茂平(④護岸工事記念碑と金刀比羅宮常夜灯)


総工事額壱千萬園 銅山海岸補強 砂川水門設置 他

2011/02/24更新
地名考

 
茂平村地誌 by 『大字図』(明治22年)
 地勢地質・海岸
 港湾の茂平湾は海岸線僅かに十三町、随って甚だしき彎曲差なきも本村唯一の入江たり。
 然れども海潮干満の甚しく且つ海底浅ければ一朝暴風雨起らんか遠く東南より十里の激浪を送り来たり船舶の碇繋に便ならず。
 其の上一方陸運の便に乏しきを以って貨物の集散殆どなし。岬角に茂平岬あり。一名長瀬の鼻とも長州の崎ともいう。茂平湾東南に数町突出せる巌礁の先端にし  て揶か東風波浪を防止す。
 暗礁 古登濱礁あり一名沖ノソウワといひ茂平湾西南字苫無海岸より約二丁の海底に位置す。巨岩重墨 東西二丁南北百五十間深潮時十五尺を有するも干潮時 には露出するあり。往々船運の危難を受く。礁標なし。養魚場 往昔海面を堰止めて耕地を作りし残りの箇所淵となり○水停留し面積一町六反九畝二十五歩あり民 有にして鯔鰻等を天然養育す。

金刀比羅宮の常夜灯
 
金刀比羅宮:金刀比羅宮(ことひらぐう) は、琴平山(象頭山)の中腹に鎮まります。

初め、大物主神を祀(まつ)り、往古は琴平神社と称しました。

大物主神は、大国主神(おおくにぬしのかみ)の和魂(にぎみたま)にあたる神様で、記紀神話によれば、国造りの神様であった少彦名神(すくなひこなのかみ)が立ち去られた後に、海の彼方から波間を照らして現れた神様があり、大国主神がその名を尋ねられると、「あなたの和魂です」と答えられました。

大物主神は、国造りの神様として、象頭山の金刀比羅宮に祀られていますが、大己貴神(おおなむちのかみ)、八千矛神(やちほこのかみ)、大国魂神(おおくにたまのかみ)、顕国魂神(うつしくにたまのかみ)など、多数の名前を持たれた神様です。

大物主神は、万物をつかさどることをたたえた神名の通り、五穀豊穣や産業、文化などの繁栄と、国や人々の平安を約束してくれる神様です。

 中古、本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)の影響を受け、金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)と改称し、永万元年(1165)に相殿に崇徳天皇を合祀する。

崇徳天皇は天皇即位18年後に起きた保元(ほうげん)の乱(1156年)に敗れ、無念の想いを胸にここ讃岐の地へ配流(はいる)されてしまいました。

それから後の9年の歳月を上皇は讃岐で過ごされましたが、その日々は寂しさに満ちたもので、傍目(はため)にも心痛むものがあったと伝えられています

その後、明治元年(1868)に神仏混淆(しんぶつこんこう)が廃止されて元の神社に復(かえ)り、同年7月に宮号を仰せられて、金刀比羅宮と改称し、現在に至っています。


 常夜灯:承和六(839)年、帰還する遣唐船のために、朝廷が太宰府に松明を絶やさないように指令しました。これが記録に残る最初の燈台と言われています。その 後は、  神社の常夜灯(高灯篭)が燈台として船の目印になっていました(もちろん金比羅宮にも常夜灯があります)。

景色考

位置:N 34°29'22.011" E133°27'37.894"
笠岡統治体制の変遷水野 勝成(みずの かつなり、永禄7年8月15日1564年9月30日) - 慶安4年3月15日1651年5月4日))  

 元和5年(1619年)に福山藩10万石を与えられ、福山の地に新たな城(福山城)を築城した。⇒笠岡には備後福山藩の笠岡代官所が設置される。
 1698年 水野家5代藩主水野勝岑死去による無嗣除封に伴い、福山藩領のうち現在の笠岡市分の大半は分割され、福山藩領、天領旗本領となる
 1700年 笠岡町に幕府代官所が設けられ,以後現在の市域の大部分は幕末まで42代170年の幕府代官支配が行われる。
 

