2010/10/04 更新


茂平(①八幡神社)


大字茂平字宮山の鎮座して村社なり

地名考

 
茂平村地誌 by 『大字図』(明治22年)
 祭神は応神天皇にし柤殿は神功皇后及び玉依姫しにして創立不詳なり。(明治9年「村誌」には宝永3年(1706年))
 寛永三年(1626)四月再建し明治六年(1873)十二月村社に列せらる。

☆ 2010/10/03 (日) 2010年 秋祭り ⇒ ClickHere


 八幡神社 2009/01/28追記
       九州国東半島の一隅に祀られていた農業神の「やはたの神」は宇佐に勧請されて「宇佐八幡」と名前を変え、国の守り神となった。
 宇佐八幡宮の託宣によって東大寺の建築がすすめられたり、称徳天皇(孝謙上皇重祚)より太政大臣禅師となった(765)弓削の道鏡の天皇問題で
 和気清麻呂が宇佐まででかけて御神託を聴くなどの役割を演じてきた。また、山城国男山に勧請された石清水八幡宮は京を守る神として敬拝された。
 鎌倉時代になると幕府により鎌倉に鶴岡八幡宮が建立されて武士の崇拝を集めた。国家鎮護・武門繁栄の功徳をもって鎌倉から全国の村々へ勧請
 された。祭神は当初はアマテラス(農業神)から神功皇后、応神天皇(武神)に変化し、オキツ日子・オキツ媛(火の守り神)も併せ祀っている。
 神功皇后
       仲哀天皇の妃、名は息長足媛(おきながたらしひめ)。急死した天皇に代わり、身重のまま新羅に進攻し、凱旋して筑紫で誉田別皇子(ほ
 むたわけのみこ)応神天皇を出産した。

☆茂平 八幡神社: 旧村社  主祭神 応神天皇 神功皇后 玉依姫
          例祭  十月第一日曜日  境内地 2,606坪 主要建物 本殿 幣殿 拝殿 摂末社 塩崎神社 氏子数 146戸 崇敬者数 800人
          由緒沿革
             創建年代は不詳だが、宝永三年(1706)四月再建、明治六年(1873)村社に列格、漁村の守護神として奉祀した。海上安全、大漁
             繁栄の神として今日に至っている。寛政十年(1798)笠岡の地で丸木により建造されたお舟みこしは、今日なお例祭には村中を巡
             幸し、昔日の漁村の祭りをしのばせている。(2009/08/29 この項追記・「岡山県神社誌」より)

☆ 大島素盞嗚神社古記録より 「明治30年(1897)本殿再建、旧本殿は茂平八幡宮へ売却、中殿と拝殿を改造。」とあり ⇒ ClickHere



☆2008/09/17 笠岡市史3巻p139 八幡神社創建 宝永三年(1706)

***祭神の応神天皇について*****
応神天皇と吉備の国
 「日本書紀」応神天皇の条につぎのような記述あり。

 応神天皇が吉備に行幸の際、吉備臣の祖先ミトモワケ(御友別)がこれを迎え、その兄弟子孫を膳夫(かしわで料理人)として天皇に仕えさせた。これを天皇は喜び吉備国を分割して御友別の子どもたちに治めさせた。
すなわち、川島県(かわしまのあがた)を長子のイナハヤワケ(稲速別)=これが下道臣の始祖。
次に上道県をわけて中子のナカツヒコ(仲彦)に治めさせた。これが上道臣・香屋(かみつみちのおみ・かや)=賀陽臣の始祖。次に三野県(みののあがた)をオトヒコ(弟彦)に治めさせた。三野臣の始祖。また、御友別の兄ウラコリワケ(浦凝別)には苑県(そののあがた)を分け与え、苑臣の始祖となった。また御友別の弟のカモワケ(鴨別)に波区芸県(はくきのあがた)を治めさせた。これが笠臣の始祖である。このほか、織部県(おりべのあがた)を応神妃の兄媛(えひめ)に授けたという。
{川島県=備中高梁川と小田川との合流点付近、上道県は備前国上道郡の地域、三野県は備前国御野郡御野郷を中心とする地域、苑県は備中国下道郡曽野郷を中心とした地域、織部県は賀夜郡服部郷の地域がそれぞれ比定されている。

