備中国倉敷ゾーン(倉敷・玉島・児島・水島・真備)


江戸時代、高梁川の河口島を干拓で繋ぎ、土地を生みだした町村の歴史

地名考

 倉敷市沿革: 昭和3年(1928年)に市制を施行、その後周辺の市町村と合併を繰り返して、現在人口47万人。
倉敷市HPに掲載された市の歴史は次ぎのとおり。
『古事記に「吉備の児島を生み給う」とある。
 高梁川は沖積作用で広大なデルタ地帯を形成し,この地方が新田開発される要因となった。戦国時代のて天正12年(1584)から翌年にかけて宇喜多秀家が早島から高梁川河口に至る汐止め堤防を築いた。これにより倉敷の母体となる新しい田地が開かれ児島湾にいどむ新田開発が始まり,関ヶ原合戦の後の元和(1616)から寛永(1643)にかけて倉敷・玉島周辺の島々は陸続きになり,漁村から農村に変わっていった。倉敷は寛永19年(1642)代官所が置かれ天領となった。池田藩・松山藩も内治に力を入れ耕地を拡大したため,米の積出港となったと同時に,新田には,綿,菜種の商品作物がふえた。一方文化10年(1813)ごろから野崎武左衛門が広大な塩田を開き「塩田王国」を築いた。』
 昭和3年4月1日 市制施行 倉敷市(30,481人)  昭和23年4月1日   市制施行 児島市(32,873人)  昭和27年1月1日  市制施行 玉島市(30,777人)
 昭和42年2月1日 倉敷市 倉敷市(169,969人) 児島市( 80,513人) 玉島市( 57,121人) 昭和46年3月8日 庄村編入(7,107人)
 昭和47年5月1日 茶屋町編入(8,172人)     平成17年8月1日 船穂町・真備町編入

景色考

当面の訪ねてみたい倉敷近隣の史蹟・観光スポット:(予定)

 1-旧倉敷市街地    通称「倉敷美観地区コース」 国の重文である江戸時代の町方豪商屋敷、大橋家と大原家、倉敷川畔の白いなまこ壁
                の倉庫群と美術館・考古資料館・民芸館など。
                天領倉敷代官所趾、船倉町の曹洞宗長連寺、鶴形山の阿智神社、JR倉敷駅起点にぐる~っと廻っても700m。

2-浅原から清音     JR倉敷駅より北に向かってJR清音駅までに点在する史蹟群。
                市内浅原に在る安養寺には平安末期の仏像を四十数体有している。なかでも毘沙門天立像、吉祥天立像は秀逸。
                なお裏山には同時代の経塚がある。古墳公園は後期の小型古墳を公園に整備したもの。あと大覚寺題目塔、藤原
                為貞寶篋院塔などがある。
            
3-天城から藤戸     真言宗古刹藤戸寺の県指定五重塔を見る。高さ3.55m花崗岩製で寛元元年(1243)の造立。境内には沙羅の樹、
                盛綱橋を渡って浦の男を祀る経が島。天城には陣屋を置いた池田藩家老池田家の墓所、天城キリスト教会(岡山、
                高梁につぎ県下三番目に古い)など、先陣庵(西明院)や浮州岩など盛綱関連の史蹟も点在している。
            
4-熊野と五流尊瀧院  JR瀬戸大橋線木見駅近隣、児島半島の修験道が色濃く残る地域の探索。
                冷泉宮頼仁親王墓所、五流尊瀧院、五流尊瀧院宝塔・梵鐘・三重塔、熊野神社など、国および県指定の重文が並ぶ。

 このお奨めコースのオリジナル版はこちら ⇒ 社団法人 岡山県社会福祉協議会長寿社会推進センター    おかやまメロウねっとHP
ふるさと歴史ウォークガイド に掲載されています。よく利用させていただいてます。この場を借りて、御礼を。感謝です!


