茂平わ~きんぐ(2年めのスタート)


2009/04/01 桜花ほころぶも、前線通過で突風と驟雨あり

茂平の池

地誌によると茂平村内の池は5面あった。
 野上池 東西三十間 南北四十ニ間 周回百四十四間 本村の北の方あり田畑の用水とす(現在の地図表記では「大池」か?)
 青木池 東西ニ十七間 南北三十間 周回百十四間  本村の北の方あり田畑の用水とす(現在の地図表記は「小池」)
 尾越池 東西ニ十四間 南北三十間 周回百ニ間   本村の東の方にあり同断(同断とはどんな意味だろ?以下も現表記名なし)
 堂面池 東西二十六間 南北二十二間 周回二十六間 本村の西の方にあり同断
 坂里池 東西ニ十ニ間 南北十四間  周回七十弐間 本村の西にあり同断
このうち坂里池は国土地理院の2万5千分の1図からも消えているし、団地付近を歩いても見つかったのは県境を越えた東側だった。

このリストには未掲載の池が「西の谷」集会所の前にあり、そのそばには「地神」碑があった。
池⇒農業用水源→地域の共有財産・共同管理→日々の生活の生産に関わる中心的なもの⇒信仰への結びつきがあるとすれば、笠岡地方に散在する「竜神」への信仰へとつながる道筋かもしれない。神社のページで述べたとおり村内に「竜王神社」が現存する。

 

☆2009/04/01  池発見!
 地図上の位置関係から机の上で眺めたらすぐ
に変だととわかることでも、目線からみえる景色
は上下方向への広がりに気づきにくいものだ。
 今回は「小池」の土手が高い盛土にかこまれ
ていたのと家の陰で池面が見えないがゆえに、
この一年間、すぐそばを何度も歩いたけれど今
日まで気づかなかった。
池は満々と水を湛えていたし、その堤にあたる
傍らに祈りの場があった。
 石像は全部で11基、池に向かって南北一列
に並んで建つ。お四国の太子像と札所像の二
基セットが4組み、うち一基が欠けて7体。
他に「正観音像」と「みちしるべ」が二体、残りの
二体は自然石だ。
ちょうど前を通りかかったおばあさんに尋ねると
「りゅうじんさま」だとのこと。
4平(ひら)で祀っているらしい。
その場所はどこですか?とさらに聞くと、「西の
谷、矢の平、旗涯地」だという。池ごとに龍神を
祀る信仰があったのかもしれないし、八大龍王
神社の出先だったかもしれない。
「平」という呼称は集落の意味で使われている。
語源からすれば人が手を加えてなだらかに削
りとった耕作地という意味なのか。


茂平の民間信仰

☆2009/02/07 笠岡市城見公民館資料(安藤清孝氏編)
  地神社  茂平では各平(ひら:地区の意味)ごとに
   穀物や果実をもたらす土地の神を祀っている。
  耕作に先立つ春の社日(しゃにち:春分にちかい戊(つちのえ)の日)と、取り入れに近い秋の社日(秋分の日に近い戊の日)に祭事をおこなって
  いる。  六つの平ごとに祀られており、それぞれに祭事がおこなわれてきた。
  干拓によって土地を手に入れ、山の斜面を耕した茂平では、地の神に対する思いが特に強かったのであろうか。


☆2009/02/07 笠岡市城見公民館資料(安藤清孝氏編)
  この資料によると、茂平にも三カ所で祀られているという。
  「四国の石鎚山に発する信仰である。修験道の行者による開基で、各地の山中に石を組み合わせて祀られる。
  茂平の石鎚神社は、東地区の青木、旗涯地、矢ノ平で祀っている。

  
 茂平にも石鎚山信仰があると伺って、歩きながらそれらしき場所を探してはいるのだが、なかなか遭遇しない。
誰かに聞けばすぐわかるであろうけど、誰に聞けばいいのかも分からない。 いまのニッポンからいろんなモノが姿を消しているが、有史来ず~っと
民間で培われてきた「祈り」の儀式も廃れいくもののひとつであろう。
池もまた、この茂平では水田の消滅とおなじく姿を消しつつある。海が消え、池が消え、そして祈りの場が消える代わりに目立つのは高架線。
どの景色をファインダーで捕らえても、必ず画面を横に走っているのがわかる。

☆ 茂平の古城址

        茂平には鎌倉~室町にかけて築城された山城があった。
  築城年代・創建者名などの詳細は一切不明。確認された遺構も城郭くらいのもので、石垣も柱の跡も瓦も人工的なモノは何ひとつ発見されていない。
  記された古文書が何であれ、どの時代であれその城の全容を知るにはあまりにも少なすぎる情報だ。
  その1 →  高丸城 (2009年6月現在、採石中で西側の山頂は削崩に遇って原型を留めていない。)
  その2 →  いわぐろ山城(漢字では「前影山城」と書く。ただし、影は山構えの下に影が並ぶ字で、PC漢字になし)


