茂平(龍王神社・荒神社・太子群像・千手観音)


観音堂は文久元年七月再建

地名考

一般的な『龍王神社』信仰 ⇒ 龍神信仰と雨乞い儀礼-岡山の例- by 地域総合研究系列 I06VM07 劉 芳

 龍神は農耕民にとって最も重要な要素である水、雲や雨水をつかさどる神の代表格として農民に信仰されてきた。
昔から、中国人は「龍の伝人」、「龍の子孫」などと呼ばれ、歴代の皇帝のシンボルとしても龍が用いられてきた。日本ではどうだろうか?
ニッポンでは飛鳥時代から仏教儀礼による雨乞いが行われるようになった。日本における最古の雨乞いの記録としては、平安時代に編纂された仏教史書『扶桑略記』の推古天皇33 年(625 年)の条に、『高麗僧恵灌に命じて雨乞いの儀式を行わせた』という記述がある。
岡山県は地形が複雑で地域ごとに独立した生活圏があった。比較的降水量の少ない土地柄の上、水系も分断され、その狭い地域ごとに、農耕と繋がりの深い水神が信仰されてきた。やがて仏教や修験道の浸透とともに八大龍王への信仰もひろがり、龍神を祀る儀礼が定期的に、また旱魃に際して不定期に行われるようになってきた。

市史にみえる建立の事蹟 by 『笠岡市史』

 銅山観音堂 文久元年7月再建(1861年)
  

景色考

位置:N 34°29'23.043" E133°27'26.128"
笠岡統治体制の変遷水野 勝成(みずの かつなり、永禄7年8月15日1564年9月30日) - 慶安4年3月15日(1651年5月4日))  

 元和5年(1619年)に福山藩10万石を与えられ、福山の地に新たな城(福山城)を築城した。⇒笠岡には備後福山藩の笠岡代官所が設置される。
 1698年 水野家5代藩主水野勝岑死去による無嗣除封に伴い、福山藩領のうち現在の笠岡市分の大半は分割され、福山藩領、天領、旗本領となる
 1700年 笠岡町に幕府代官所が設けられ,以後現在の市域の大部分は幕末まで42代170年の幕府代官支配が行われる。
 

茂平の江戸時代の干拓事業(参考引用サイト:昔の茂平
 第一期:現在東郷と呼ばれている新田、「とんまんどて」(通称川尻から銅山の南端に至る堤防)と「かまんど」(銅山の北端から青木の南端に達する堤防) 
      より以北の干拓の完工(時期は水野統治1619年以前?)。
 第二期:「新土手」(銅山の西北端の砂川附近から、西の谷に至る堤防)この新田を「だいとうでん」と呼ぶ。これにより東郷と西郷が形成された。
 第三期:文化8年(1811年)吉原新田完成(銅山の南端から苫無に至る海岸堤防によって造成した地域)、新田守護のため塩崎神社と稲荷大明神を勧請(??)。
 
水野家との関わりで考えると「塩崎神社」の建立は福山の千間土手工事が施工された時期(1648年)頃だと考えられないだろうか?
塩崎大明神という神社をサイトで検索したが、福山以外にはヒットなし。(したがって塩崎神社は水野統治の産物)

No. 表題 Title   内容 Contents
001 銅山の龍王神社(址)  画像みる    ↓
     
1-境内

2-八大龍王石?
 「龍王信仰」の注連柱

 向かって右側の注連柱に刻まれた文字を「龍王信仰」と読むのだろうか?
柱の裏面には「大正六丁己吉辰建之」と刻まれた文字がある。

茂平にも龍王信仰があり雨乞い祈願がおこなわれていた、という証。岡山県下は降雨量が少ないが故に「龍王」にちなむ地名が多いという。
筆者には龍王神社は深い山の頂にある、、という思い込みがあり竜神=滝だと勝手に連想する癖があるようだ。

この社は写真でもおわかりのように、右側の灯篭は不思議なことに、脚石だけを残して撤去されている(波浪が浚ったのかもしれない)。
不思議といえばこの神社の参道のスロープは車用としか思えない傾斜である。また、社殿もなければ鳥居も見えない。
左側に歩くと社務所風の家屋があって、「茂平球技場控所」の木札がかかっている。この場合の球技とはまさしくゲート・ボールだ。
右側にむかって歩くと幼児用の遊具がみえる。鋼製のシーソーと鉄棒で水色の塗装が施されている。球技場も遊具もこれらはまさに現役だ。
「わが町ねっと」のサイトで教えてもらった「八大龍王」の石は右側のコーナーにご指摘どおりの数が無造作に置かれていた。
総体的な印象はもはや「祈りの場」ではなく現代的な「憩いの場」に変化している。その変化の最終時期は注連柱が寄進された大正六年以降だろうけど、1811年の堤防完成で海が消えた時期ではないだろうか。
笠岡の地から「住吉神社」が消えたように雨乞い信仰というよりも「海」にちなんだ信仰の場だったのようにおもわれる。

