茂平(砂川改修工事記念碑)
工期:大正十年八月~大正十二年二月 by 茂平新地整備組合
| 大正10年8月から12年2月にかけて、水害水害防除。干拓地内に流れ込んでいた砂川を東郷新田の東側山ろくに沿って新川床をつくり、余った水を直接海へ放流する工事が行われた。その記念碑が川口に立てられている。 |
一般的な『龍王神社』信仰 ⇒ 龍神信仰と雨乞い儀礼-岡山の例- by 地域総合研究系列 I06VM07 劉 芳
龍神は農耕民にとって最も重要な要素である水、雲や雨水をつかさどる神の代表格として農民に信仰されてきた。
昔から、中国人は「龍の伝人」、「龍の子孫」などと呼ばれ、歴代の皇帝のシンボルとしても龍が用いられてきた。日本ではどうだろうか?
ニッポンでは飛鳥時代から仏教儀礼による雨乞いが行われるようになった。日本における最古の雨乞いの記録としては、平安時代に編纂された仏教史書『扶桑略記』の推古天皇33
年(625 年)の条に、『高麗僧恵灌に命じて雨乞いの儀式を行わせた』という記述がある。
岡山県は地形が複雑で地域ごとに独立した生活圏があった。比較的降水量の少ない土地柄の上、水系も分断され、その狭い地域ごとに、農耕と繋がりの深い水神が信仰されてきた。やがて仏教や修験道の浸透とともに八大龍王への信仰もひろがり、龍神を祀る儀礼が定期的に、また旱魃に際して不定期に行われるようになってきた。
茂平龍王神社との関係
銅山の龍王神社は現在ではお参りされている気配ナシ。理由は拝殿も本殿も説明もなく祈りの場が消滅しているから。
この神社入り口にある西側の注連柱の背面に建立の年号が大正6年と刻まれている。
一方では銅山~苫無の堤防構築によって確保された吉原新田と呼ばれる干拓新田内の砂川の河床整備工事の碑によると工期は大正10~12年である。
この二つの出来事を結びつけて考えると大正になってから新田の水管理に度々問題ができた。
用水池と用水路しかない干拓新田に想定量を超える雨水が溜まると設備はオーバーフロー(決壊)が生じる。
大正6年の龍王神社への注連柱の寄進はこの時期に水害をおこす龍王神への鎮魂の儀式が龍王神社で行われたのではないだろうか?
この水害対策の河床整備工事によって農業用水管理が整備され、龍王神社への祈願は成就され役目が終わった。
一般には龍王⇒雨乞いであるが、龍王⇒水害排除祈念だと考えればハナシのツジツマが合う。どなたかこのあたりの真実をご存知であればご教示のほど。
茂平での土木工事と神社縁起とはお互いに因果関係にあると思われる。
位置:N 34°29'23.043" E133°27'26.128"
笠岡統治体制の変遷:水野 勝成(みずの かつなり、永禄7年8月15日(1564年9月30日) - 慶安4年3月15日(1651年5月4日))
元和5年(1619年)に福山藩10万石を与えられ、福山の地に新たな城(福山城)を築城した。⇒笠岡には備後福山藩の笠岡代官所が設置される。
1698年 水野家5代藩主水野勝岑死去による無嗣除封に伴い、福山藩領のうち現在の笠岡市分の大半は分割され、福山藩領、天領、旗本領となる
1700年
笠岡町に幕府代官所が設けられ,以後現在の市域の大部分は幕末まで42代170年の幕府代官支配が行われる。
茂平の江戸時代の干拓事業(参考引用サイト:昔の茂平)
第一期:現在東郷と呼ばれている新田、「とんまんどて」(通称川尻から銅山の南端に至る堤防)と「かまんど」(銅山の北端から青木の南端に達する堤防)
より以北の干拓の完工(時期は水野統治1619年以前?)。
第二期:「新土手」(銅山の西北端の砂川附近から、西の谷に至る堤防)この新田を「だいとうでん」と呼ぶ。これにより東郷と西郷が形成された。
第三期:文化8年(1811年)吉原新田完成(銅山の南端から苫無に至る海岸堤防によって造成した地域)、新田守護のため塩崎神社と稲荷大明神を勧請(??)。
水野家との関わりで考えると「塩崎神社」の建立は福山の千間土手工事が施工された時期(1648年)頃だと考えられないだろうか?
塩崎大明神という神社をサイトで検索したが、福山以外にはヒットなし。(したがって塩崎神社は水野統治の産物)
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内容 Contents |
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茂平・砂川改修記念付近略図 |
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「砂川改修工事」実施時の現地の状況図
向かって右側の注連柱に刻まれた文字を「龍王信仰」と読むのだろうか?
柱の裏面には「大正六丁己吉辰建之」と刻まれた文字がある。
茂平にも龍王信仰があり雨乞い祈願がおこなわれていた、という証。岡山県下は降雨量が少ないが故に「龍王」にちなむ地名が多いという。
筆者には龍王神社は深い山の頂にある、、という思い込みがあり竜神=滝だと勝手に連想する癖があるようだ。
この社は写真でもおわかりのように、右側の灯篭は不思議なことに、脚石だけを残して撤去されている。
不思議といえばこの神社の参道のスロープは車用としか思えない傾斜である。また、社殿もなければ鳥居も見えない。
左側に歩くと社務所風の家屋があって、「茂平球技場控所」の木札がかかっている。この場合の球技とはまさしくゲート・ボールだ。
右側にむかって歩くと幼児用の遊具がみえる。鋼製のシーソーと鉄棒で水色の塗装が施されている。球技場も遊具もこれらはまさに現役だ。
「わが町ねっと」のサイトで教えてもらった「八大龍王」の石は右側のコーナーにご指摘どおりの数が無造作に置かれていた。
総体的な印象はもはや「祈りの場」ではなく現代的な「憩いの場」に変化している。その変化の最終時期は注連柱が寄進された大正六年以降だろうけど、1811年の堤防完成で海が消えた時期ではないだろうか。
笠岡の地から「住吉神社」が消えたように雨乞い信仰というよりも「海」にちなんだ信仰の場だったのようにおもわれる。
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銅山への参道 |
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銅山の山頂にいたる小径
龍王神社とちょうど向き合った位置にこの参道がある。龍王神社とはまったくちがって石段の下から見上げると、木陰の遮りでよくみえない山の頂から霊気が階段を下りてきているような尊厳と神秘感に襲われる。神道では山そのものがご神体である。
古代ニッポンが朝鮮半島からわたってきた舶来文化に先駆けて開花していた土着信仰だ。
山全体が村全体を包みこんでこの寛容ある抱擁でここで生活する人全体を融合するような霊力をもっているのだろう。
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碑の正面の道路隔てて見守るムラサキの花 |
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荒神社
石段を登って、鬱蒼とした雑木が覆う山頂から真北にむかって歩いてくると木々が伐採された平地に出る。
手入れが行き届いた平坦地だ。ゆるやかな傾斜をのぼりつめて見通しのいい場所にこの社が鎮座する。
東西方向には眺望がひらけ、山に囲まれた茂平一帯が確実に視野におさまる景観だった。
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