神島内浦東村の古城、小見山城  
 
築造年代は詳らかには解らず。城主小見山三郎とも。頂きに七面神社あり。
⇒PDFから印刷 ホーム
 
 所在地:笠岡市神島内村、神島瀬戸から見える南の山△92.6m。
 
本図は「長鋪姓と陶山、小見山氏について」長鋪宏著より借用、以下も同
 笠岡市内から神島大橋を向けて横島から入江を経由して大橋を渡ると正面に小学校が見える。この裏側に聳え
立つ標高92.6mが小見山城趾。城郭の詳しい縄張り図などは公開されてはいないが山頂は幅20x36mほどの楕円
形の平地になっており七面神社がある。この社は江戸時代に建立されたもの。二之丸と見られる西側の尾根には
周囲には排水溝と水溜用の穴があった。地元では東村古城、あるいは小見山城と呼ばれている。
東村古城趾(「神島内村誌」大正7年4月刊)
 東村部落に在り。城主河野三郎通治(水野侯)、備中古城記に見ゆ。豫章記に云う、河野九郎左衛門通治、次ぎ
に小見山三郎、次ぎに池田主殿正にて貞和年間(1345-50)の人なり。現今は城郭の行影処の無けれども馬場また
藏屋敷等の名称は遺存せり。
小見山城 (「神島史誌」(昭和60年11月刊行)
 神島内浦村書上帳には、この山の 「殿土居の古城跡は小見山の城と前々より申し伝えている。もっとも年代のこ
とは相知れません」 と記している。地名は、山が城丸山、その下が殿土居。中村に馬場、的場、射場垣地、倉屋敷、
鍛冶屋垣地など城の存在を物語る地名が多く残されている。
 城主については、諸書あって『古城記』には池田主殿(とのもの)正、貞和年中(1345-50)の人なり、また名は義清
で小見山備中守家老で子孫は天文年中(1532-1555)まで居城、子息二人あり、天神を祭る。など記している。『水野
記』には「古神嶋村、久保掃部(かもん)」と書かれているのは注目される。掃部について『備中誌』は「神島の鳥越城
(島人の言い伝えでは馬越の城)の辺より、ふもとの海までもすべて今もかもん″といえり」 としている。掃部頭
(かもんのかみ)は、能島村上氏の主流のつけた称号で、村上雅房、義忠、武吉、元吉らは掃部を名乗った。『中国
兵乱記』 には笠岡掃部という者がしばしば登場する。天文九年(1540)大内幕下侍大将として、村上弾正と並記さ
れている。その後天正十年(1582)までの間は村上氏を名乗っていないこの人物はやはり村上水軍の一員であろう。
 更に同書は『備中兵乱記』からの引用でこの周辺海域の事蹟として次項のとおり列記している。
▽天正2年(1574)11月、備中松山の三村元親が毛利にそむいた旨が鞆津にもたらされた。同月八、九日に毛利輝
元、小早川隆景らが笠岡の浦に到着。昼夜、軍議を開いた=『備中兵乱記』
 ▽天正3年(1575)、足利義昭は、備中国笠岡浦を過ぎて備後国鞆津に着く。村上弾正・笠岡掃部は、中国の海賊
を相従え、備中国水島、笠岡沖に番船を浮かべ義昭を守l護する。
 ▽天正10年(1582)高松城水攻めの時、鞆の将軍義昭は、備中国笠岡湊、村上八郎左衛門の城へ入る。軍勢は
杉山城(鴨方)、走出村折敷山構などへ陣取る。
 など当城は笠岡城主村上一族との連携もあって語られているようだが、笠岡から陶山一族が衰退した時期永正3
年(1506)頃にはその役割を終わったいたのではなかろうか。つまり村上一族の笠岡城入城によって神島水域も又
その支配が陶山氏から村上氏へ移ったのであろう。後の神島内村庄屋となった小見山氏も神島に止まらざるを得
ぬ事情があったにちがいない。
                                                         (2015/08/08記)
 ☆小見山氏関連の古城趾
  小見山氏は陶山氏との姻戚関係もあり連携して城郭運営を行ったものと推測できる。
 しかしながら笠岡陶山莊に本拠地を置いた陶山氏もまた断片的口伝や後世文書の記述しか遺っておらず詳細なる事蹟が不明なのである。
 そんな事情のなかで、小見山氏の名が出てくる中世城趾情報は次ぎのとおり。
 <サイト内リンク>
  小見山城(井原市高屋) ⇒ClickHere  工ケ城(井原市稲木村) ⇒ ClickHere   有田城(笠岡市有田) ⇒ ClickHere


 神島天~社 ⇒ ClickHere  神島内村塩田 ⇒ ClickHere
                                                       位置図: 笠岡市神島東村


                               笠岡神島小見山城01.jpg



























Ads by TOK2