、(田)城後田、長沢田、深田、深田上
(池)元禄検地帳に19の池あり、友光池(と~みついけ)・森池・上池・長沢田池・池迫池。白塚・五輪塔あり |
場所名 |
| 13 |
白塚遺跡 |
国道2号線を挟んで、用之江森山城と向き合った県境丘稜北面にある遺跡。畑地に五輪塔が三基残っている。 |
白塚 |
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2010/04/08 現在、かなり廻ったつもりでも、マダマダです ======== last items ========= 2010/04/08 現在10ポイント踏破です |
| No. |
表題 Title |
内容 Contents |
| 001 |
菅原神社の参道の前景 |
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1-反対側より見た景色
2-隣接する地蔵堂
3-更に隣に在るのが太子堂
4-金刀比羅神社常夜灯 |
用之江はその昔、吉浜新田の現れる前、つまり寛文元年(1660)の干拓工事以前には東から金浦湾の海が迫っていた。
伝え聞く話ではいまの郵便局のある付近まで金浦湾からの海が迫ってきていたという。大冝には「羽方神社」があり、そのむかし博多地方松浦
郡の船乗りの船が大冝で座礁し、そのまま大冝の土地に永住したという。その子孫がいまでも松浦姓を名乗っている。
また、吉浜の「菅原神社」の盥漱石は70貫の巨石からできている。この原石の採取場所は黒土の瀬戸で今の高島である。当時、高島から
吉浜の菅原神社までどうやって70貫の石を運んできたかというと、いくつもの空樽を石に結んで浮かせて舟で曳いて来たと伝えられている。
「江」の字源を漢和辞典でしらべると、サンズイ+工=水がつらぬくさま ⇒大きなかわ。
工 ⇒細い孔を穿つ意味(大工、細工、工具など、) 用 ⇒ 字源は長方形の板に孔をあけとおすこと(転じて貫き通すはたらき、
通用の意味になる)
「用」も「江」もどちらもつらぬくという(水の)イメージで構成された地名である。
つまり、どの時代であるかは不明だが、この土地には海の水が貫き流れていた。野々浜の海と繋がっていたかもしれぬ。
とすれば、用之江という命名はず~っと昔に遡って土着の人々から呼ばれていた地名だったにちがいない(文字記録史料なきため憶測)。
聞いた話だが用之江川は吉浜の菅原宮のあたりで有田川に合流後、金浦湾にむかってさらに東流をする。
一方、西隣は備後国と接し、昔は大津野村だった。この村の東はずれに大きな「新池」がある。用之江から西に流れる水もありこの新池に注ぐ。
つまり用之江は分水嶺になっていてここを起点に水流は東西に分かれる地形。
用之江という地名の字句が暗示しているのは水の流れ、といっても海水ではあるが古来より水流と深い関わりのある命名である。
笠岡市史の編者がいうように、モチノエは餅のイメージだとは決して思えない。
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| 002 |
南面する菅原神社の本殿 |
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5-境内眺望茂平を臨む
6-忠霊碑
7-奉納された絵馬
8-境内別社(荒神社)
同-八幡社 |
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秋の祭礼は10月の第一日曜日
吉浜の菅原神社と比較するととても兄弟神社とは思えないたたずまいである。
何時の時代に誰の発案もしくは命令にせよ、誰の意思で神社が生まれたのか、まことに興味深い。
吉浜より前か後か?と問うてみてもあんまり意味はないことだろうが、菅原神社に限ったことではなく地域で郷社が生まれた時期と
動機と経緯を調べると当時のその土地事情(政治や経済)と文化(風俗・習慣・信仰心)などより鮮明にわかってくるだろう。
(注: 吉浜「菅原神社」の創建は延宝3年(1675)6月、水野勝種の勧請造営。吉浜新田の完工と関連あり)
☆2009/02/07 笠岡市城見公民館資料(安藤清孝氏編)
拝殿には絵馬が奉納されている。
その題材は「伊勢神宮参拝記念」・「日清・日露戦勝祈願」など、鳥居をくぐると菅公千年祭の記念碑がある。
☆2009/09/08 『岡山県神社一覧』より引用
祭神: 菅原神 少彦名神 例祭: 十月十日 境内地: 2,444坪
主要建物: 本殿、幣殿、拝殿、釣殿 摂末社: 八幡神社・貴船神社・稲荷神社・龍王神社
氏子数: 145戸・900人
由緒・沿革 万治二年(1659)創建。 初め天神宮と称した。 元禄年間(1688-1704)に福山藩水野日向守が神田を献じて
崇拝している。毎年八月の例祭には神田作米により、盛大な神事が斎行された。
寛永3年(1750)本殿を再建、天明2年(1782)拝殿釣殿を増築。明治四年、菅原神社と改称した。明治38年本殿・拝殿
を修復、昭和6年村社となった。
天神信仰 (同上資料より)
神として崇められた菅原道真の霊に対する信仰をいう。
本来は、天神は地神にたいする「アマツカミ」で特定の神を指すものではなかったが、後に雷神信仰と結びついた。
平安時代以降は特に道真の霊への信仰と混同した。道真の死後にその霊が当時の御霊信仰や雷神信仰と結びついて、天神
とは道真のことを云うようになった。天歴元年(947)、京都北野に道真の霊を祀り(北野神社)、天満大自在天神とか大政威德
天神などと称した。また火雷天神ともいった。この信仰は室町時代に全盛となり、やがて文の道の大祖と称され、文学・詩歌の
神として崇められた。
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003
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裏参道(?) |
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9-杉木立
10-奥に見
える小祠
が妙見社 |
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雑木林に杉木立:
手入れの行き届いた境内の拝殿には奉納された絵馬額がびっしり天井に張り巡らせていた。
別社として境内には荒神社が祀られており、その脇道をくだると鬱蒼とした裏参道につづく。
ほとんどが雑木が生茂っている傾斜地に、杉林が出現した。社殿改築の際の用材補給用だろうとピンときた。
境内の樹木から社殿が再生さえるシステムはなが~い時間に跨る地域との交流と親密度なしには実現しない。
また神社を祀る宮司不在のケースがほとんどなので情報を聴き取る手段も限られるのが現状。
勝手に見て、勝手に理解し自己流解釈でそれをネットに書いて公開するのは大罪でそのうち罰がくだるかもしれん(w)。
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2010/04/09 更新 |
2008/05/31 |

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