備中国「水嶋合戦」で平氏船団源氏を下す


平家兵船三百、源氏千餘艘の兵船、水嶋が途に陣を取る

平家物語と源平盛衰記

 軍記二書あり: 『平家物語』は鎌倉時代に成立した平家の栄華と没落を描いた軍記物語である。
          保元の乱・平治の乱勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を平易で流麗な和漢混淆文で書かれた名文で知られる。作者については諸説あり、最古のものは吉田兼好の『徒然草』に信濃前司行長(しなののぜんじ ゆきなが)なる人物があげられている。

 『源平盛衰記』は、軍記物語の平家物語の異本のひとつ。平家物語を元に増補改修されており、源氏側の加筆、本筋から外れた挿話が多いと云われる。二条院の応保年間(1161年-1162年)から、安徳天皇の寿永年間(1182年-1183年)までの20年余りの源氏、平家の盛衰興亡を百数十項目にわたって詳しく叙述する。
 
  写真は水玉ブルーラインが柏島(右手)より乙島(手前・左手)に玉島大橋を架けている景色。ここはかつて水嶋の途と呼ばれた両島の間の瀬戸であった。水嶋という呼称は柏島も乙島も湧き水が豊富にあり井戸を掘り、ここで水源を確保したことから水嶋という地名になった。伊勢平氏とは伊勢国阿濃津を本拠とする伊勢平氏一族で、平忠盛(長承元年[1132]が鳥羽上皇により内の昇殿を許された。一方の源氏は河内国壺井を本拠とする河内源氏、源義家(承徳二年[1097]白河上皇より昇殿を許された武士軍団の魁である。この両軍団によって天皇中心の律令国家から公家中心の藤原家中心の貴族社会にあった時代を、さらに武家社会へと大きく舞台を廻した源平合戦の一場面、水嶋の途に残る源平両軍の布陣趾を訪ねた。

☆2011/11/17 玉島史蹟探訪歩き

 源平合戦水嶋古戦場近隣の後世古城趾遺跡:⇒⇒⇒ ClickHere    甕の泊まりと亀山焼き:⇒⇒⇒ ClickHere
 (下記引用文献は岡山文庫「玉島風土記」h6.5.10刊by森脇正之著)

 Paticulars Information View


柏島



布陣

玉島大橋西端への階段を徒歩でのぼると道路の標識が目に入る。
『源平水島合戦古戦場趾 ←』この下に小径があって高台に続いている。
この高台に立つと南方開け四国からの海上往来の様子がよく見える眺望である。

 壽永二年(1183)閏十月朔日、源氏は柏島の対岸である乙島に布陣し、平氏は諜使の小舟をで源氏側を誘い出しに成功、南北からの挟撃と自船団を舫いで繋ぎ舟板を渡して源氏船団を蹴散らせた。
オマケにこの日は有名な皆既日蝕が起きた。鴨方天文台の本田實さんの「源平合戦の日蝕について」の論文によると、食の始まりが午前十時八分。金環食の食基時刻が十一時二十九分、食の終わりが十三時二十九分だという。
『源平盛衰記』の記述では次ぎのとおり。
「・・天俄に曇りて日の光も見えず。闇の夜の如くになりたれば、源氏の軍兵共日蝕とは知らず、いとど東西を失って舟を退きて、いづらともなく風に随って遁れゆく。平氏の兵どもは兼ねて知りにければいよいよ時を造り重ねて攻め戦う。」かくして平氏は会稽の恥を雪(すす)ぐと平家物語は書いている。この合戦で数千人が戦死、水嶋灘には船幽霊の数千の手が海面に水乞いに現れ出ると云う 

位置図:倉敷市玉島柏島




源氏
布陣地

天台宗瑠璃山常照院と『源平水島合戦城趾碑』
 上の写真で手前側、乙島(おとしま、古くは戸島)の源氏方陣地を訪ねた。

常照院は現在無住だとのこと、手入れの行届いた立派なお寺である。
源氏軍が布陣したのはこの山の頂き辺りだったそうだ。地名に城(じょう)という名が残っているからには中世以降も城郭名が残っていそうだが、その遺構はなし。源平水島合戦城の趾という碑文が建っているのは常照院の境内というよりもお隣に鎮座する「八幡大権現」宮の境内かも知れない。(碑の写真は右の右下)
この碑の脇には乙島文化財保存会が昭和58年に水島合戦の経過を石文に刻んだ記念碑が建っている。第二百五十三世天台座主探題大僧正恵諦書と書かれている。
『今を去る八百年の昔,寿永二年(1183)閏十月一日,木曽義仲の客将矢田判官代義清,信濃国住人海野弥平四郎行廣率いる源氏軍と,新中納言知盛,能登守教経率いる平家軍が(中略)、、、星移り時流れ誰か覚ゆ海風吠々たるを.ここに古戦場を俯瞰す城址に懐古の一碑を献じ,つわもの共の霊を弔うものである。』
そばには五輪塔ならぬ二輪塔が一基だけ、無造作に置かれていた。
 

