| 文化三年(1806)正月二十七日(新暦3/16) 茂平上陸 伊能忠敬測量隊の三番隊5名が茂平から笠岡沿岸部を測量す |

| 伊能忠敬の『大日本沿岸輿地全図』の完成は忠敬の死後、文政四年(1821)36万分の一で214枚 |
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| 雁木とは階段状になった船着き場のこと。 |
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<出典:伊能測量の海路と瀬戸内文化>2007/03/12 冨田良雄氏 伊能 忠敬(いのう ただたか、延享2年(1745)〜文化15年(1818)は、江戸時代の商人・測量家。 寛政12年(1800)から文化13年(1816)まで、足かけ17年をかけて全国を測量し大日本沿海輿地全図を完成させた。明治16年(1883年)、 贈正四位。上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の人。 伊能忠敬が実際に笠岡に足を運んだのは、彼が幕府御用達となってから最初の西国測量に当たる第五次測量のときのことで、時は文化 三年正月二十二日(西暦1806年3月11日)から二十七日までの六日間である。 『伊能忠敬測量日記』より、 二十二日の未明、三時頃に笠岡入江新田を出発し、代官所の手配した三隻の舟に三隊に分かれて分乗、島々の測量をおこなった。 一番隊は東河・小坂・丈助・半六の四名で備中小田郡真鍋島に属す大島と元小島を測量した。午後一時には作業を終えて真鍋島に到着。 二番隊は坂部・平山・稲生・角二の四名で真鍋島の周囲を測量、午後三時に真鍋島に帰港。三番隊は橋・下河辺・佐藤・吉平・栄治・惣 兵衛の六名が六島を測量して夕方に真鍋島に到着。当時、六島には「前」と「湛」のふたつの集落があり、「湛」は「多田江」と云われていた。 この日の宿泊所は名主の伝右衛門宅であった。伝右衛門はまだ少年だったので入江新田の新兵衛が後見人になっていた。ハブ島には 渡らずに遠測、夜は晴れて天測を行った。 翌二十三日の朝は晴天。午前七時に真鍋島を三手に分かれて出発。 一番隊は東河・坂部・下河辺・角二・栄二の五名で三番隊と手分けして北木島を測量した。三番隊は橋・佐藤・淺五郎・丈助・惣兵衛の 五名でトイ島を測量した後に、北木島に渡って同島を測量、午後から風が強くなり午後三時で作業をおこない未測量部分が残った。 午後四時すぎに両隊は白石島に到着した。二番隊は平山・小坂・丈右衛門・吉平の四名で大飛島と小飛島を測量した後に夕方、白石島に 到着した。庄屋の嘉惣治宅に宿をとりました。たいそう立派な家で、備後福山城下の宿老の大阪屋源助が陣中見舞いに訪ねてきた。この 夜も晴れて、天測をおこなった。 二十四日も朝から晴天。午前七時に三隊に分かれて舟に乗り出発。一番隊は東河・小坂・佐藤・吉平・半六の五名でまず楫子島を測量し、 その後で北木の残りを測量した。午後三時に作業を終えて白石島へ帰港した。二番隊は橋・坂部・平山・角二・宗兵衛・丈助の六名で白石 島の周囲を測量した。三番隊は下河辺・稲生・浅五郎の三名で高島、小高島を測量した。アキマ島・高砂島・カナリ島は遠測ですませて午後 四時に白石島へ帰港した。白石島では連泊となり、この夜は天測を行わなかった。 二十五日の朝は曇天。午前六時前に白石島を三手に分かれて出発。一番隊は東河・坂部・稲生・丈右衛門・吉平・半六・角二の七名にて 神ノ島を三番手と手分けして測量した。興与神社前からはじめて、午後三時に字汁方にて三番隊と出会うまで、三番隊は橋・小坂・佐藤・ 丈助の四名で興与神社から測りはじめて一番隊と出会うまで。その後は一緒に入江新田の新兵衛宅へ。二番隊は下河辺・平山・浅五郎・ 栄治の四名でメウジ島・稲積島・指出島を測量、また大殿洲島、小殿洲島を測量して、午後二時ころに入江新田へ到着した。 二十六日は朝から雨のため新兵衛宅に逗留。平山が病気になる。この日、備中窪谷郡水江村の岡本助之丞が古川古松軒の添え書きを もってきて測量の同行を願い出たが断って帰した。 二十七日は朝から晴天、午前七時に入江新田を三手に分けて出発した。 一番隊は東河・坂部・下河辺・丈助・角二・栄治の六名で片島と木之子島を測量した。二番手は稲生・小坂・丈右衛門・吉平の四名で入江 新田より笠岡までを測量した。三番手は橋・佐藤・浅五郎・丈助・惣兵衛の五名で備後・備中境の備中国茂平村より逆向きに笠岡へ向か って測量をおおなった。途中、笠岡で二番隊と出会い、午後二時には三隊とも笠岡に到着し、西本願寺末寺の浄心寺をこの日の宿とした。 この寺は笠岡村代官山田常右衛門の出役所で、手代の八木与士左衛門の陣中見舞い訪問を受けた。この役所より配下の村々島々へ御 用測量案内の足軽が出されていた。夜は晴れていたので天測をおこなった。ここで小寺典膳子監物と会談、高島に厳分瓦があって、そのう ちに平手、窪手があるということであった。 「伊能忠敬測量日記」の抄文なので詳しくはわからないが、測量隊の指揮・責任者であるご当人の動向が書かれていないが、、、、 また、最終日の最後に記されている小寺典膳子監物とは小寺清先の長男、清之(1770-1843)のことである。 文化三年当時、清之は36才、この年福山藩主阿部正精に召出され、両社八幡宮で邦典(国学)を講じた。父親の開いた笠岡・敬業館は、弟 の小寺廉之がついだ。 文中、高島に厳分瓦があって云々というくだりの意味は?(要調べ) (2011/02/23 記) |