参照サイト:http://et0120.web.infoseek.co.jp/mukasi/kohunn1.htm
☆宮山古墳 

宮山の八幡神社の社殿前境内を整地中に、2基の箱式石棺が発見された。昭和39年9月のことである。
副葬品等の出土はなく、埋葬された人物の特定もできないが、埋葬時期は古墳時代後期前と云われている。
☆2008/08/26
いちじくの起源
ルーツはアラビア半島、ニッポンへの渡来は1630年頃、井出平左衛門の「さつまいも」よりちょうど百年早い勘定。『wikipedia』より
イチジク(無花果、映日果、英語 木はfig tree、実はfig)は、クワ科イチジク属の落葉高木。学名はFicus carica。別名、蓬莱柿(ほうらいし)、南蛮柿(なんばんがき)、唐柿(とうがき)など。原産地はアラビア南部で、紀元前3000年頃には栽培されていた。日本には、1630年長崎に渡来した。不老長寿の果物ともいわれている。
「映日果」は中世ペルシア語のアンジールを中国で音写し、意味を表す「果」を補足したもので、日本ではこれを「えいじつか」と読み、転じて「いちじく」と呼ばれるようになったとする説がある一方、果実が一ヶ月で熟すから、または、一日一果実ずつ熟すからという「一熟(いちじゅく)」から転じて「いちじく」と呼ばれるようになったとする説もある。
中国の特産地である新疆ウイグル自治区のウイグル語でもアンジールと呼ばれている。中国の古語では他に「阿驛」、「阿駔」とも音写され、「底珍」、「天仙果」などの別名もある。



 国繁の沖合いおよそ400mの海
に当たる干拓地の土中から銅戈が出土した。
昭和57年(1982)12月21日、重機で暗渠排水溝を掘っていた秋田県出身の作業員加藤豊治さんが発見した。
幸い加藤さんは市へ通報され、中国地方で二本目の銅戈の発見となった。
(一本目は広島市安芸町福田)

発見された笠岡の銅戈の長さは34.7cm幅3.5cm厚さ0.5cmで、この銅戈は細形に分類される弥生時代の武具型祭器と思われる。
(笠岡郷土史館所蔵・展示中)

集会所一覧

1-茂平会館

2-坂里集会所

3-西ノ谷集会所

4-青木集会所

5-旗涯地集会所

地神碑

功労碑

大師像群

八幡神社

塩崎神社

友愛の碑

護岸碑

龍王神社

荒神社

砂川改修

戎神社

千手観音

社稷碑

社稷碑


茂平を歩く


三方は山に囲まれ唯一南は海に面した村

地名考

 
茂平村地誌 by 『大字図』(明治22年)、『正保郷帳』、『備中国古絵図』を引用
 前記二史料で茂平村のことを毛平村としている。当時小集落のことを平(ひら)と呼んでいた。今日では「地区ごとに、、」というところを「平々に、、とか平ごとに」といっていた。「平」=普通名詞で小土地の名称。。。。毛は一毛作・二毛作にみえるとおり「植物の実り」の意。よって備中毛平村の命名はは毛(みのり)+ひら(土地)となる。
***↑モビラは「実り」を冠できるほど豊かな土地だった!?*****
海辺ゆえに「藻」+ひらであったという説もあると紹介しながら笠岡市史の編集者たちは海なき美作の土地に同名の小字名があることからこの説を却下している。藻からの連想は「塩」。茂平にもかっては塩田があったという(この八幡宮の下に「塩崎神社」が鎮座する)村だ。塩がより貴重であった古代、河川のない丘陵の村とも言えるこの土地は「実り」の村よりは「藻」⇒「塩のむら」という命名のほうがより独創的で個性的だし現実味があると思うがどうであろう。 → 藻苅事件の顛末 2009/05/04 Click

大唐米 だいとうまい=赤米のこと。シシ食わずor毛稲or印度米と呼ばれる品質の劣る米。干拓工事により生まれた開墾地のことを大唐田(たいとんでん)と呼ばれる。鯛が飛んでいた田という説もあり。笠岡市史には第一次から第四次までの開墾工事があり堤防跡等より年次考察をしている。

