茂平の地神碑(「地神」と「社稷」)


 現在「地神」碑は2基、「社稷」碑2基を確認

地名考

☆2009/02/07 笠岡市城見公民館資料(安藤清孝氏編)
  この資料によると、茂平にも三カ所で祀られているという。
  「四国の石鎚山に発する信仰である。修験道の行者による開基で、各地の山中に石を組み合わせて祀られる。
  茂平の石鎚神社は、東地区の青木、旗涯地、矢ノ平で祀っている。
 
☆2009/04/01 茂平散策ちゅう「小池」を発見!
  何度も歩く茂平道を、この日はちょっと遠回りをした。そのちょっとの違いで青木の池と新たな「龍王」碑が見つかった。→ ClickHere

景色考

 茂平の途を歩くと池に出会う。それは平素、車に乗って走っている目線だと茂った樹木の陰になるかそもそも車が進入できない狭い道ととなりあっているからだ。
思いがけない場所に思いがけず池を見つけるとそれだけでうれしくなるから不思議だね。
地誌によると茂平村内の池は5面あった。(この地に自然の川が流れ込んでいないことを考慮すると用水池の数が少なすぎるように思えるのだが、、、)
 野上池 東西三十間 南北四十ニ間 周回百四十四間 本村の北の方あり田畑の用水とす(現在の地図表記では「大池」か?)
 青木池 東西ニ十七間 南北三十間 周回百十四間  本村の北の方あり田畑の用水とす(現在の地図表記は「小池」)
 尾越池 東西ニ十四間 南北三十間 周回百ニ間   本村の東の方にあり同断(同断とはどんな意味だろ?以下も現表記名なし)
 堂面池 東西二十六間 南北二十二間 周回二十六間 本村の西の方にあり同断
 坂里池 東西ニ十ニ間 南北十四間  周回七十弐間 本村の西にあり同断
このうち坂里池は国土地理院の2万5千分の1図からも消えているし、団地付近を歩いても見つかったのは県境を越えた東側だった。

二番目の青木池のそばには「地神」碑があった。
池⇒農業用水源→地域の共有財産・共同管理→日々の生活の生産に関わる中心的なもの⇒信仰への結びつきがあるとすれば、笠岡地方に散在する「竜神」への信仰へとつながる道筋かもしれない。神社のページで述べたとおり村内に「竜王神社」が現存する。
用水池位置略図 ⇒ ClickHere

☆2009/02/07 笠岡市城見公民館資料(安藤清孝氏編)
  地神社  茂平では各平(ひら:地区の意味)ごとに
   穀物や果実をもたらす土地の神を祀っている。
  耕作に先立つ春の社日(しゃにち:春分にちかい戊(つちのえ)の日)と、取り入れに近い秋の社日(秋分の日に近い戊の日)に祭事をおこなっている。
  六つの平ごとに祀られており、それぞれに祭事がおこなわれてきた。
  干拓によって土地を手に入れ、山の斜面を耕した茂平では、地の神に対する思いが特に強かったのであろうか。


No. 表題 Title   内容 Contents
001 茂平地区の最大池「野上池」  画像みる    ↓
     
1-堂面池

2-尾越池

3-尾越から阿濱を眺望
 
 地誌には面積の表示があるが水深には触れず、東西・南北間のおそらくは最長値を実測して記録にとどめている。
池の機能を考えれば面積ではなく治水能力=保水量だろうから水深は不可欠要素のはず。しかし、、である。役所の思考ループは時代が変わっても普遍だとおもうのは彼らは住民たちの目線ではなく自分たちの目線で仕事をしているということ。面積は田畑=徴税量との相関関係があり彼らには最重要事項だから、、と思って納得。
昔はこの池に鯉や鮒を育て蛋白源補充をおこなっていただろうとおもって魚影を探してみたが見当たらなかった。
002  茂平地区の青木池と地神碑  画像みる    ↓

