AncientKorea三韓時代の遺跡を巡る


韓国三大王朝の遺構周遊4日間

旅 程

2009/03/01~04:阪急交通社

 初 日   岡山空港~仁川空港へ by KE748 Left Okayama 09:50 hrs. arrived Incheon at 11:35hrs. Attendance Chess Tours Korea 李貞淑さん
        空港より水源へ移動。 水源華城 → 扶余へ移動 → 扶蘇山城 → 温泉の町儒城にて泊 (移動距離300Km)
 2日目   儒城より慶州へ移動。 海印寺   → 石窟院    → 仏国寺   → 古墳公園・天馬塚   慶州のHotelにて泊 (移動距離350Km)
 3日目   慶州よりソウルへ移動。市内観光 → 李王朝の宮殿昌徳宮 → このあとソウルタワーに登楼しソウル泊 (移動距離400Km)
 4日目   ソウル市内観光 → 李王朝の宗廟 → 南大門広場 → 北村韓屋村 → 免税店外民芸品店経由で空港へ (移動距離90Km)
         ソウルから仁川空港へ移動し岡山へ by KE747 arrived Okayama at 19:55hrs.

   韓国への旅行が昨年より人気上昇。 その理由としてアメリカ発のリーマン・ブラザース破綻による世界金融不安の激震で韓国通貨のヲォンも
 下落、そのため¥との交換レートが¥高に振れて、それまでよりはおよそ1.5倍に跳ね上がった。
 今年になってより、ニッポンから多くの若いギャルたちが買い物ツアーに押しかけるのだという。つい数年前には韓流ドラマのヒットにより、中年女性
 たちのロケ地巡りツアーが盛況だった。ロシアについでニッポンの近くにある外国である韓国は遠く飛鳥の昔より対馬海峡を隔てて交流が盛んだった。
 1910年(明治43年)の日韓併合の過去によって両国はそれぞれの歴史観に袂を分かち、古墳~飛鳥以前の人々が交流しあった時代の歴史も
 それぞれの解釈となっている。
 とはいっても、古代ニッポンといちばん近い交友関係にあった海の向こうの国は百済であり、極東に位置する島国ニッポンが新羅や李氏朝鮮との
 使節団の交歓をつうじて文化の交わりと技術の伝承という恩恵を享受してきたのは事実である。
 今回、初めて三韓国の古都を巡り、じぶんの脚で歩いてみて、遙か1,500年前のニッポンのルーツに出会ったようなときめきと高揚感を覚えた。

Unesco世界遺産

韓国の世界遺産は8カ所:登録基準
 

(i) 人類の創造的才能を表す傑作である。

(ii) ある期間、あるいは世界のある文化圏において、建築物、技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展における人類の価値の重要な交流
を示していること。

(iii) 現存する、あるいはすでに消滅した文化的伝統や文明に関する独特な、あるいは稀な証拠を示していること。

(iv) 人類の歴史の重要な段階を物語る建築様式、あるいは建築的または技術的な集合体または景観に関する優れた見本であること。

(v) ある文化(または複数の文化)を特徴づけるような人類の伝統的集落や土地・海洋利用、あるいは人類と環境の相互作用を示す優れた例
であること。特に抗しきれない歴史の流れによってその存続が危うくなっている場合。

(vi) 顕著で普遍的な価値をもつ出来事、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または明白な関連があること
(ただし、この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)。

☆2009/03/05 旅を終わって調べた結果(今回訪問できた遺跡の数は6ケ所、残りの2カ所は本土ではなく島にある)

