真鍋島(笠岡諸島) 訪問日:2011/05/25


別名「ゴリゴリ島」は讃岐と備中の海上五里沖に浮かぶ島名だった

地名考

真鍋島の歴史 by 『真鍋禮三氏の講演より』(Web掲載)よりの引用です
 約1万年昔の「サヌカイト」(讃岐石の別名。ドイツ人マイケルが香川県で発見した古代人の、細石、ナイフ
などの石器の総称。香川県国分台、白峰、坂山で産する)が発見されているので,讃岐地方から海を渡って
島へ来た人間がいた。
真鍋島で発見された土器は土師器(はじき)と須恵器である。
明治34年石工をしていた忠吉という人物が第一発見者とされる。発見場所は島の西北端の丘陵地帯で、隣
接地に平山と言う場所があり,中世の「平山船団」の比定地となっている。
須恵器は6世紀後半に大陸より伝来した新方法の「登り窯」で製作された土器である。応神陵,仁徳陵などの
ある大阪府南部で大規模に生産され始め,のち,岡山,島根,和歌山,愛知,福井地方へ波及し, 7~8世紀
後半には全国各地で生産されるようになった。
 魚の古語を「まな」と言うが真鍋はあて字,真那,真名,真奈なども全てあて字で,魚のよくとれる辺鄙な島,
と言う意味がまなべ島であろうと推察される。 奈良・平安時代(710~1190)は真那辺,真名辺,真奈辺と三
文字、享徳2年(1453)に記述の文献以降は真鍋と二文字表示に変わっている。
長寛元年(1163),西行法師(1118~1190)が来島し,山家集で「真那辺より塩飽へかようあき人はつべをかい
にて渡るなりける」と言う和歌一首を残している。 「つべ」とは「つみ」とも言い,「積み荷」とも言われ,商売を意
味する「罪悪」とも解される。又,貝類とも言われ女性を意味して「女郎買い」をしながらとも解され,又,ニツ以
上にかけて詠んだという説もある。
 嘉元3年(1305)の九條家旧藏にかかる「摂録渡荘目録」によると,備中の「真鍋荘」と記述され中御門家の
知行所,即ち,荘園であったことが判明している。又,先述の西行法師も「京よりあきない人あまた来たリ…」と,
詞書をのこしている。真鍋島方言に「京ことば」が残っているのもうべなるかなと思われる。 「湯もじ」, 「行かっ
しゃれい」などである。
 中世,真鍋水軍の魁将・真鍋右衛門大夫貞友公が享徳2年(1453)に記述されている真鍋家々系図(拙宅
にて保管)の冒頭「藤大納言信成と言う一行……」とある。公卿補任(注4)中には信成が 7名記述されている
が,大納言は一人もいなく,参議中将信成が最高位の人である。信成の一子,不節中太夫(注5)が真鍋島に
配流され,そのお墓も貞友公のものと並んで真鍋島に現存していることが,京都大学金石学研究教室(注6)
中西享教授の実地検分により明白である。真鍋水軍の魁将貞友公は笠岡諸島を領有し,中を瀬戸内海の興
亡常ならざる時代を生き抜いている。貞友公の娘は村上八郎左衛門景廣の後室となっている。


島内の地名 (『笠岡市史・地名編』より)真鍋本島の周りには六島、大島、茂床(もどこ)島、問島、土生(はぶ)島が含まれる。真鍋本島を基準に、
         島内地名には近い方には前(まえ)、遠い方を先(さき)がつく地名としているのが特徴。
 内の浦射場  中世城趾のある処に多く残る地名。正月二日、庄屋が射場で射御の儀式をしていた、との伝承が残る。宅地とせず草地のまま維
          持される。
 魚干山     魚観山の当て字と思われる。雑魚見(じゃこみ)とも言われる。魚群観測の見張り台の場所
 澤津       「そうず」と読む。湧き水の意で、惣津なるも同じ意味。真鍋島の澤津も清水の湧き出る土地(つまり井戸がある土地)、の意。
 平山      「兵庫北関入船納帳」(文安2年~3年1445-6)兵庫港入港船の船籍に「備中平山」19隻の記録が残る。真鍋島の澤津城を「平山砦」
          と呼ばれたことから、真鍋城、岩坪の城山城などを有する真鍋島に比定する説あり。平山船は百石積みで、兵庫の荷受け問丸は二
          郎三郎であった。なお小字「平山」は天神さんのある土地、天神鼻と地図にある。
 日方間     岩坪とは城山を隔てた反対の土地。岩坪の真鍋城の築城主は12世紀源平合戦の頃に日方間太夫馬資だという。「日本城郭全集10
          岡山県・兵庫県」の真鍋島城より。この城主の名前が字名として残る。
 雪の浜     地名説話。「島内二大集落、本浦と岩坪をつなぐ海岸沿いの道。昔は山越え道だったが、荒磯を通る下道に北国の雪を連想し命名。
          別説には、元和二年(1616)の古文書に妖怪の出没で「幽鬼の浜」と呼ばれていたが、慶長年間に「雪の浜」と改名したという。


