茂平(②塩崎神社)
祭神豊玉彦命豊玉姫命 本村の氏神なり 地内松樹林を為す
茂平村地誌 by 『大字図』(明治22年)
拝社地 東西ニ十三間南北九間 面積六畝廿八歩本村西の方にあり。
***塩崎神社について*****
福山市東深津町に在る
高野山遍照山光明院の縁起につぎの記述あり。
光明院の縁起については、室町時代、深津村字市場に無量寺という庵寺があり、それが起源といわれています。
そして徳川の時代に入り、正保2年(1645年)当時の深津郡りに、藩主水野勝成が新田の造成を計画し、俗にいうところの千間土手(せんげんどて)を作り堤防工事を始めました。
正保4年(1647年)、勝成は新開地造成の潮止めのために千間堤の工事を始めましたが、これが難工事で、いくらやっても土手が崩れるため、半ばあきらめていました。 そのようなとき、土地の庄屋が「この浜辺には塩崎大明神という小さな社があって、本地は不動尊だが霊験あらたかだからこれへ祈願してみてはどうか」と言うのです。そこで勝成は工事の関係者と一緒にこのお社に参拝祈願を行いました。
すると、土手が閉まって壊れなくなったのです。塩崎神社は、そのお社として現在の社殿に建て直したといわれています。そして、深津村市場にあった無量寺の庵主に、その社務を行わせることになりました。10月、引野村梶嶋山から深津村王子山をつなぐ大潮止堤防が完成しました。「千間土手」といわれる大築堤防工事でした。
時代は翌正保5年2月より慶安元年(1648年)と改称されます。
勝成公は深津村の塩崎明神社へ社領として田地3反歩を寄進し、ついで深津村字市場の無量寺庵を再興して「遍照山光明院」と改称しし、塩崎神社の別当寺としました。 これが現在の光明院の始まりといわれています。
☆「よしはま物語」by 関藤不二男氏著 志水家代々記のなかに塩崎神社と稲荷神社の創建に関して、次ぎの記述あり。(2010/10/30記)
文化十壱年甲戊(1814)八月、茂平村新田の宮立ち申し候。
八月廿八日勧請仕り候。棟札は、
(ヲモテ)甲 文化十一年 塩崎大明神 祈
祝籙社頭康栄
戊 奉 造 立 稲荷大明神 所
八月廿八日 関藤権頭藤原好家
(ウラカキ)下津磐根宮柱太敷
立高天原仁千高知氐 大 願 成 就
瑞乃御舎仕奉留
本村庄屋 松浦増治郎 後源治郎 武兵衛
初安右衛門 長兵衛
新田組立 定右衛門 源七 幸重郎
同 金 助 助九郎 安兵衛
大工 志和句 広島 竹内喜治郎
右の通り棟札納め置き申し候。
位置:N 34°29'23.043" E133°27'26.128"
笠岡統治体制の変遷:水野 勝成(みずの かつなり、永禄7年8月15日(1564年9月30日) - 慶安4年3月15日1651年5月4日))
元和5年(1619年)に福山藩10万石を与えられ、福山の地に新たな城(福山城)を築城した。⇒笠岡には備後福山藩の笠岡代官所が設置される。
1698年 水野家5代藩主水野勝岑死去による無嗣除封に伴い、福山藩領のうち現在の笠岡市分の大半は分割され、福山藩領、天領、旗本領となる
1700年
笠岡町に幕府代官所が設けられ,以後現在の市域の大部分は幕末まで42代170年の幕府代官支配が行われる。
茂平の江戸時代の干拓事業(参考引用サイト:昔の茂平)
第一期:現在東郷と呼ばれている新田、「とんまんどて」(通称川尻から銅山の南端に至る堤防)と「かまんど」(銅山の北端から青木の南端に達する堤防)
より以北の干拓の完工(時期は水野統治1619年以前?)。
第二期:「新土手」(銅山の西北端の砂川附近から、西の谷に至る堤防)この新田を「だいとうでん」と呼ぶ。これにより東郷と西郷が形成された。
第三期:文化8年(1811年)吉原新田完成(銅山の南端から苫無に至る海岸堤防によって造成した地域)、新田守護のため塩崎神社と稲荷大明神を勧請(??)。
水野家との関わりで考えると「塩崎神社」の建立は福山の千間土手工事が施工された時期(1648年)頃だと考えられないだろうか? ⇒ 判明!2010/10/30
塩崎大明神という神社をサイトで検索したが、福山以外にはヒットなし。(したがって塩崎神社は水野統治の産物)
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茂平地区の神社・②塩崎神社 |
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地誌によると境内に松樹林をなすとあるが、松は見えず。現在では代わりにサクラ5本とクスノキが植えられている。