****  韓国の世界遺産リスト  ******


No 名 称 概 要 外 観
01 華城(ファソン)
Hwaseong Fortress

登録年:1997文化遺産:C(ii)(iii)
韓国京畿道水原市
  李氏朝鮮第22代国王・正祖が1794年より1796年まで2年を越える月日と37万人の労力を投入し建設した都市である。城壁の長さは、5kmを越え、城郭の築造に石材とレンガが併用されている点が特徴的であり、華城の築城に関し『華城城役儀軌』に工人や使用機材、材料等細かい築城記録が残されている。華城は実学を重視した正祖の理想都市でありったが、華城完成直後に正祖が死亡したため遷都は見送られた。
  設計を行った朝鮮後期の実学者・丁若鏞で、城壁の東西南北には蒼龍門・華西門・八達門・長安門の4つの門が設置されている。城内の主要街路は八達門と長安門を結ぶ南北の道がある。この華城は朝鮮動乱時に大きな被害を被ったが、1975年から5年間を掛けて修復・復元工事が行われた。   
02 八萬大蔵経の納められた伽耶山海印寺
登録年:1995 文化遺産:C(iv)(vi)

Haeinsa Temple Janggyeong Panjeon, the Depositories for the Tripitaka Koreana Woodblocks
   韓国・慶尚南道の伽耶(や)山は、古来修行僧が禅に明け暮れた韓国仏教の中心地。その山深くに建つ伽耶山海印寺は、新羅時代に創建された名刹にして、仏教の至宝・「八万大蔵経」を収蔵する法宝の寺である。高麗八萬大蔵経とは、経典の総集のことで法華経、般若心経をはじめ、当時の仏典全てを集めたもの。経・律・論の三蔵とその注釈から成り立っている。白樺でできた版木は縦が約24cm・横が約70cm・厚さが約4cmの81,258枚からなる。
   1011年(高麗顕宗2年)に、蜀版の開宝大蔵経(971年~983年)をもとに最初の大蔵経の製作が始まったといわれている。その後、契丹は退却した。版木は大邱の符仁寺に移された。1236年(高麗高宗20年)に元が高麗に侵攻。国家防衛を祈願のため高宗が再び、大蔵経の製作を指示し、15年の歳月をかけて版木を彫り上げた。
03 石窟庵(ソックラム)と
仏国寺(プルグクサ)
登録年:1995 文化遺産:C(i)(iv)
Seokguram Grotto and Bulguksa Temple
   慶州周辺は、紀元前1世紀から10世紀に栄えた新羅王朝の都が置かれていた。石窟庵は吐含山の麓にあり、花崗岩を組み合わせて人工的に作られている。石室内部に安置された釈迦如来坐像の額にはガラスが埋め込まれ東から昇る太陽により石窟内に日差しが入ってくると、額のガラスが光る設計になっている。新羅の景徳王の時代、宰相の金大城(キムデソン)により751年頃、建立された。1909年、雨宿りの場所を探していた郵便配達人によって偶然再発見された。 1913年から三回に渡り、日本が大規模な修復工事を行ったが、復元不能の石材が現在でも残る。仏国寺も同じ時期に建立された。最盛期の8世紀には約60棟の木造建物からなった。1593年の文禄の役で、ほとんどの木造建造物が焼失し、1659年から再建工事が始まった。現在残っている木造建築物は、この焼失後に再建されたものである。
04 慶州(キョンジュ)歴史地域Gyeongju Historic Areas
登録年:2000 文化遺産:C(ii)(iii)
  新羅時代に作られたと考えられている古墳や仏教関連の遺跡が多数点在している。このため、慶州は「屋根の無い博物館」といわれることもある。登録地域は、南山地区・月城地区・山城地区・皇龍寺跡地区・大陵苑地区の5つに概ね分かれている。
南山地区には、山の岩肌に掘り込まれた石仏である磨崖仏が多数残っている。月城地区には、国立慶州博物館(국립경주박물관)があり、新羅時代の仏教美術品が多数展示されている。山城地区は明活山城 、皇龍寺跡地区には芬皇寺石塔皇龍寺と芬皇寺址が在る。
今回の訪問は大陵苑地区の大陵苑(대릉원、テルンウォン) と呼ばれる円墳で、約400,000㎡を越える敷地に味鄒王陵など23基の古墳がある。
「天馬塚」は内部を公開し、埋葬された石室の復元や出土品が展示されていた。
05 昌徳宮(チャンドックン) Changdeokgung Palace Complex
登録年:1997 文化遺産:C(ii)(iii)(iv)
   昌徳宮 (しょうとくきゅう、朝鮮語読み チャンドックン)は韓国ソウル特別市に所在する李氏朝鮮の宮殿。正宮である景福宮に対する離宮として創建された。現在の韓国国内の宮殿の内、最も創建時の面影を残している宮殿であり、日本の梨本宮家から嫁ぎ、大韓帝国最後の皇太子李垠の妃となった李方子(まさこ)もこの宮殿で暮らした。
創建は1405年、景福宮の離宮として李氏朝鮮第9代成宗が正宮として使用している。文禄の役(1592年)では、日本の軍勢が首都に迫る中、国王の宣祖一行が漢城から逃亡すると、治安が乱れて豊臣秀吉軍の入城を前に朝鮮の民衆によって略奪と放火され焼失したが、王朝末期の1868年に再建された。
李氏朝鮮:三国時代の後の高麗を倒して建国、1392-1910 まで518年のアジア最長王朝
06 宗廟(チョンミョ) Jongmyo Shrine
登録年:1995 文化遺産:C(iv)
  南宗廟(そうびょう、ジョンミョ)は韓国ソウル特別市に所在する李氏朝鮮(朝鮮王朝)の祖先祭祀場。李成桂の漢陽(ソウル)遷都の年である1394年12月に着工し、翌1395年9月に完成した。しかし、1592年日本軍のソウル占領によって破壊され、1608年に再建された。現在も全州李氏宗家によって祭祀が営まれている。また、毎年5月に全州李氏一族が集まる宗廟祭礼祭が行われる。
  廟内施設は「正殿」は善政のあった王を祭り、「永寧殿」は悪政を行った王を祭る 。「功臣堂」には 李氏朝鮮の功臣83人が祀られており、付帯施設として、「斉室」沐浴して祭儀の準備をする場所、「典祀庁」 祭器、祭具を保管する倉庫 、「楽工庁」 祭祀で音楽を奏する楽師の待機場 などが公開されいる。