茂平の江戸時代の干拓事業(参考引用サイト:昔の茂平
 第一期:現在東郷と呼ばれている新田、「とんまんどて」(通称川尻から銅山の南端に至る堤防)と「かまんど」(銅山の北端から青木の南端に達する堤防) 
      より以北の干拓の完工(時期は水野統治1619年以前?)。
 第二期:「新土手」(銅山の西北端の砂川附近から、西の谷に至る堤防)この新田を「だいとうでん」と呼ぶ。これにより東郷と西郷が形成された。
 第三期:文化8年(1811年)吉原新田完成(銅山の南端から苫無に至る海岸堤防によって造成した地域)、新田守護のため塩崎神社と稲荷大明神を勧請(??)。
 
水野家との関わりで考えると「塩崎神社」の建立は福山の千間土手工事が施工された時期(1648年)頃だと考えられないだろうか?
塩崎大明神という神社をサイトで検索したが、福山以外にはヒットなし。(したがって塩崎神社は水野統治時代の産物と思われる)

No. 表題 Title   内容 Contents
001 茂平地区の護岸工事完工記念碑  画像みる    ↓
     
工事金額と工事詳細
 第三期工事として完成した堤防(1811年)
その後、何度か決壊等の被害で修復され、昭和26年(1951年)から高潮対策事業による補強工事が城見村にて施工され昭和28年に完成。
その完工記念し、城見村議会一同で排水樋門跡近くの堤防上に「茂平護岸工事記念碑」(昭和28年9月16日)を立てている。

002  茂平港の船着き場と常夜灯  画像みる    ↓

舟着き場だった石段(雁木:がんぎという)
  ↓
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伊能忠敬の測量隊がここに上陸
 記念碑の隣に建つ金刀比羅宮常夜灯

海を背にして石燈には「金刀比羅神社 茂平村中」と刻まれている。建立は明治12年。
積まれた石垣と石垣の間には石積み階段があり、この位置が茂平村港の玄関であった。
地誌によると明治22年当時、茂平村の人口は733人、うち農業従事が88戸に対して漁業従事者が50戸と記されている。村民が保有する漁船の隻数は54隻、積載トン数が50石未満船2隻。村の農産物の出荷や村以外からの物資搬送(短い航海用)に使われていた。
とはいえ、56隻もの船が係留している情景は壮観だ。
茂平村は遠くさかのぼれば漁業が主で明治にいたり半農半漁、その後海が消滅し農業の村となった。というストリーがあったのかもしれない。

 ☆2011/02/23 伊能忠敬測量隊が上陸
  文化三年(1806)幕命の測量隊のうち第三番隊の髙橋・佐藤・浅五郎・丈助・惣兵衛の五名が入江新田から舟でここに上陸、笠岡村に向
 かって測量をおこなった。 ⇒ ClickHere
 

003
茂平地区の護岸堤 茂平工業団地を南に延びている

この堤防が苫無まで続く遠景(八幡宮から俯瞰)
 消えた港と水際線
 いまから200年前、この堤には海が迫り浪が石垣を叩いていた。
ニッポンは海洋国家だったといわれているように、神武天皇は日向の国から瀬戸内海を航行し大和を目指し神話が生まれた。
「魏志倭人伝」の倭の国・対馬國の記述に「土地は険しく深林多く、道路はきんろくのこみちの如し。千余戸有り。良田無く、海物を食いて自活し、船に乗りて南北に市てきす。」とあるように卑弥呼の時代(紀元~3世紀)のニッポンは海に依存し生計をたてていた。
事実この地笠岡でも縄文時代の遺跡の出土数は圧倒的に島嶼部からが多い。
19世紀になってから笠岡の遠浅の海がつぎつぎに姿を変えて農地が生まれ恒常的な農業生産性が高まった。
この工事で完成した銅山~苫無間の500町の長さの堤は八幡宮の境内から視認できる。