茂平南端、苫無の山なみ「高丸城」址
 備後鞆津に対峙する小平井城の城主・渡辺杢之丞正の支城
訪問DATE: 2009 05 21 

「高丸城」(県境丘陵△99m)
 岡山県埋蔵文化財GISからのコメント
『県境に近い標高99mの丘陵上。瀬戸内海を眼下に控え
た海城。昭和40年代から土砂採取が進み、現在では丘
陵の大部分が消滅。 城・館・屋敷、鎌倉・室町時代』
左の写真、右に見える小山が標高99mの東峰で、西も北
も山肌が削られ続けて実に無惨な姿となっている。
 笠岡市史によると、
『備後太平記に城主は渡辺杢之丞、築城年代は天文24
年(1555)九月とある。渡辺一族は備後沼隈郡山田に本
拠を置く豪族だが笠岡地域との関係が生ずるのは天文
4年からである。小平井春日神社の社伝により、小平井
領主となった年に春日明神を再興し、山林三段余を寄
進、翌年の天文5年には石鳥居一基を奉納している。』
 渡辺杢之丞正が笠岡へ入った時期と高丸城との築城が
同じだとするとそれまではこの場所からの海上監視が余
り重要ではなかったことを意味する。
茂平は半農半漁の村であった。伊能忠敬の測量隊もこの
茂平から上陸している。この海域を見張る機能は前影山
城と高丸城とどちらが早かったのであろうか。

2009/05/21 Created
 
 「渡辺杢之丞正」にかんするサイト検索 → Hit 本サイト以外なし
 
 渡辺杢之丞正の本城は小平井城とされる。 この高丸城からの距離は直線距離で8Km。当時の幹道がどのような状況であった
 のか、残念ながらその資料はない。直線で8Kmとはいえ単純に4Km・時間の早さで2時間の行程だとはなかなかそうはいかない。
 茂平高丸城から小平井城への徒歩行だと、まず北に向かって山を越えて用之江にでる。用之江から更に北進し有田へ向かう。
 有田から小平井へは真っ直ぐ東進、この道も山道だ。笠岡南部には川がないので沖積平野が形勢されなかった(北部には小
 田川あり)。
 ここで素朴な疑問。茂平~小平井間、すべて渡辺領だったのだろうか?渡辺一族の居館が笠岡宮地にもあったという説も聞く。
 渡辺氏が備後沼隈山田の地へ地頭職として入国したのは、山名宗全持豊(1404-1473)の命であり、文明年中(1469-1487)、
 越中守兼の時代に長和荘草戸村に入ったといわれている。その後、毛利元就より山田荘上、中、下の三力村を請け、一乗山
 (七面山)に居城する。

 平安末期~南北朝にかけ勢力をもった陶山一族に代わって毛利支配となり、この渡辺一族がその先遣隊としての領有支配だっ
 ったと理解するべきなのであろうか。

 

位置図:笠岡市茂平(苫無)

 <渡辺一族関連サイト内・リンク>

  小平井春日神社→  ClickHere

  渡辺一族(資料)→ ClickHere

  乗福寺寺門の由来→ClickHere