☆韓国古代史 『百科事典『ウィキペディア 』等のWeb資料からの引用
  ニッポンの古代国家「倭国」との交流があった時代の韓国では百済・新羅・高句麗の三国が鼎立し、これを三国時代という。 → 6世紀の朝鮮半島略図

百済 百済は4世紀中頃に国際舞台に登場する(『晋書』慕容部載記)。それ以前の歴史は同時代資料では明らかでない。『三国史記』では紀元前18年の建国とするが、韓国・北朝鮮以外では史実として採用されていない。 通説では『三国志』に見える馬韓諸国のなかの伯済国が前身であろうとされているが詳細は不明である。

    百済の中国側の記述は、4世紀の近肖古王からである。その頃の百済の都は現在のソウルの漢江南岸にあり、漢城と呼ばれた。漢城時代の百済は拡大を続ける北方の巨人・高句麗との死闘を繰り返した。高句麗の長寿王は平壌に遷都し、華北の北魏との関係が安定するとますます百済に対する圧力を加えた。これに対して百済は、この頃に高句麗の支配から逃れた新羅と同盟を結び、北魏にも高句麗攻撃を要請したが、475年にはかえって首都・漢城を落とされ、蓋鹵王が戦死した。

王都漢城を失った475年当時、新羅に滞在していて難を逃れた文周王は都を熊津(現・忠清南道公州市)に遷した。
聖王は538年都を熊津から泗沘(現・忠清南道扶余郡)へ南遷した。これは百済の領土が南方(全羅道方面)に拡大したためでもあると考えられる。

660年、唐の蘇定方将軍の軍が山東から海を渡って百済に上陸し、百済王都を占領した。義慈王は熊津に逃れたが間もなく降伏して百済は滅亡した。
倭国に人質として滞在していた百済王子である扶余豊璋を急遽帰国させるとともに阿倍比羅夫らからなる救援軍を派遣し、斉明天皇は筑紫国朝倉宮に遷った。帰国した豊璋は百済王に推戴されたが、実権を握る鬼室福信と対立し、遂にこれを殺害するなどの内紛が起きた。やがて唐本国から劉仁軌の率いる唐の増援軍が到着し、663年倭国の水軍と白村江(白馬江)で決戦に及んだ(白村江の戦い)。