小字命名命名の由来『備中国小田郡茂平村御検地水帳』(元禄13年)を参照
 坂里(里は古代の郷里制の里の遺称地)東郷・西郷(郷は福山藩水野時代の呼称)、国繁(くにしげ=中世の名田)、東吉原・西吉原(葦の生えた土地)、旗涯地(はたがいち=畑垣地)、丸山・小迫・野上・西の谷(緩やかでいりくんだ地形の地理的命名)、銅山(どうやま=大塔山→大とう山→とう山→遠山→銅山:塔山とは真言宗の多宝塔)、阿浜(あはま=網端浜(あばはま)からの転訛で網漁業にちなむ)、苫無(とまなし=苫生(とまなす)と解釈。苫の材料たる菅や茅の採取をしていたところの意)、宮の崎・宮山・堂面・蒼檟(信仰にちなむ命名で堂めん=免、そうどくは田の神)、青木(青々と緑が茂っている土地、風呂は森になっている箇所への命名)
****↑蒼は青い、檟は引き出しつきの箱のこと。そうどく=田の神という出典はどこだろう?また立地的には蒼檟は現在井原福山線の道路が走っているあたりで田があっても段々畑だろうから水田には程遠いとおもわれる。
苫無が苫ありからの転訛だというのも意味が反転して納得できない。銅山と遠山or塔山もおなじ地名とも思えないなぁ~

☆2008/06/18 小字「坂里」の読み方について
  s51年から坂里に住まわれている方(s20生男性)との会話で、さかさと(わたしの思い込みで誤) ⇒ さかり(正)だと学んだ。
  当初は自治会もなく昔からの茂平坂里の住人はわずかに四軒しか残ってなく、あとの住人たちは自分(長崎出身)を含め県外移住者が多かった。
  また学区が福山の小学校へ便宜的に編入してもらっている関係で福山大津野自治会との調整もあり苦労が多かった。
  また、坂里池の存在を聞いたが、ご存知ないとのことだった。 --------------- ⇒ 坂里の古墳 
ClickHere
☆2008/06/23 小字「青木」の読み方について
  小平井の田植えが終わった稲田にひとりで除草剤を撒いてた女性(s18生)と立ち話をした。
 聞けば彼女の実家は茂平、里帰りには単車を運転して往復されていたとのこと。また学生時代の通学には真っ暗な早朝に起きて青木から山越えで大門の
 駅まで 歩いたという。灯がないので足元は見ず、空の竹薮の影を見ながら当たりをつけて通い道の歩を運んだ。苦労しました、、、とのこと。
 で、「青木」の読み下しは「あおき」ではなく「あおぎ」だった。
☆2008/07/06 小字「国繁」の読み方について
   「くにしげ」かと思っていたが、「こくしげ」とのこと。
漢字で表記するといろんな字に変化する。地名に限らずまず「音読」が存在し、その後に伝達のために文字に書き落とされる。
「こくしげ」⇒「穀」+「繁」だったのかもしれない。ただ地名の解明・解説書を読んで常に思うこと。
命名者は誰?という解説に欠ける。その土地に住んでいた人々が勝手に決めたのか、為政者が決めたのか、その視点によって意味と意図の見え方が変わる。

東吉原の波止 東吉原には港があった。幕末の測量家伊能忠敬一行が、文化3年(1806)01月に笠岡諸島の測量を実施した際、その第三番手が入江新田からこの茂平港へ上ったとか。『伊能忠敬の測量日記』 ⇒ 詳細はこちら (2011/02/23) ClickHere

記念碑考

地誌に記された「社」は二座。
 ①八幡社 拝社地東西十五間南北六拾六間 面積三反三畝歩本村西嶺の麓にあり、祭神応神天皇本村の氏神なり地内老松葱爵す
 ②塩崎神社 拝社地 東西ニ十三間南北九間 面積六畝廿八歩本村西の方にあり、祭神豊玉彦命豊玉姫命 本村の氏神なり 地内松樹林を為す
歩いてみて分かること。
 ③下図にプロットした社としての拝殿をもつ構築物以外に略式の八十八箇所(地蔵尊と太子堂の2基セット)があっちこっちに残っている(八幡神社の周辺・銅山の荒神社・西ノ谷・旗涯地の峠)。寺院は笠岡市中に集中するせいかこの茂平には寺がない(千手観音は銅山にあり)。その代わり四国八十八箇所を祀る祈り(真言・弘法大師)がおこなわれていた。四国霊場のミニチュアは神島のみならず真鍋島・六島にもみられる(御嶽山は西国三十三観音像)。これだけ広範囲に太子信仰が地域に根付くのは村々からお四国周りをした村人たちが個人的・自発的に旅行のできない人々のためにご利益再現のための霊場を祀ったのであろう。
 ④社稷碑&常夜燈が戎神社の前にあり。社稷碑は「地神」を祀る碑であろう、青木池・東郷・矢ノ平・旗涯地の分岐路にある。道祖神信仰は旅の安全・道路にかかわる意味での信仰である。常夜灯が道しるべの役目をしていたように地神は道ゆく人の息災を見守っていたことだろう。
 ⑤工事記念碑散見(三基)
  茂平のシンボルともいえる昭和28年完成工事の記念碑である「護岸工事記念碑」。
  矢ノ平に立つ「砂川改修記念碑」、大正時代施工の干拓新田の砂川の河床整備工事とか。
  蒼檟(?)に「道路修復記念 大本源次郎功労碑」がある。正面は東に向いて南面は「昭和九年六月十六日建之」北面は「城見村大字茂平有志」東面「世話人として15名の氏  名」がそれぞれ刻まれている。
 ⑥その他
  護岸工事記念碑に並んで建っている「金刀比羅神社常夜灯」明治十二年茂平村之建立 当時この灯りを頼りに操船・係留していた舟がこの護岸に泊まっていたことだろう。
  土手で締め切った堰の一隅は石段が築かれ港の船着き場の情景をとどめている。文化3年(1806)十一月、伊能忠敬率いる測量隊の第三隊がこの地を踏んで福山へ向けた
  八幡宮境内の改築記念碑「平成元年稲荷神社本殿・参道 平成三年八幡神社本殿・参道・手洗 大歳神社社殿 恵比寿神社本殿」 大歳神社は大冝(?) 
  八幡宮参道階段北側「平和記念碑」昭和二十年八月十五日の建立 太平洋戦争の終戦記念碑だが、有志は連名でかなりの数だ
  茂平会館前の自然石「友愛」の碑 おそらくはご本人の揮毫であろう by国務大臣加藤六月 センセイは茂平というより用之江のご出身だ。
  (加藤前大臣の御名が刻まれた石物はこの他に「岩下神社」(所在地:城見台団地北端の丘に立つ神社)の鳥居がある。そこに寄贈者として芳名が刻まれていた。)