☆ 藻苅り紛争顛末(嘉永7年1854

       「神島誌史」に次ぎのような記事を発見。江戸末期の茂平に海があった頃の事件の顛末である。
  『茂平村沖の藻刈り事件が起こったのは、嘉永七年(1854)七月十八日ごろのことである。
  茂平村の水門前で、見知らぬ船数艘が海底に生えている藻草を次々と採取しているのを、西浜の漁師が見つけた。
  藻草の生えている場所は、幼稚魚の絶好の住処であり、また神島御崎鼻より備後鞆津泉水山を見透し北西地方は、運上の第一の稼ぎ場なのに、
  他領の漁師がみだりに立ち入るのはけしからん - と、さっそく船を漕ぎ出し、船頭二人をつかまえて西浜村に連れ帰った。
  そして、問いただしたところ、船頭音松・万作は伊予生名島(因島の西隣)の者で 「藻草を国元の田畑の肥やしにするため仕入れており茂平村
  役人へ頼み、船一艘につき銭百五十文、あるいは二百文の運上銀を差出している。だから、このように差し留められては困る」というのである。
  それなら、その由を書いた一札を入れよ、茂平村と談判するからと別紙の始末書を取り、共同の漁業権者である三ケ村(西浜村、横島村、
  神島内浦)が集まって協議しているうちに、代官所から呼出し状が来た。
  それは何と、茂平村の方から逆に、村の水門前に藻草が繁茂して、悪水の吐き方に支障があるので、排水をよくするため、われわれが許可して
  藻草を刈らせていた。それなのに、茂平村に対し、一言の連絡もなしに船や船頭を取り押えるとは何事か、と代官所へ訴え出ているのである。
    これに驚いた三ケ村側は、恐れながら、と漁業権の侵犯を理由に、逆に提訴している。しかし同八月、内済証文を入れてケリになった。
  これについて、中塚家文書に次の記録がある。
  『藻草一件日記』 『茂平村水門前刈取宥免願』 『藻草一件二付、瀬戸行入用割賦=嘉永七年十月』など。』

 

No. 表題 Title   内容 Contents
001 茂平地区に池を発見!これが「青木池」(小池)だった。 2009/04/01  画像みる    ↓
     
野上池

尾越池

堂面池


 
 茂平にあるすべての池の竣工年月日が分かるなら、土地工作の年代測定法が確立されたなら、もっと歴史はシンプルになるだろう。
たとえば池の沈殿汚泥物のサンプリング、池を囲っている土塁の築年など、人工的に改造されたものであれば瞬時に数字がでる機械!
この池は東にある「野上池」とセットになっている。こっちが「小池」、東が「大池」という比較形容された名称であるから。
でも、この呼称もいつの時代、どんな理由で誰が呼び始めたかもわからない。
ただ分かっていることは、農耕が行われるに際して、農水用の灌漑池として造られた。場所的には茂平干拓工事と平行して造営された
とは考え難いほど高い所に位置する池だ。
茂平の海岸から北上してきた海が、金浦湾から用之江まで注ぎ込んでいたといわれる海と繋がっていたかどうか、この海の状態とこの
二面の大小池の造成時期がかかわっているように思う。
その位置図:笠岡市茂平青木
002 ↓ この「西の谷の池」を「青木池」だと、1年間思いこんでいた。  画像みる    ↓

4-地神碑

 平々(ひらひら)に株内の神を祀る風習はず~っと昔、江戸~鎌倉を超えて律令国家となった時代にまで遡るかもしれない。
この茂平地域でも後期古墳時代には宮山古墳(八幡神社境内)が発掘されており、その時代からは定住する人々の生活が茂平
にもあったことが証明されている。
石棺を眺望の利く山の頂に運び、死者を弔う儀式を催行できる者はある程度権力が集中し、組織として社会が動いていたことの
証左である。人の定住には農地が不可欠であっただろうし、農地には灌漑が絡み合っていたはずだ。
笠岡は灌漑池が多い土地である。これらの池の造成手法から時代測定ができればいいと、マジ思っている。


003
池の傍に建つ「龍神さん」(左端の自然石)、その右の小像群は茂平88ケ所第70番代札所


池の畔の「龍神さん」

  弘法大師の霊場を祀る札所はこの茂平地域全体に散らばっている。
また今日、この龍神信仰が青木地区以外の場所でも、おなじように信仰の対象となっていることを聞いた。
石鎚山信仰や地神信仰なども各平々に祀られてきたのであろう。
  地域内を歩くと屋敷神というか、自宅の敷地内に小祠をもうけて祀っている家もあるようだ。
とは言っても、地元茂平の歴史に関心をもたれた方を捜してはっきりした事実を聞き取ることが先決かもしれない。
憶測と推測ばっかりではハナシにならないね(w)。

004
上の写真の北側、石像たちは東を背にして一列に並び、西面している

☆ 2009/02/07 更新

   茂平の地神碑について
    「六つの平ごとに祀られている」ということであるが、その平区分とは?
    ① 青木池の南にある「地神」碑
    ② 龍王社の北、銅山南道路が産業道路と交わる手前、東側に立っている。自然石に「地神」の刻印
    ③ 銅山の北、戎神社と向き合って道路の東側に夜灯と並んで立つ。刻印は「社稷」、すぐそばに夜灯が並んでいる。
    ④ 産業道路から東側、旗涯地か、大見山山頂へかってはつづく道路か?、この三叉路に立つ「社稷」
   道の脇に立つこれらの碑は通行人に語りかけているかのように佇んでいる。
   たぶん、道をあるく人々はこの「地神」「社稷」さまの前を通るとき、頭を垂れて神々に感謝して通り過ぎていったことであろう。
   車社会の目線からは決して見えない世界である。

☆ 2009/04/01 龍王信仰と石鎚山信仰をさがすこと

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