☆サイト内リンク
 2008/05/04 「走り神輿」を見学 この日、はじめて真鍋島へ上陸。村の八幡神社祭礼と疾走する神輿を見た。 リンク ⇒ 動画1動画2
          ひきつづき六島に渡り、大鳥神社の祭礼の「廻し神輿」を見物。                       リンク ⇒  動画1動画2

景色考

位置:N34°21'14" E133°34'40" 笠岡港より南約20キロメートルの海上
大きさ: 面積1.49km2 周囲:7.6km  、最高点海抜127メートル

2010/03/31現在の人口:  合計298人


現地へのアクセス ⇒ おすすめリンク      真鍋島、元気PR発信源はここ ⇒ NPO法人 かさおか島づくり海社
 JR笠岡駅下車、徒歩5分で笠岡港より定期船便あり
 笠岡港から定期船が運行
 高速船 5便/日・約45分、普通船 3便/日・約70分   三洋汽船 TEL:0865-63-3131→時刻表・料金表  (笠岡市協働のまちづくり課ホームページ)
 普通船 2便/週・約40分、  六島航路 TEL:0865-68-4361→ 時刻表・料金表 (笠岡市協働のまちづくり課ホームページ)
 

No. 表題 Title   内容 Contents
   2011/05/19 真鍋訪島す
 08:45 笠岡伏越桟橋発航 ⇒  09:15 正頭寄航 ⇒  10:00 真鍋島本浦港着、上陸・散策  ⇒ 14:15 本浦港発航、帰港の途へ
   笠岡湊から真鍋島本浦港への道程は五里、船持ちメンバーの徳栄号に6人が便乗させていただいた。航海時間は約90分、時速約30Km/h、海上速度は15ノットでかなり速い。朝の十時に上陸し、二時間かけて島西部「丸胴さま」へ散策。午後からは真鍋城へと思ってはいたが、歩きの燃料切れにて断念案に皆さん合意、東半分は次回へ。昼食はゴリゴリShopでいただいた。
 
   真鍋島は笠岡諸島に在っても四国の文化圏だとよく聞く。新居浜や菊間など四国側の対岸へのつながりが歴史的に濃いようだ。真鍋禮三氏宅のホルトの樹も四国高松藩あるいは丸亀藩を経由して真鍋氏宅へ伝播したという伝承もその史実を裏付けている。本島などの塩飽諸島は今でも丸亀市に属しているが、舟が交通の手段であったゆえに現代人の土地勘とは異なっていた筈だ。
 真鍋城
 真鍋には中世城趾が三箇所に在るようだ。写真右の正面が城山城(じょうやまじょう)。 真鍋島城は岩坪の東の山だから写真の左側、尾根続きに当たる。「日本城郭全集」真鍋島城には築城時期は平安後期、築城主は日方間太夫馬資。新居浜にも真鍋城があり、近江(大海=真鍋か?)から真鍋氏が移住した伝承が残る。
   歴史民俗資料館
本浦の渡船場の傍にある。右の木札は明治新政府下、倉敷県からの太政官命に従うようにとの通告書だ。二百六十年の徳川幕府が斃れたといいながら、明治に改元はされたけど、世の中は江戸時代とさほど変わっていないということが判るよく判る。この木札は昔の高札場に揚げたれていたのだろう。 
 