 ☆2008/07/06 小田郡誌(大正13年)
大字茂平には更に無挌社四あり。(八幡神社以外に)
塩崎神社 字東吉原にあり。祭神は豊玉彦命豊玉姫命にして勧請は文化八年三月(1811)にして明治六年十二月属社に列せらる。
       境内は本殿一棟祭日は陰暦十月廿八日なり。
大年神社 字銅山にあり。祭神は大年神御年神相殿は若年神なり 勧請年月不詳
       文政三年(1820)四月再建し明治六年十二月属社に列せらる。  境内は本殿一棟祭日は陰暦十月二十八日なり。
戎神社   字銅山にあり。祭神は事代主命にして勧請年月不詳。
       明治十年十月の再建、明治六年十二月属社に列せらる。
稲荷神社 字尾越にあり。祭神は倉稲魂命にして勧請年月不詳、嘉永二年(1849)八月再建。
       明治六年十二月属社に列せらる。境内は本殿拝殿古びやかに神々し。祭日は八月十一日なり。(場所はその後、現在の場所へ移動)
宗教    天台宗1戸、真言宗401戸、真宗34戸、神道3戸、天理教1戸なり。

茂平新四国 明治11年頃本村大字茂平に新四国八十八ヶ所の霊場を安置し一時巡拝者多数ありしも今日においては漸次頽廃しつつあり。
堂宇     阿弥陀堂  茂平青木  阿弥陀如来、 釈迦堂  茂平小迫 重迦如来、観音堂  茂平銅山 千手観世音菩薩 文久元年七月再建(1861)
        観音堂   茂平蒼続    観世音菩薩、 観音堂   茂平琴之迫 十一面観世音菩薩 安政二年再建(1855)

No. 表題 Title   内容 Contents
資料図001 茂平地区の神社・路傍記念碑等一図(1)  画像みる    ↓
     
 資料図002  茂平地区の神社・路傍記念碑等一図(2)  画像みる    ↓


茂平の古墳2臺
(宮古山
古墳
&坂里古墳
図003 昭和34年当時の茂平の情景(資料出処:『定本 笠岡地方干拓史』H02/03月刊 by笠岡市企画部)
 茂平の干拓(笠岡市史より抜粋)

  茂平の干拓は3期に分かれて行われたというのが現在の定説となっている。
 第一期干拓は、現在東郷と呼ばれている新田で、「尾越田(おごしだ)」と呼ぶ区域がこの中に入るも。
 堤防は、通称川尻から銅山の南端に至る、俗に「とんまんどて」と呼んでいるものと、銅山の北端から青木部落の南端に達する「かまんど」と呼んでいるもの がソれにあたる。
 第二期干拓は、同じく銅山の西北端の砂川附近から、西の谷部落に至る堤防である。現在は開墾されて民家がならんでいるが、なお新提(しんどて)と呼ん でいる。この区域内を「大とう田」というが、大唐米の栽培地の意味と解される。
 以上の工事の施工記録は残存せず、よって完工の時期は不明。しかし、定説としては水野勝成が福山へ入部したとき、元和5年8月、幕府から
 受領した時の茂平村の石高は207石3斗4升であった(1602~1606年、小堀新助により実施。=慶長検地の石高)。
 この後、元和6年(1620)勝成自身が棹をとったといわれる検地の石高は、336石2斗6升となっている。
 つまりその差129石ばかりが慶長検地から勝成検地までの、およそ20年ばかりの間に新田造成があって、ふえたのではないかということになる。

