| 茂平岬の「前影山城」址 いわぐろ山城と読ませるらしい。ただし、影の字には山の冠が付く |
訪問DATE: 2009 05 21 ![]() |
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| 「いわぐろ山城」(茂平丘陵△142m) 岡山県埋蔵文化財GISからのコメント 『標高142mの丘陵上。南西側にも一段低い丘陵があり、 一連の城郭遺構と推定される。大橋山城の支城。遺構 は城・館・屋敷、築城年代は鎌倉~室町』 左の写真は神島の福浦城址付近からの画像である。 高丸城と前影山城との間は海が注ぎ込む入江にみえる。 茂平村の新田開墾のための干拓工事が本格的に始まる のは江戸時代以降・水野統治になってからとされる。 笠岡市史もこの城は大橋山城の支城で城主は高田河内 守と断じているようだ。 前影山城~大橋山城は直線距離で2Km。 高丸城~前影山城も1.8Kmの至近距離と言える立地に ある。高丸城は小平井城の支城説が有力なようで、この 距離は8Km。ただこの両城は時代が若干ずれている。 大橋城主の高田河内守は天文七年(1538)陶山との戦い に敗れ、備後国大門村、眞明寺に入って自殺している。 一方、小平井の渡辺氏は笠岡入国後、天文24年(1555) 九月に築城、とあるから約20年の空白を挟んでいる。 でも両城をここ福浦から眺めると姉妹城のように見える。 |
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2009/05/21 Created 「高田河内守則義」にかんするサイト検索 → Hit 本サイト以外なし 高田氏系譜 始祖、高田河内守則義。美作国勝山高田庄の住人、六孫王源経基より出る。家紋は六の字を模様化したもので、図のような 「すはま」模様(陶山氏の家紋はこの「すはま」を2つの「山」の字が支えているデザインですこぶる似てる)。 備中国大下村に出て、大橋山に芦浜城を築城、これを居城とし高田を称した。 天文七年(1538)戦いに敗れ、備後国大門村、眞明寺に入って自殺す。墓は現在上之坊と眞明寺の中間山裾にある。 法名、端立院一致浄印大居士。墓石の文字は風化して全く読み取れない。 楠正成と共に挙兵したと伝えられる備後吉備津神社の桜山茲俊の伝記「小説さくら山」(片岡修身氏著)」によると、 『桜山公はまず備中、備後、安芸にある北条党の大部分が、六波羅の召しにより上洛したその磯をねらって、備後各地の宮方 に挙兵を命じた。桜山平城を守る組を残して備後より備中へ攻め入った。備後、備中境では御領茶臼山城の岡崎左近将監忠康 (家老木戸三郎左衛門重正)が、同地竜王山城主重政平左衛門尉光兼と共に、沼隈郡から北上してきた遠部山城守と合流し、 備中笠岡の陶山を討つぺくまず坪生村に打って出て、角山城主坪生勘兵衛高垣(陶山義高代)芸め落とし備中へ越えて城見 大下城の陶山が属将を討ち取り、その跡へ大橋村(芦品郡駅家町大橋)天神山城主高田重兵衛政信を留めて守らせた。』 注目すべきは「大橋山城」が陶山が属城と書かれている点、高田一族が南朝方の武将で芦品郡駅家町大橋からでている点。 高丸城~前影山城~福浦城~小見山城~笠岡山城~西濱城(陶山城)という連携ネットがあったのではないだろうか。 |
位置図:笠岡市茂平(岬) <渡辺一族関連サイト内・リンク> 小平井春日神社→ ClickHere 渡辺一族(資料)→ ClickHere 乗福寺寺門の由来→ClickHere <高田河内守則義サイト内・リンク> 大冝散策 → ClickHere |