☆玉島湊『西爽亭』(せいそうてい)、備中松山藩士熊田恰(くまたあたか)、割腹の間

藩主板倉公の玉島巡視のとき宿泊所として使用された。柚木家の所有・天明年間(1781-1789)の築造、玉島の大庄屋だった。
 写真左は御成門から
式台玄関~庭を見た処
写真右は上の間(主客
間)。数寄屋風書院、
広さは10畳。庭園には
茶室があった。
熊田恰の割腹の間は
写真左、庭の手前の
次ぎの間と呼ばれる
処。玉島ガイドの方の
説明では血糊が天井に
飛散しその血痕だと、
教えられた。慶応4年
大阪詰めから帰藩の
途、この地で果てた。


  板倉 勝静(かつきよ)文政6年(1823)~明治22年(1889)は松平定永(白河藩第3代藩主、吉宗の孫)の八男として生まれる。備中松山藩の第6代藩主・板倉勝職の婿養子となり、第7代松山藩主。寺社奉行・老中首座(筆頭)となり、幕末は15代将軍・徳川慶喜を助け、大政奉還の実現にも尽力した。その後、戊辰戦争が起きると同じく老中であった小笠原長行と共に奥羽越列藩同盟の参謀となって新政府軍と五稜郭まで戦った。加賀守正四位、山田方谷を抜擢したことで有名。晩年には第86国立銀行(中国銀行)の設立に尽力した。

 
☆倉敷屏風祭:(江戸時代、『阿智神社』の秋の祭礼にあわせて町内各家が自慢の屏風を一般公開する習慣を2002年に復活させた。)

 真言宗大覚寺派、本尊は阿弥陀如来。もとは神宮寺と呼ばれ甲弩神社の別棟寺として創建された。
開基は行基と伝えられるが年代は明らかでない。古くは大坊、中坊、般若坊、正円坊、長福坊、上学坊の六坊を有する大寺であった。
このうち長福坊は山口に移り、現在の長福寺となり大坊がが現在の神護寺となった。現存する本堂は市内最古の木造建築、県指定重要文化財。

 室町時代にはこの地方の領主小田氏の帰依を得て栄える。本堂の天井棟木には永禄11年(1568)十月六日に6代目小田高清が大壇那として建立した事を証する墨書(大工藤原乗久)が鮮明に残っていおり、市内最古の建造物として昭和35年に市の文化財に指定された。寺内には天正15年の瓦葺きのとき用いたと思える古瓦四枚が残されており、いずれも天正十四年二月に宮内(吉備津神社門前町)の瓦大工五郎左衛門が焼いたと思える銘がある。また、天正3年(1575)8月18日死去した小田高清の位牌が祀られている。戒名は孚臺院殿良玄秀郭居士。
 この墨書棟木に附された棟札(木札)が2枚あり、一枚目は天正15年(1587)10月15日再建のとき小田高生清の子元家らが甲弩村の村中を施主として屋根替えを行ったことを記録している。この時期に瓦葺きに改めたと考えられている。二枚目の棟札は文化3年(1806)4月の屋根葺き替えの記録で本殿向拝は江戸後期の様式であるため、この時期につくられたのかもしれない。

彫刻「不動明王坐像」:像高84.4cm 室町時代の作
 不動明王は大日如来の使者として、如来の教えに背く衆生の悪をくじき教化し、同時に密教の修行者を守るために現れる憤怒の形相の仏。
彫刻「神像 2体」: 一体は檜材の一本造りの僧形、あとの一体は檜材寄せ木造り、ともに鎌倉時代の作。



☆倉敷地区サイト内リンク  
 訪問毎にサイトを更新、最終更新日:2011/02/13

No 訪問日付 Title 説   明 詳   細 場所
01 2010/01/02 楯築古墳と神社 標高46mの丘陵に10箇の巨石が環状に並ぶ。3世紀の成立 足守川沿い、行政区は倉敷市矢部 吉備
02 2011/01/23 高瀬閘通し閘門 高梁と玉島湊を結ぶ水路の閘門式運河の遺構、江戸中期 船穂から市域を巡る水路も現存 船穂
03 2011/05/03 真備まきび公園 古刹吉備寺境内に整備された唐風庭園、牡丹と茶会の名所 真備の町中、ちょっと判りづらい場所かも 真備

 


No. 表題 Title   内容 Contents
001 倉敷美観地区  画像みる    ↓
    
 
 倉敷美観地区(くらしきびかんちく、Kurashiki Bikan historical quarter)は、岡山県倉敷市にある伝統的建造物群保存地区。
国選定の重要伝統的建造物群保存地区としての名称は倉敷川畔伝統的建造物群保存地区。ご当地は倉敷川の畔から鶴形山南側の
街道一帯に白壁なまこ壁の屋敷や蔵が並び、天領時代の町並みをよく残しており、1979年(昭和54年)に県内では吹屋に続いて2件目と
なる重要伝統的建造物保存地区に選定された。