☆☆2008/06/15 追記
   茂平で生まれこの竜王さんのすぐご近所で大きくなったという方(s17生男性)からの聴き取り情報

  『竜王さんのご神体は石で、当時から本殿はなかった。
  当時は海がすぐそこにあり、境内に置かれた石も潮があがると海水に浸かるような状態だった。
  今でも石垣を高く積んだ家が二軒残っているが、この二軒の家はおなじように潮があがると海に孤立しているようだった。
  また干拓で堰きとめた堤防では雨が降ると増水し、海水が逆流するし水害の原因となった。
  茂平から出る舟の発着場所は護岸工事碑のあたり。あの場所が日々の係留場所でもあり船だまりであった。』

☆☆2008/08/12 龍王神社を訪問
   今年も立秋がすぎ残暑の季節、暑い、とにかく暑い。
  気温は30℃超が定着して熱帯夜が通常となりつつある。 この地区の名産品である「桃」の出荷も一段落し、イチジクが青い実を膨らませる
  時候となっているが、降雨なし。
  落雷注意報が頻々に発令あるも、音だけで雨滴なく夏野菜が畑で次々と水枯れ、雨乞いの兆しでもあるかしらんと思って神社へでかけた。
  
  前回とはちがって、龍王石の置かれたスペースは綺麗に雑木が刈り込まれて、雑草も除去、顕かに人の手がはいっていた。
  で、その石は?
  残念ながら雨乞いの儀式の証である直立ではなく、横になったままだった。 ⇒ Click Here

☆2009/02/07 笠岡市城見公民館資料(安藤清孝氏編)
  竜王は水や雨の神である。おおかたの竜王社は山上に祀られているが、茂平の竜王社はかっての海岸に祀られている。
 八大龍王ということで、八本の石が横たえらている。へいせいは石を立てたりすると龍王の怒りに触れて海が荒れるとされ、
 石に触れることもタブーとされた。干魃のときには八本の石を立てて降雨を祈った。

002  銅山への参道  画像みる    ↓

3-山頂に鎮座する太子像群

 銅山の山頂にいたる小径

 龍王神社とちょうど向き合った位置にこの参道がある。龍王神社とはまったくちがって石段の下から見上げると、木陰の遮りでよくみえない山の頂から霊気が階段を下りてきているような尊厳と神秘感に襲われる。神道では山そのものがご神体である。
古代ニッポンが朝鮮半島からわたってきた舶来文化に先駆けて開花していた土着信仰だ。
山全体が村全体を包みこんでこの寛容ある抱擁でここで生活する人全体を融合するような霊力をもっているのだろう。
 

003
碑の正面の道路隔てて見守るムラサキの花

4-正面
 荒神社
 石段を登って、鬱蒼とした雑木が覆う山頂から真北にむかって歩いてくると木々が伐採された平地に出る。
手入れが行き届いた平坦地だ。ゆるやかな傾斜をのぼりつめて見通しのいい場所にこの社が鎮座する。
東西方向には眺望がひらけ、山に囲まれた茂平一帯が確実に視野におさまる景観だった。

☆2009/02/07 笠岡市城見公民館資料(安藤清孝氏編)
 
茂平地区にある荒神社はここ一社のみ。青木・西ノ谷・銅山西&東・矢ノ平・旗涯地の四地区で当番を務めている。
 四年に一度、神楽を奉納する。


004 銅山の千手観音堂

5-本堂内部

6-太子像
荒神社の山を降りると観音さまのお堂が迎えてくれる。

南無観世音大菩薩

と本堂のなかに祀られた御燈明に書かれていた。
この観音さまが鎮座するお堂一帯は、聖なる墓所になっている。
代々この土地のご先祖がお眠りになっている安息の地、お堂の背面には家ごと、あるいは個人の墓石が林立している。
墓所は生活圏と離れた場所に在るのが一般的だが、ここはすぐそばに生活道路が走っている。そのゆえに茂平に鎮座する神社のなかでもこのお堂がいちばん生活と一体化しているという理由で参拝者の数は最も多いことだろう。
また、この場所に茂平大師像もいくつかの札所がまとまって祀られていた。

☆2009/02/07 笠岡市城見公民館資料(安藤清孝氏編)
 
 十一面千手観音堂
     あらゆる方向に目を向け、あらゆることに手をさしのべる観音ということか。
 明治17年の大津波のとき、茂平の海岸に打ち上げられていた観音像を土地の人がもったいないとし、お堂を造って祀ったと言われる。
 もとは白木であったものを、業者が塗装していまの姿になった。
 多くの信者を集め、月の十八日には講が持たれ、三月の十一日には接待も行われていた。
 今ではお参りする人もすくなくなった。