No. 表題 Title   内容 Contents
001  百済最後の攻防、扶蘇山城(泗沘城)  画像みる    ↓
     
 泗沘城落城の日
  660年7月、扶余の都には唐の高宗は将軍蘇定方を総司令官に任命し15万人の兵で百済を攻撃させた。唐と同盟関係を結んだ新羅の軍勢は5万人、百済側は最後の王となった義慈王は数万の軍隊を動員し、扶余近郊で決戦に臨んだが一万人の兵力を失い、敗退した。その時、義慈王は二男の泰を王にし、残兵をまとめて扶蘇山城を死守させた。義慈王自身は長男の太子隆を伴って北方の熊津に向かって逃走した。
城に籠もった二男の泰は、やがて怒濤の如く押し寄せる連合軍を前に甥の文思の言葉を容れて降伏を決意し、扶蘇山城は陥落した。この時、王宮に仕えていた3千人の女官たちが断崖から白馬江に投身し国に殉じたといわれている。
  
 百済復興と白村江の戦い(この写真の右手・白馬江の下流に向かって30Kmほど下ったところが白村江)
 義慈王と皇太子を含む王族13人は捕虜となり百済王朝は滅んだ後に、百済復興の士気が起こりその中心となったのが鬼室福信である。
彼は日本の朝廷に使者を派遣して、ニッポンで人質となっていた義慈王の子余豊璋の百済送還と救援軍の派遣を要請した。この要請に対して斉明天皇は交戦の準備にとりかかった。
 661年1月6日、戦争指揮の大本営を九州朝倉宮に遷すための船団を編成し、斉明天皇・中大兄皇子・大海皇子・鵜野皇女(後の持統天皇)らを乗せて大阪の難波を出発した。伊予熟田津の石湯行宮(道後温泉)での額田王の歌(万葉集)『熟田津に 船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな』
その後、斉明天皇は朝倉宮で崩御され葬儀の後に、いよいよ動く。662年5月、阿曇比羅夫(あづみのひらふ)に命じて軍船170隻、軍兵5千人の先発隊を組織し、秦造田来津(はたのみやつこたぐつ)らが隊長となって王子余豊璋を百済へ送還させた。

 663年3月、救援軍を編成す。前軍・中軍・後軍の三軍とし、水軍の指揮官は「上毛野君稚子(かみつけのきみわくご)」・「巨瀬神前臣訳語(こせのかんさきのおみおさ)」・「阿倍引田臣比羅夫(あべひけたおみひらふ)」、そして総勢2万7千の軍兵を4百隻の軍船に乗せて博多から出港した。
これに対して唐軍は左威将軍の孫仁師が指揮する軍船170隻に7千人の兵と新羅軍が加わって、錦江河口の「白村江」に布陣した。

 この両軍の激突は663年8月の27日と28日の二日に亘った。
その1日目。河口に着いた日本軍の一部は功を焦って河口の奥の連合軍に突撃し、双方火箭の撃ち合いとなった。日本軍への命中・炎上の被害が多く、一旦は河口まで退いた。
2日目、前日と同じ戦法で日本軍は突撃を敢行。連合軍は二手に分かれて日本軍を挟み撃ちにして火箭を射かけた。日本軍の司令官が退却を命ずるも、日本の軍船は折からの潮流のため河口と反対の上流へと流されて大混乱に陥った。
秦造田来津は、海戦の後、夜陰に紛れて唐の水軍になぐり込みをかけ数十人を殺したが、力尽きて戦死した。

 高句麗の滅亡と統一新羅
 百済復興軍の拠点の周留城は「白村江の海戦」から10日後に唐と新羅の手に落ちた。余豊璋王は高句麗に逃げ込んだが、その高句麗も五
年後に唐と新羅の連合軍によって首都平壌が陥落し、滅亡した。