  真鍋島の西海岸
 写真正面がマルドウさまが鎮座する澤津。本浦から西に向かって歩き、天神岬を越えて浜に下りるとこの美しい情景が広がっている。見た目には遠浅かどうかは判らない。北西に開けており、舟を停めるには適していないだろうし、遠浅の浜であれば大型船は近づけない。中世の兵庫船の船籍港「平山」に比定するには優雅すぎる砂浜である。 
  五角柱地神碑
 珍しい処で珍しい地神碑を発見。場所は真鍋中学校の東にある「荒神社」の境内にあった。正面には「天照大皇神宮」、その隣に「堅牢地神宮」、「天下泰平五穀豊穣」とも彫られており、他に例を見ないお姿である。ちゃんと五面はあるが五神は不参加。と云うより不招致か。創建は大正三年八月吉日とあった。 
001 岡山県指定「ふるさと村」 散策のコース取り  画像みる    ↓
    画像拡大
 
真鍋禮三氏宅のホルトの樹)


マルドウさまがあった天神鼻の天神社



マルドウさま
 真鍋禮三氏宅のホルトの樹の由緒(邸内案内書より)
  
 平賀源内の師、田村監水が伊豆半島で苗木を発見し、宝暦年間(1751-1763)全国物産展に出品後、源内は苗木をゆずり受け珍木
 として四国高松藩の領主松平公へ献上した。のち丸亀藩主京極家へ伝わり丸亀大庄屋原田家下附せられ、多度道隆寺との縁で姻戚
 関係の当真鍋家へ伝わった。
 当家は鉄屋本家の屋号で、宝暦二年(1752)庄屋総本家からしているところから、ホルトの樹が文化当時庭に自生していたとする説もある。
 
002 真鍋島の聖域へ  画像みる    ↓

この碑の下には青い海と白い砂浜が広がっている。
 澤津丸の「まなべ之碑」 真鍋島の石造宝塔(現地案内版)より

真鍋島は、その名は「真南辺」の島と言う意であるが、奈良朝の頃「真鍋」と文字を改めたものと考えられる。真鍋家の古文書によると、
大納言藤原信成の子がこの島に配流され、その末裔が真鍋島をはじめ北木島・飛島・六島などを領し、城砦を築いて真鍋氏を称し、
これらの島の領主となったという。
この擬灰岩製の宝塔(通称マルドウサマ)は源平合戦で戦死した真鍋氏一門の供養塔と言われているが、おそらく経塚であろう。もと
岬の頂上にあったものを開墾のため、現在地に移動したとのことである。九輪の一部が欠損しているほかは、大体において原型のまま
で銘文・仏像・その他の彫刻も施されていないので時代の判定がしにくいが、形状・構造から平安末期~鎌倉初期に造られたものと考
えられている。総高一、一七メートル。

                                               昭和五十一年三月三十一日指定  笠岡市教育委員会

島内の皆さん全員が真鍋姓でもないけれど、ここが全国まなべ会の発祥地のようだ。
インターネットで「まなべ会」を検索すると、
「本会は、まなべ(眞鍋・真鍋・真部・真辺・真邊・間 鍋・間部・間辺・曲直部・・・などなど)の姓を持つ人々の氏族会です。まなべ氏由来の史跡を 訪ねたり、懇親会を開いて親睦を図っています。全国のまなべさん、入会してみませんか。 」というページにヒットする。
その会に入会されたみなさんが、マルドウさまの護るかのようにこの地に碑を建てておられる。
まさに、真鍋島は真鍋氏の島だと実感させられた。

                    

003
真鍋中学校(荒神社はこの校舎の右側、柵もなく校内かもね) 画像みる    ↓

五角型地神碑のある荒神社
 二宮金次郎のある風景 (真鍋中・小学校) 写真に書き込みの訪問日は2011/05/19の間違いでした。

 1947年(昭和22年) - 小田郡真鍋島村立真鍋中学校として開校。
1955年(昭和30年) - 笠岡市立真鍋中学校と改称。
この校舎は映画のロケ地として、県下では古い木造建築として有名ですが、現役のようです。
中学校の校舎の横に小学校の校舎があります。
校門脇の掲示板に、左の写真が貼ってありました。現在の在籍の皆さんなのでしょうか。
 
0000/00/00更新 2011/06/01