 第三期の干拓は、銅山の南端から苫無(とまなし)に至る海岸堤防によって造成した地域で、吉原新田と呼ばれている。
 この造成については、吉浜志水家所蔵の古文書「志水関籐代々記」に記録がある。
 志水・関籐両家は、代々有田八幡様の神職を勤め、かたわら附近の神社の神官を兼務していた。
 この記録は、志水家四代前の先祖関籐藤好の日記であって、文中に小寺清先(1734~1813)死亡当時の葬儀の模様などが詳記してあったり
 して貴重な文献である。
 この文書に、文化8年(1811)に潮止めに着手して、閏3月4日に成就し、神官たちを呼んで神事を行ったことが書き残されている。
 また8月28日には,新田造成の落成式のようなこと行って、相撲などの祝賀行事もあり、おおぜいの見物人が出た模様が想像できる。」
 「吉原新田の造成面積は、検地帳が所在不明でよくわからないが、潮止めから12年後の文政6年の御免状に、見地高七町一反四畝歩とある
 のがそれにあたると考えられる。
 これは現在の面積に比較してすくなすぎるから、40年後の文久3年に見取場として検地をうけた六町六反十五歩がその残り分であろう。
 見取場というのは、毎年検地を行い,その年の出来高によって、貢租を決定する方法であるから、前後50年を経過して、なお収穫が一定しな
 かったことが知られる。これは、排水施設が不完全で、たびたび水害をうけたためであろう。」

なお、この茂平新田は、明治17年8月の大津波で、吉原新田の堤防が約30メートルにわたって決潰し、海水に浸ったことがある。当時沖に漁に出ていた村民が帰ってきて、八幡社のある「宮ノ崎」の奥まで船を乗りいれたということを、今も語り伝えている。

 小迫(こざこ)新開
 天保4年9月の検地で、面積一町四反七畝六歩である。
 小迫というのは、同村の松浦氏の屋号で、同家の個人干拓であったためにこう呼ばれたのであろう。場所は、字苫無に小迫(こざこ)新開と
 呼ばれる
004 茂平村小字略図 「笠岡市史資料 地名編より」
追記

☆2009/02/07 笠岡市城見公民館資料(安藤清孝氏編)
  茂平に残る戦国時代の古城跡
   1-前影山城(いわぐろやまじょう)影→山+影
      大見山の南の峰か? 標高142メートルの海に臨む丘陵に位置する。この山城は大冝の大橋山城の支城といわれているので、
      城主は高田氏か高田被官人ということになります。
   2-高丸城
      標高100メートル、広島県と県境の丘陵の上に位置、城主は渡辺木之丞正で築城は天文24年(1555)とされています。
      (国土地理院の2.5万分の一の地図でみると茂平の字阿濱に在り、現在は南より採石場で山が削り取られている。
       野々浜より一度登山を試みたが道が細く、途中で頓挫(w)。)

2009/05/04 藻苅事件の顛末「神島市誌」より引用 『茂平村水門前藻草一件日記』

  
「茂平村沖の藻刈り事件が起こったのは、嘉永七年(1854)七月十八日ごろのことである。茂平村の水門前で、見知らぬ船数艘が海底
に生えている藻草を次々と採取しているのを、西浜の漁師が見つけた。
 藻草の生えている場所は、幼稚魚の絶好のすみ家であり、また神島御崎鼻より備後鞆津泉水山を見透し北西地方は、運上の第一の稼ぎ
場をのに、他領の漁師がみだりに立ち入るのはけしからん - と、さっそく船を漕ぎ出し、船頭二人をつかまえて西浜村に連れ帰った。
 そして、問いただしたところ、船頭音松・万作は伊予生名島(因島の西どなり) の者で 「藻草を国元の田畑の肥やしにするため仕入れて
おり茂平村役人へ頼み、船一艘につき銭百五十文、あるいは二百文の運上銀を差し出している。それだから、このように差し留められては
困る」というのである。
 それなら、その由を書いた一札を入れよ、茂平村と談判するからと別紙の始末書を取り、共同の漁業権者である三ケ村(西浜村、横島村、
神島内浦)が集まって協議しているうちに、代官所から呼出し状が来た。
 それは何と、茂平村の方から逆に、村の水門前に藻草が繁茂して、悪水の吐き方に支障があるので、排水をよくするため、われわれが許可
して藻草を刈らせていた。それなのに、茂平村に対し、一言の連絡もなしに船や船頭を取り押えるとは何事か、と代官所へ訴え出ているので
ある。 これに驚いた三ケ村側は、恐れながら、と漁業権の侵犯を理由に、逆に提訴している。しかし同八月、内済証文を入れてケリになった。」

08/08/15
作成
11/02/23
更新