| 2011/11/17 玉島市街地中世の4古城趾を巡る NPO玉島観光協会N氏の案内による総勢15名 |
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| ☆2011/11/17 源平合戦水嶋古戦場の後は南北朝から室町~戦国にかけて覇を競った兵たちの居城を巡った。 一行を引率くださったのは引き続き玉島観光協会Nさん、朴訥な話振りは冗長すぎる通例の観光ガイドの説明よりは好評だった。 源平の末裔たちがこの備中でも生き残りを賭けて攻防戰を展開したことは築城の数を数えただけでも容易に想像がつくだろう。 |
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| 畑山城趾(はたやまじょうし) |
森本松山城趾(もりもとまつやまじょうし) |
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| 元亨元年(1321)藤井呂枝が在城 藤井は藤原家の一門で本貫地は大和国藤井庄の地頭職。鎌 足より十九代目の安基のとき藤井姓を名乗った。呂枝は藤井廿 二代目でその子六郎忠弘と共に柏島・乙島を領有した。 元弘元年(1331)後醍醐天皇蜂起未遂より忠弘は朝廷に組みし、 延元元年(1336)備前福山城合戦では新田義貞側で城の防備に 就いたが足利直義に城を明けた。藤井忠弘はこの時討死、四代 下った藤井光景は備後探題の部下となり畑山城より井原高屋城 へ移った。その後天正年間(1573-92)赤澤兵庫頭政定が入城。 応永14年(1407)細川満国の備中守護に伴い満国は鴨山城に居 城し浅口・矢田郡を治めた。畑山城もその傘下となったもの。 永禄元年(1558)細川通董が毛利幕下となり、赤澤家もこれに従 った。政定より三代目城主の赤澤久助は元通に仕え朝鮮征伐に 従軍し軍功をたてた。その後、関ヶ原合戦で歿後城も廃城となる ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 源平水島合戦古戦場 ⇒ ClickHere |
建武年間(1334-8)藤田小次郎が在城 城主藤田小次郎は新田義貞(河内源氏義国流新田氏本宗家 の8代目棟梁)十六騎の一人と知られる藤田三郎左衛門の弟に あたる。その後、細川家の臣赤澤修理亮が居城した。 赤澤氏は応永年間(1407-)細川満国の備中守護で鴨山城に入 城した時、信州より随行した家臣団の一人。当初は柏島の畑山 城に居城し島内を領有し赤澤左馬祐宗春のときに松山城へ移 城して、宗春~五郎四郎宗照~兵庫祐宗榮の三代に亘りここに 居城した。 赤澤兵庫祐宗榮は再び畑山城へ居城、その子の五郎宗春の頃、 永禄元年(1558)宇喜多直家が鴨方へ攻め入った。(この機に通 董は毛利幕下となった)畑山城では赤澤父子は応戦するも細川 方鴨山城第六代城主細川輝政は戦死、細川軍は敗退した。 その後に細川氏は毛利に組し第七代通董が再興するも関ヶ原で 城主赤澤久助(宗榮の弟)は討死し廃城となった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 源氏川が流れる甕ノ泊 ⇒ ClickHere |
| 附近略図:倉敷市玉島柏島畑ノ辻 |
附近略図:倉敷市玉島柏島福井 |
| 「亀崎城趾」△56m(かめざきじょうし) |
「要害山城址」(ようがいやまじょうし) |
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| 建武年間(1334-8)猪俣左衛門義治が在城 猪俣左衛門義治は足利尊氏に組し直義軍とは反目した武将。 応永年間(1407-)細川満国の備中守護統治下では赤澤氏が亀 崎城に入城、その後に毛利支配の時代になって毛利家臣である 吉田弾正が城主となって入城した。吉田弾正は秀吉の九州征伐 や朝鮮遠征に参戦し武勳を挙げたが関ヶ原合戦で敗退し帰農し た。明神山の西側には吉田家の館趾が残っている。 また山頂には亀崎大明神が祭られている。その由緒書きは、 以下は神社(寺?)境内の縁起案内版の要約 「この地は昔は海に浮かぶ小島で亀島と呼ばれていた。亀の姿 の背に当たる処には亀崎大明神が祭られていた頃から山を明神 山と呼んだ。その場所には美しい城が聳えており、亀崎城第三代 目城主の名前を吉田盛清と云った。吉田家は代々この地に住ん でおられた。江戸時代に松山藩水谷家がこのあたり一帯を干拓し 田畑となった。元禄元年(1688)六月、地主吉田伝蔵がここに亀 崎大明神を創建した。現在本殿は平成6年11月の再興。本尊 十一面観音菩薩(ママ)」写真左の鎧を着た武者浮彫の石仏は 明神山北麓の吉田家墓所に祀られている。傍には矢竹あり。 |
天正年間(1573-)細川通董が築城、後に元通も居城す この地は本土から張り出した半島の先端部に当たり、古くは 甕海山と呼ばれていた。丘陵の頂きは天主の段と呼ばれる平 坦な場所があって、これを中心に一段低くなった東西と北東方 向に一の丸、二の丸、三の丸があったと見られている。 天主の段には五輪塔があった。現在は陽海山という団地に造 成され、五輪塔も移設保存されている。(写真上) 山上には甕海山石鎚神社がありここに砦ができてから要害山と 呼ばれるようになった。 この山の立地は内航航路を見下ろす場所に当たり見張り場所 として重要視されであろう。最初にここに砦を築いたのは細川 通董で永禄二年に鴨方に入って以降の天正年間とされる。 細川通董は秀吉の九州遠征に毛利幕下の将として従軍、天正 十五年(1587)に赤間ケ関で病没、その頃に淡路島より三好実 休が備中に攻め込み、この道越の沖に船を泊めて要害山に楯 籠もった。通董の子元通はこれを防戦し退去せしめたという。 関ヶ原合戦後に砦は廃棄となり、江戸時代の池田光政治世と なった寛文9年(1669)この地は道越新田となり海が消えた。 |
| 附近略図:倉敷市玉島亀崎 |
附近略図:倉敷市玉島陽海山 |