位置図:倉敷市玉島乙島城

城のか


古井戸


「城のかくし古井戸」
  乙島は比高二十メートルくらいだろうか、頂上の常照院への小径の脇に地元の方が木札墨書の案内版が立っていた(写真右側)。

 以下は宗澤節雄氏著「源平水島合戦八百年祭を迎えて」という論文より引用。
『・・柏島には天真井という遺跡も伝承もありません。そこで乙島を調べてみました処、城(じょう)という所から一町ほど東に泉谷(いずみや)という昔噴水の池だったという遺跡があります。今は灌漑用の貯水地があって池の東堤道路に沿うて噴井があり、その水面は池水面より常に高くなっています。又島内には水溜という所もあって、其の丘に旭井、夕日井という二個の井戸がありまして如何なる旱天にも水が涸渇しないということです。若し果たして水島という名が噴井より起こったとするならば、柏島より乙島のほうが有力なものでなりません。そして水島城趾と認べきものは、乙島と常照院のある城と柏島の森本とに存して、両々相対して居りますが乙島のほうが規模も大きく、従って平氏の拠った水島は、今日の乙島の他に想像がつきません。』
常照院境内の一郭を水島城と呼ぶのであろうか?

位置図:倉敷市玉島乙島城

八幡





先祖



「八幡大菩薩」宮と「赤澤兵庫祐源宗榮牌」
 瑠璃山常照院の境内を西に向かって進むと右の写真の如き鳥居がある。扁額には八幡大菩薩と陰刻されていた。常照院境内から八幡宮の辺り一帯はかなり広い平地に削平された城郭跡のようである。その一隅に赤澤家牌石が立っていた。

 玉島ガイドブックによると赤澤兵庫頭政定が天正年間(1573-92)に入城したのは対岸の柏島にある畑山城である。赤澤一門は細川家の幕下にあって文禄元年(1592)には政定から三代目の赤澤久助は主君細川元通と共に毛利輝元に従って朝鮮征伐に従軍、蔚山での奮闘した記録が残っている。また赤澤久助は柏島宮地の海徳寺が慶長元年の大雨で崩壊した時は寺を再興し寺領田畑2町と山林5町を寄進、海徳を赤澤家の菩提寺と定めたという。久助は関ヶ原合戦時、真田幸村に投じ近江国膳所赤沢谷で討死、歿年は慶長五年十二月十五日。久助の死後は畑山城は廃城となった。一方、この場所に建つ赤沢兵庫祐の碑文には『人皇五十九代宇多天皇第九皇子 一品式部卿敷實親王後胤八十三代孫 赤澤兵庫祐源宗榮牌 慶長元乙申年正月廿五日逝去 行年七十八歳』と刻まれている。畑山城赤沢久助の死よりこちらの兵庫祐が四年ほど先に没していることになる。その関係は?
 
  

位置図:倉敷市玉島乙島城



沢家の五輪塔

玉島水道に面した斜面にある「赤沢家墓所」の五輪塔。
 前項の赤澤家先祖牌は台石の高さを入れて4mほどか。正面は「赤澤家先祖 常光院殿盛岩宗榮大居士」裏面の建立者は「昭和拾貳年百十三代孫 赤澤久次郎建之」と刻んでいる。

 昭和12年の建立者は赤澤家113代目当主のようだ。今上天皇が代125でその御父上である昭和天皇裕仁殿下が第124代である。天皇家とわずか11代しか違わぬ赤澤家の郭式は名門中の名門なのであろう。写真右の墓所は頂上の平坦地から下りてくる坂の斜面にあって実に眺めがいい。このページの水島の戸のヘッダー部の風景はこの場所からの撮影である。墓所は狭く大樹の根元にひっそりと五輪塔二基とクド墓三基と新墓など、新旧が点在しているが集合墓地ではなく個別に祀られてきたようだ。被祭祀された人々の名前は文字データなきために不明である。写真の五輪塔は大理石製で風雪をくぐり抜けてきた風格がある。江戸よりは古いものであろう。他の家型クド墓は風化が激しく江戸期になってのモノか。いずれのタイプもこの近隣でよく見かけるが大理石の材質は珍しい。