立地的には八幡宮の鎮座する宮山から海岸に向かって降りてきた地先、小字で「宮ノ崎」と呼ばれていた土地であろう。
干拓工事の成功を祈願して建立したとすれば第二期工事の時代以降とおもわれる。
昭和30年代の製鉄会社立地にともなう干拓で従来の干拓護岸の沖側も海から陸地となり、鎮座された塩崎大明神も任期満了で賽銭箱は残るものの写真奥に見える本殿は閉じたまま、ご不在のご様子、聞けば組うちが輪番の掃除当番でお世話は今もしているとのことだった。
☆2009/02/07 笠岡市城見公民館資料(安藤清孝氏編)
「皇国地誌」の茂平の項に、「八幡社」と並んで揚げられ、「本村西ノ方ニアリ、祭神豊玉彦命・豊玉姫命、本村ノ氏神ナリ」とある。
海神(わたつみ)豊玉彦命が父神で、豊田姫命はその娘である。 城見地区の漁業にたずさわる人たちが海上の安全を願って祀ったもの
である。
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茂平地区の神社・②塩崎神社に並ぶ「正一位稲荷大明神」 |
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「正一位 稲荷大明神」
塩崎神社と間口を並べて稲荷神社が鎮座している。
『「正一位稲荷大明神」の称号は、伏見稲荷の祭神を、「稲荷勧請」によって、各地の稲荷の社祠に分祀したことを示すものである。そして「正一位」の神階は、伏見稲荷を「狐の本所」とする観念と関わりながら、「狐の官位」として普及していった。また、吉田家(吉田殿)神祇管領長上家や自川家(白川殿)神祇伯王殿家、伏見稲荷大社、妻恋稲荷、王子稲荷の五ヶ所から、稲荷の勧請証書が発給されている。』
稲荷神社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
稲荷神(いなりのかみ、いなりしん)は、日本の神。稲荷大明神(いなりだいみょうじん)ともいい、お稲荷様・お稲荷さんの名で親しまれる。稲荷神を祀る神社を稲荷神社(いなりじんじゃ)と呼び、日本各所にある神道上の稲荷神社の総本社は京都市伏見区にある伏見稲荷大社である。また神仏習合思想においては仏法における荼吉尼天が本地仏とされる(その総本社は豊川稲荷)。稲荷神は、宇迦之御魂神(うかのみたま。倉稲魂命とも書く)などの穀物の神の総称であり、宇迦之御魂神の他、豊宇気毘売命(とようけびめ)、保食神(うけもち)、大宣都比売神(おおげつひめ)、若宇迦売神(わかうかめ)、御饌津神(みけつ)などとされている。
☆2009/02/07 笠岡市城見公民館資料(安藤清孝氏編)
稲荷宮は五穀豊穣の神として祀られ、やがて商売繁盛の神として祀られるようになった。
茂平では尾越の山中に祀られていたが、平成12年にこの場所に移設された。
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茂平地区の神社・②塩崎神社の北山裾の「第五十八番 いよ作礼山」と読める碑 |
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第五十八番 作礼山 愛媛県今治市に在る高野山真言宗 仙遊寺祭祀するご本尊は「千手観音」 ⇒
この位置から数百メートル東に離れた銅山の北には「千手観音」を祀るお堂が建っている。
茂平大師信仰はこの地域だけではなく笠岡一帯に広く分布しており、おもいつきの直感で言えば四国から瀬戸内海を隔てた中国地方の島ショウ部を含めて水際線を領地に持つ沿岸地域に広がっているように思う。
八幡宮とも目鼻先の至近距離に応神天皇・塩崎大明神・稲荷・弘法大師と千手観音に地神さまとがひしめきあうように祀られている。
これはいまの我々の感覚でいえば、総合病院があってそのすぐ近くに歯科・眼科・脳外科・小児科といろんな癒しの専門窓口が整っているという図柄に近いのかも。。。。
☆2009/02/07 笠岡市城見公民館資料(安藤清孝氏編)
八十八カ所巡り 茂平地区全域
四国八十八カ所巡りのミニチュア版である。石像一つが一カ寺を現し、七十四箇寺が確認され十四箇寺は不明である。
明治十一年頃に立てられたと言われている。当初は海の土手に多く祀られていたが、最後の干拓のとき移動された。
いまは何人かが集まって、正月の日曜日に経巡している。
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更新
2010/10/30 |

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