上の写真で柳越しに見える建物は倉敷館 - 登録有形文化財、旧倉敷町役場。現在は無料休憩所・案内所として利用されている。
002  玉島地区  画像みる    ↓
 
 ☆2011/01/23(日) NPO観光ボランティアガイドの方にお世話になった

  玉島とは島々を干拓によって結びつけて中国山地から流れ出す高梁川を灌漑用水に転用したクニである。
 古代に玉を産したから玉島と呼ばれたという地名説話よりも、点在する島々をつないで四宝(仏教では金・銀・瑠璃・水晶)に勝る
 大地を手にいれた、つまり宝島のクニなのだ、という印象。(乙島には玉島山の山号寺院あり。貞観4年[795]慈覚大師円仁開基
 の天台宗安福寺円乗院という。この寺の古文書に弘安十年[1287]に玉島浦の地名が墨書され残っている。)
 写真は公立の構築物。玉島湊に立ち並んでいた蔵屋敷をデザインしたれっきとした水門だそうだ。
 玉島の町並観光には土日をねらってガイドをお願いすればいい。短時間に手際よく見所ポイントへの誘導と史蹟講座が受けられます。
 備中玉島観光ガイド協会 ⇒ http://npogide1195.tonosama.jp/index-2.html

 

☆玉島地区サイト内リンク  
                                                      訪問毎にサイトを更新、最終更新日:2011/11/17

No

訪問日付

Title

説   明

詳   細

場所

 01  2011/11/17 源平水嶋合戦古戦場跡   壽永二年(1182)水嶋合戦で平家は源氏を破る  両軍の布陣地には記念碑が建つ  柏島・乙島
 02  2011/11/17 畑山・松山・亀崎・要害   源平合戦以降の近隣中世4古城趾を訪ねた  南北朝以降の築城と城主の変遷  柏島近隣
 03  2011/11/17 亀山焼と甕ノ泊(とまり)  神前神社境内より鎌倉期の陶器と窯跡が出土  裏に源氏川あり附近源平合戦趾  玉島亀山
 04  2011/11/17  鴨方往来谷野家本陣  江戸時代様式をとどめる和風屋敷の庭園Good  谷野家の家紋は佐々木源氏流  玉島亀山
 05  2011/01/23 水谷家と羽黒神社   備中松山藩を領有の水谷家が羽黒山より勧請 万治元年(1658)水谷隆の創設   市内羽黒山
 06  2011/01/23 町並保存の市街地探訪   玉島市街地は景観保存対象文化財が多い ここと船穂一ノ口水門と9Km運河   市内各所

 


003
 酒津の灌漑用水路 画像みる    ↓

☆ 酒津公園

 倉敷市のHPによると、昭和26年に高梁川改修事業により生じた土地を利用し、「水と桜」をテーマに整備されてきた総合公園。
 現地案内板の説明は次ぎのとおり。

高梁川東西用水組合沿革
 わたしたちの住む倉敷の町は、江戸時代から明治時代の終わりまで約300年間にわたって干拓され、その土地を守るための築堤により川ができ、高梁川が運ぶ多量の土砂により広大な土地が形成されていった。しかしながら、川の堤防は簡単なものだったので洪水のたびに大きな被害を受けていた。
そこで明治44年(1911)に高梁川改修工事が国の事業として行われることになり、それに伴い大正5年(1916)に高梁川東西用水組合が19町村で設立され、14年の歳月を経て大正14年(1925)に完成した。当時干拓地の用水は高梁川の両岸にあった11箇所の樋門から取水していたが、取水は思うように任せず干ばつ時には水争いが絶えず、これを解消するため、河川改修を機にこれらの樋門を統合し、農業用水を経済的、公平に配分することを目的として、酒津地点に取水樋門と配水池をつくることになった。
 この大事業の完成によって洪水被害や水争いもなくなり、倉敷市発展の基礎が完成し、現在でも1市2町に安定した農業用水を供給しているものである。
酒津配水池面積 3.1ha 受益面積 3,300ha      高梁川東西用水組合管理者


2011/12/01更新 11/05/10