4-地神碑

 池と地神と集会所=自給地域経済圏を形成するための必須の三点セット(だ、、、とおもう)。
この池の手前(カメラ側)に道路を隔てて「青木集会所」がある。茂平で小字名の集会所がいまでも残っている箇所がここ以外に旗涯地があった。
そのむかし開墾地への引水には順番を決める必要があっただろうし日常の水系の保守・管理の分担には「寄り合い」が不可欠だ。
いまも地域には「自治会」という組織があるが池を巡る地域の組織は生活の基幹となる生産にかかわる重要度で地域ネットを繋ぐ絆の太さで似て非なるものだ。いまの「自治会」は掃除当番の割り当てとK老対策の爺々会になっている(w)。

003
茂平の池の鳧(鴨)

溜池に飛来する鴨 ⇒ 関鳧翁墓(古城山登頂口にあり) 笠岡の著名人の一人
 わか魂の行へはいつくしら雲のたたむ山べの松のした陰
 
笠岡で鴨といえば関鳧翁が思い浮かぶ。笠岡市のHPからの引用↓

『天明6年(1786)~万延2年(1861)
関鳧翁(せきふおう)は笠岡が生んだ偉大な歌人・国語学者で、本姓を関藤、名を政方(まさみち)という。福山藩で活躍した関藤藤陰は彼の弟にあたる。
天明6年(1786)吉浜村に生まれる。33歳のとき笠岡村の石橋町へ転居して医師を開業し成功する。還暦の頃から鴨の羽毛入りの服を着用し、以後、鳧翁と名乗ったという。
 歌集として、『安左豆久比』『嘉平田舎詠草』、菅原神社奉納『梅歌千首集録』(市重文)などがある。また、『傭字例』では、日本語の音の韻尾「ン」と「ム」との区分を明らかにし、漢字の和音の誤りを正すなど、すすんだ業績を残している。
万延2年(1861)、76歳で病没。その墓は、彼が生前に定めていた古城山西麓に立てられた。墓石に刻む辞世の和歌「わか魂の行へはいつくしら雲のたたむ山べの松のした陰」は彼の自筆になるという。』

004 付近略図
☆ 2009/02/07 更新

   茂平の地神碑について
    「六つの平ごとに祀られている」ということであるが、その平区分とは?
    ① 青木池の南にある「地神」碑
    ② 龍王社の北、銅山南道路が産業道路と交わる手前、東側に立っている。自然石に「地神」の刻印
    ③ 銅山の北、戎神社と向き合って道路の東側に夜灯と並んで立つ。刻印は「社稷」、すぐそばに夜灯が並んでいる。
    ④ 産業道路から東側、旗涯地か、大見山山頂へかってはつづく道路か?、この三叉路に立つ「社稷」
   道の脇に立つこれらの碑は通行人に語りかけているかのように佇んでいる。
   たぶん、道をあるく人々はこの「地神」「社稷」さまの前を通るとき、頭を垂れて神々に感謝して通り過ぎていったことであろう。
   車社会の目線からは決して見えない世界である。

☆ 2009/08/03 更新 「地神」と「社稷」碑
    民俗学辞典によると
   「春分・秋分に最も近いツチノエ(戊) の日を 「社日」といい、この日に地神を祀る講を「地神講」とか「社日講」と呼ぶ。社日に
   は土を動かしてはいけないという禁忌があり、この日は畠仕事をしないで、講中が当屋に集まって、神事やお供えをして地神を
   祭る。全国的にはごく稀に 「刻像塔」もあるが、大部分は自然石や角柱に「地神」と刻字した文字塔が多い。刻字のない文字
   通り自然石のものもある。地神は稲の穂を持って来た神とか、春の社日に来て田畠に出て、秋に帰るまで作物を作っている作
   神と考えられている。 多くは集落単位で講が組織され、江戸時代元禄期頃から始まったとされ、西日本では瀬戸内地方に濃
   密な分布がみられる。」
    一方社稷とは、
   「社稷(しゃしょく)とは、社(土地神を祭る祭壇)と稷(穀物の神を祭る祭壇)の総称。天壇・地壇や宗廟などとともに、中国の国
   家祭祀の中枢を担う。古代中国に於いては、土地とそこから収穫される作物が、国家の基礎であると考えられており、村ごと
   に土地の神と五穀の神を祀っていたが、やがて古代王朝が発生するようになると、天下を治める君主が国家の祭祀を行うよう
   になり、やがて国家そのものを意味するようになった。」
2008/08/23
作成
2009/08/03
更新