友愛と平和紀念碑(茂平会館前)


国務大臣 加藤六月

地名考

茂平村の教育事情:市史からの抜粋。

 笠岡村に地元有志による郷校「敬業館」が設立されたのが寛政九年(1797年)、茂平村では遅れること61年後に寺子屋が開設されじ来明治5年(1872年)まで14年の間開講していたとの記録が残る。
その後、明治6年(1873年)小学校の前身となる「鳥飛学校」が開校、教員数が2名・生徒数は男子が86名で管理者として西浜の久我源三郎となっている。
この時期、おなじ管理者のもと大冝村が「新開学校」教員2名・男子生徒35名、用之江村が「明道学校」教員1名・生徒30名で茂平の生徒数が目だって多い。
その後、明治10年には茂平の生徒数は男子27名・女子4名と変化し、数は減ってはいるがはじめて女子生徒の小学校入学実績が見えている。

 城見小学校のウェブサイトをのぞいてみたが、茂平の小学校が何時・何処に開校し、またその後の変遷等詳細は不明。
「いきいき笠岡21」の城見台・茂平いきいきコースには茂平変電所の西北に「旧茂平集会所」とある。
その場所とおぼしき処へ歩いていってみたが建屋はあっても使われていない廃屋でありそのムカシ集会所として使われていたかまた学校であったのか今のところはわかっていない。

☆2009/02/07 笠岡市城見公民館資料(安藤清孝氏編)
  「鳥飛小学校」跡
    明治六年(1673)茂平村に開校された小学校は、やがて城見小学校支校・分校となり、大正三年校舎の改築とともに
  城見小学校に合併となった。
  現在その跡が、ここ茂平公会堂が建っている。
 

景色考

 茂平の集会所
 
この「茂平会館」ほどは立派ではないが、地域にいまも「集会所」が点在している。
歩きながら見つけた集会所はいま現在つぎのとおり。
  青木集会所
  銅山西集会所
  西ノ谷集会所
  旗涯地集会所
☆追加(2008/07/02: 思い出して)
  坂里集会所

No. 表題 Title   内容 Contents
001 茂平会館前の「友愛」の碑  画像みる    ↓
     
 
 加藤六月先生が国務大臣(国土庁長官・北海道開発長官)になったのが昭和57年、翌年は自由民主党の税制調査会会長、昭和61年には農林水産大臣に就任(いずれも中曽根内閣)、昭和22年旧制姫路高等学校を卒業の後故星島二郎衆議院議員秘書を勤め、昭和42年衆議院議員(岡山2区)初当選以来政治家としてデビューした。
  • 生年月日     大正15年6月17日(70歳)  本籍地      笠岡市用之江
 時代が変わって羽田内閣のとき再度農林水産大臣に就任。笠岡干拓「食と緑の博覧会」のイベントや笠岡飛行場建設等、この用之江出身のセンセイは郷土笠岡のために尽力された(飛行場にはこの碑と同系のデザインの自然石のモニュメントに当時の岡山県知事・長野士郎揮毫の『飛』の碑がある)。
六月センセイの政治信条は「集金は県外から、寄附は郷土へ」地域からの受益代表として数々の実績を刻んでいる。
002  茂平会館前の「平和紀念」の碑  画像みる    ↓

 平和紀念碑 昭和二十年八月十五日

 この碑には「記念」ではなく「紀念」と刻まれている。
意味は「記念」と同じだろうが「祈念」に近い。この碑の日は多くの命を奪った大東亜戦争が終結した日であり、かの高名な玉音放送がラジオで全国民へ流された日だ。
『朕深く世界の大勢と帝國の現状とに鑑み非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し(ここ)に忠良なる(なんぢ)臣民に告。朕は帝國政府をして米英支蘇四國に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり。・・・・・・・・
然れとも朕は時運の趨く所堪へ難きを堪へ忍ひ難きを忍ひ以て万世の爲に太平を開かむと欲す。朕は茲に國體を護持し得て忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し常に爾臣民と共に在り。』
玉音放送⇒http://kan-chan.stbbs.net/docs/shusen.html

003
茂平・西ノ谷遊歩 画像みる    ↓

 大見山眺望ワォーク:

八幡宮の境内で一休みして、かなり急な勾配の石段を降りて茂平会館前に出る。

会館の前で「友愛」と「平和紀念」碑を見て胡耶山を左に沿って北へ歩く。
閑静な住宅地を散策しているような、それでいて手入れの行き届いた畑地がずう~っと続く。

茂平=イチジクで著名度が高いけれど、桃・イチゴ・琵琶・かんきつ類等、米以外の畑での果実栽培が目につく現風景だ。