 鬼室集斯(きしつしゅうし)を祀る近江の鬼室神社
 百済再興のため義慈王が唐の捕虜となった後、日本に人質となっていた義慈王の子余豊璋の百済送還と救援軍の派遣を要請し、ゲリラ戰を展開したのは鬼室福信である。王室復活軍の副主領格であった僧道琛と反目し、彼を殺害する。そして彼自身は豊璋によって殺され、百済復興軍は内紛で滅亡した。
鬼室集斯とは福信の子か甥か定かではないが同一の百済王族であろう。百済滅亡後、日本に亡命した。天智紀十年の項に「男女七百人をもって、遷して近江国蒲生郷に居らしむ」とある。またこの天智朝廷で「学識頭」に補せられた。今でいえば文部大臣兼大学総長であろう。朱鳥3年(あけみどり688年)、鬼室集斯は蒲生郡小野(この)で没する。鬼室神社に祀られているのは鬼室集斯の墓石とみられ、正面「鬼室集斯墓」、右「庶孫美成造」、左「朱鳥三年戊子十一月八日歿。
(以上「街道をゆく」by司馬遼太郎著)
002  皐蘭寺(コランサ)に描かれた壁画  画像みる    ↓
 
    扶蘇山の北、白馬江との崖の中腹にある。百済時代の尼寺の址と言われる。奈良時代に日本から二人の尼僧がこの寺に留学した伝承があって、寺の裏の壁画に描かれている。(現在の寺は高麗時代の創建と考えられる。)
  司馬達等(しば だっと)の娘・嶋(善信尼)らの出家尼たちは、崇峻元年(588)、帰国する百済使節の船に便乗してこの地にやってきた。
彼女たちが浪速の港を出発した時期は不明である。
当時の船旅では浪速の港から錦江の河口までは2ヶ月はかかったと思われる。河口から王都の泗沘城まではさらに40kmほど錦江を遡らなければならない。当時の外航船がそのまま錦江を航行できたかどうかも不明である。あるいは河口で川船に乗り換えてこの地にやってきたかもしれない。
  白馬江を見下ろす皐蘭寺(コランサ)の建つ上の崖に落花亭と落花岩がある。百済滅亡の象徴的な悲劇はここで起きた。
 660年、新羅・唐連合軍によって百済滅亡の時、敵兵に辱めを受けることを嫌って、落花岩から身を投げた約3000人の百済国の官女たちがいたという。落花岩とは、この断崖から白馬江の水に次々飛び込んだ彼女達の姿が、まるで花が飛ぶようだったということで付けられた名前である。皐蘭寺は彼女たちの霊を慰めるために建てられたという。
  また、寺の裏の崖にはわき水が出ている。特に百済最後の王である義慈王が好み、御用水と呼ばれた。王は、ここから汲んだ水であることを証明するために、容器の中に、ここでしかとれない羊歯の葉を一枚浮かべるように命じたという。それが皐蘭草である。寺の名前もそこから来ている。


003
参照・Webサイト一覧
No  Site name  Auther'sName  Coments 
001  みんなの世界遺産 2005-2008 みんなの世界遺産  Republic of Korea UNESCO登録情報 参考サイト
002  世界遺産りすと 社団法人日本ユネスコ協会連盟  地域別リスト(アジア)いかなる情報も無断転載を禁じます
003  皐蘭寺(고란사:コランサ) だるまさんが転んだ  「日本と韓国」など、韓国関係 資料編
004  扶蘇山城 備陽史探訪の会長 田口義之氏   百済遷都にともない扶余の106mの扶蘇山に築かれた山城
005  ぼくのご先祖さま K's roots 旧坪生村に多い「掛谷」姓のルーツをさぐる 
006  高麗八萬大蔵経 フリー百科事典『ウィキペディア  (現地語読み仮名) パルマンテジャンギョン
007 アジア歴史資料センター 国立公文書館 使用するためには別途アプリが要るようです
008 百済への旅 by ゆみさん 韓国旅行記より
009 石州往来・坪生~西浜~笠岡 Yagumoさん 坪生の旧跡を通って、有田~吉浜経由で笠岡威徳寺まで

更新 2009/03/09