No. 表題 源平合戦水嶋古戦場と亀山薬師如来坐像(檜材寄木造漆箔像、像高1.8m)   内容 Contents
001 2011/11/17(Thurssay) 玉島近隣探訪ウォーク  画像みる    ↓
    
 
 この日の探訪ツアーの同行は14名。県西部の里庄図書館から車に分乗して玉島の福壽院まで走行、福壽院駐車場から畑山城趾を見ながら水玉ハイウェイを東行して「源平合戦水島古戦場」碑までを歩いた。
壽永二年(1183)閏十月朔日に源平両軍が激突し、午前十時過ぎから皆既日食が始まったという。当時の太陽・月・地球軌道からの計算でもこの地域ではき95%の金環蝕が見られたという。その太陽が真っ黒くなった絵姿がシンボルマークとして碑石の正面に埋め込まれている。

この平家が布陣したと云われている場所から南方方向の瀬戸内海を眺望して、対岸の乙島の源氏布陣地を見た。
平家側の空間より乙島側のほうが遙かに整備された趾が残っているようだが、水玉ハイウェイ道路工事で消滅した森本松山城趾の景観や周辺環境が破壊されている当時から800年を経過した現在、どちらの布陣地がどうだと、いう論じ方は不可能であろう。
乙島側が平家布陣地だったという説もあるようだ。

上の写真の仏像は亀山薬師如来坐像。
亀山の薬師庵に鎮座する県重文指定の仏像である。胎内墨書には「應和三丁巳(963)二月廿日沙彌法阿弥陀佛」の年号があるが、年号「應和」はのちに「長和」(1014)あるいは「養和」(1183)の書換えられたものだという説もある。
いずれにせよ平安末期の源平合戦と同時代の仏像とおもわれる。この仏像が安置されている薬師庵のすぐ傍には源氏川が流れる。
附近の池には水島の途の源平合戦の前哨戦が行われたという伝承もあるようだ。

この附近と云った場所は古くは甕ノ泊(もたいのとまり)と呼ばれた亀山から道口~要害山にかけて海が湾入した場所である。
この辺りが陸地となるのは江戸時代になった寛永年間(1624)から寛文10年(1670)頃にかけ松山藩水谷家と岡山藩池田家による干拓工事によるものである。従って源平合戦の時代には右の絵の如く附近は海面が広がっていたはずだ。

亀山という土地は「神崎神社の第一鳥居の西側に、亀山焼き窯跡、倉敷市史蹟指定と銘記した標柱があり、本殿東側には説明版がある。この付近が亀山焼といわれる陶器を産出したところであって、おびただしき焼けたかめの破片がちらばっている。
神崎神社を中心として東亀山一体に窯跡があり、桃畑にも黒い灰土が一面にひろがって いて当時の盛況をしのばせている。備中名勝考に、甕泊、浅口郡亀山村にあり、ここにてむかし甕をつくりしゆえに、甕山といえるなり。亀をかけるは、借字にて、甕の泊というものそのよしなり。今は田畠となれり。
 
玉島歴史館より借用画像http://sky.geocities.jp/
sk291006/rekisi/rsanpo2/index.htm


亀山焼と甕ノ泊⇒サイト内リンク
 大嘗会和歌集にいう。後冷泉院永承元年(1048)十一月十五日主基方備中国と前書して木工頭兼文章博士讃岐権介藤原朝臣家経の歌はこびつむもたひのとまり船出してこげども尽きぬみつぎ物かなと書いてある。これは亀山の前面が海であったときのことでこの港からは甕が盛んに積み出されていたのである。すなわち、平安時代、貴族文化はなやかだったころ甕の泊が栄えていたことがわかる。この亀山焼も室町時代になって、支那から渡来したうわぐすりを使用する焼物の普及とともに衰えた。陶村で製造された須恵器も、この亀山の地から積み出されたので、甕の泊と名づけられたのであろう。【玉島の景観と文化】玉島文化協会昭和五十二年発行
  2010/01/06更新 08/09/24



 
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