景色考

位置:N 34°29'23.043" E133°27'26.128"
参道を歩く:この社が最初に建った頃は参道の階段まで海が迫っていたことだろう。
 人々は山を拓き田畑を作り安定した生活を手にいれた感謝と日々の継続を祷るために日当たりの良好な眺望のきくこの地に社殿を造り神を迎えた。
 人が定住し集落が形成されるとその地域の全員が一同に集まる場所が要求される。集まりの目的は禱りのみならず集落の情報交換が主目的である。
 情報とは文化、経済、知識、教育、伝聞、宗教などすべての外的なデータがこの場で共有と交換と醸成された。
 祭礼の日には集落の人々は晴れ着を身にまとい文字通り晴れやかな時間を演出し生きる喜びを共有したにちがいない。

No. 表題 Title   内容 Contents
001 茂平地区の神社・路傍記念碑 ①八幡宮  画像みる    ↓
   
1-参道上

2-注連柱

3-南眺望

 表参道と反対の山道沿いに参る道も舗装になって整備されている。
敷地面積は東西十五間、南北六拾六間、面積三反三畝(0.33ha)。
当時の社の建てれた土地の小字名は「宮山」で西隣には「宮ノ崎」「堂面」という宗教的な地名が並ぶ。
またこの社の境内を整地中(昭和39年9月)に墳時代の箱式石棺と人骨が発掘され、この場所を「宮山古墳」と呼ぶらしい。 ⇒古墳情報ClickHere

002  茂平地区の神社・八幡宮の奉納額  画像みる    ↓

4-夜燈柱

5-盥漱石
 「皇紀二千六百年 聖地参拝記念」
初代天皇として神話に登場する神武天皇が日向(宮崎県)から東進し大和地方を平定の後、大和の橿原(かしはら)の宮で即位した年を日本書紀の紀年に基づき、皇紀と定めた紀元をいう。皇紀元年とは西暦前660年( B C 660 年 )であり、皇紀2,600年とは昭和15年(1,940年)のこと
この歳、ニッポン全国でいろんな記念式典が催行されたという。
(笠岡の正寿場町の隅田川沿いにこの皇紀に千六百年記念碑があったが、前面はブロック塀に向き合って目隠し状態にあった。)
国民全体の民意の発揚と集約には何かのシンボルとインパクトが要るという歴史の定理証明の残滓かも。

 当時歌われた歌に「紀元二千六百年」の歌(作詞:増田好生、作曲:森義八郎)↓
『金鵄(キンシ)輝く日本の、栄えある光、身に受けて今こそ祝へこのあした、紀元は二千六百年、ああ一億の胸は鳴る。』
キム・イルソンの国家で起こった出来事でなく、このニッポンでの史実。
 

003
茂平地区の神社・八幡宮境内からの眺望 画像みる    ↓

6-境内より南を眺望の景観
 西ノ谷~銅山西を望む眺望
撮影の日はちょうどサクラの花が七分咲きで春の長閑な山里情景を演出していた。
ニッポンから田舎も山里も消えつつあるという。
理由は、この田舎と里山と二つのアイテムを維持してきた核(=ヒトのツナガリ)が消えつつあるという状態のことで、核は神社であり地域の人々の信仰心と共同体としての一体感でありまた、個々の構成員が感じる帰属性と必要性であった(と思う)が消えつつあるということ。
社が共同体の核としての役割を終えた現在、人々の心を埋めるモノは何であろうか?21世紀になった今、戦後を生きてきた世代の交代もあり
戦後第二世代がニッポンを牽引してる。国家も経済も文化も価値観も、いったいどこへ向かって走っていくのだろう。。。。。
004  茂平地区の神社・八幡宮の奉納絵馬  画像みる    ↓

「明治三十八年 戦役紀念」
 明治38年2月4日、御前会議にて対露交渉打ち切りを決定し開戦となる。
額に墨書されているのが「小田郡城見村大字茂平」から出征者22名を列記、そのうち3名の名前の上に「故」と記されている。
奉納は明治三十八年十月十六日

 神社へ奉納されている戦役関係絵馬
 1-鳥羽・伏見の戦
     慶応4年(1868)正月三日~六日にかけて、薩長側約4千5百人(薩摩・長州・土佐・尾張藩)と幕府側一万五千人(会津・桑名・大垣・浜田
     高松藩)とが京都南部の鳥羽・伏見の地で激突、戊辰戦争の発端となった。

 2-西南戦争
     明治十年(1877)西郷隆盛を中心にした鹿児島士族の反政府軍が熊本鎮台を目指して出陣、熊本城・田原坂・人吉・都城などの決戦を経て
     9月24日に鹿児島城山に集結した残兵300人は政府軍6~7万人に包囲され、遂に自刃して終戦となった。

 3-日清戦争・日露戦争

 4-日中・太平洋戦争