弘法大師像建立:昭和59年

2008/11/03
大師大護摩祈祷祭→ClickHere
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2008/09/21天神社に船が参拝

2008/09/28 神島神社へ行進開始


地つづきになった神島(笠岡諸島)神島大橋開通s45年4月1日


神島といえば四国ミニ霊場(元文5年(1740)~延享元年(1744)に完成)

地名考

 笠岡港より南約12kmの瀬戸内海国立公園笠岡諸島にあり、高島の北に位置している神島は笠岡諸島のなかで最大の面積を持つ周囲 16.15Km
の島であったが、平成2年には笠岡湾干拓工事が完工し完全に本土との地続きとなった。
 歴史をさかのぼり神島のいにしえを探すとき、笠岡図書館で「神島史誌」に行き当たった。この書の「神島考」by田中舜治氏によると、
「笠岡市の五つの島(神島・高島・白石島・北木島・真鍋島)は小田郡に属し、小田島とも呼ばれていた。大日本史に万葉集、備中名勝考を引用
して、『神島、いにしえ高島という』とあるが、この場合の高島は五島を含めた地域を言ったと考える。寛永古図(備中集成誌)には五箇島が神島村と
して、総称されている。寛永の頃(1624-1644)には神島が主導的な支配力を持っていたことを伺わせるし、上古には高島が内海通行の中継地になっ
ていたため高島が五箇島の総称となっていた。
 また、神島は古くはカムシマと訓じられていた(旁訓大日本史・伴信友著 神名帳考証)。歴代の歌集ではカミシマである。神島との命名由来は、
文化二年(1805)『神島内浦書上帳』に神武天皇御遊覧御座候島故、神島と島名相改めし義に申し伝え候」とある。

 藤堂高虎領有:慶長11年(1606)小田郡尾坂など九ケ村とともに伊予今治藩主、藤堂高虎(1556-1630)の領地となった。
            慶長13年(1608)8月、藤堂高虎の伊勢・伊賀への所領改めとなり幕府領となる。再び代官小堀遠州の支配地となる。



 寺間の宋銭出土:昭和36年、寺間の小見山仙松氏宅が自宅の井戸を掘っていたところ宋銭六枚が出てきた。
これらは北宋銭で、治平元宝一枚(治平1064-1068)・元豊通宝二枚(1078-1086)他だったという。
当時、室町幕府は貨幣の鋳造・発行をしなかったので中国からの銅銭が流用されていた。そのなかでも北宋銭がもっとも多く、ついで明銭(永楽銭、武銭など)であった。昭和59年11月、倉敷市日畑の竹藪で一万枚を超える宋銭が発見されている。

 寺間の観世音庵:元亨元年(1321)、陶山藤三義三が敗戦により単騎で海の波をけたたて自性院に落ちのびてきたという伝承が残る。さらに、
永正3(1506)年には最後の城主陶山高雅は笠岡山城を讃岐細川勢に明け渡し自性院に落ち延びたと伝えられる。
此の地は陶山一族とはすこぶる地縁のある場所である。→ → → ClickHere

 ☆2010/10/20 自性院訪問 → → → ClickHere
   陶山一族最後の笠岡山城主第27世陶山高雅は讃岐から攻め上った細川・村上勢に城を明け渡し自性院に落ちたという。時に永正三年(1506)
 高雅は神島自性院に逃れて家系図を写し納め布施す、と伝えられる。この日、寄島・鴨方在住の陶山氏末裔の方々と自性院を訪ね、この高雅が
 納めたという家系図を見ることができた。 


 神島干拓事業:
 [青島新開] 水野時代の延宝6年(1678)に完成。堤防の中間に青島という小島があるところからの命名だが、当初は「磯新田」と呼ばれていた。
         造成面積は九町歩、堤防長二百間、水門1ッ個所、用水池一町八反歩の面積、中村新開池(いま大池という)。
         この堤の東南堤防上に落成記念として黒松が植えられた。
         また堤の東側瀬戸の海上にある伊吹島に大原焼の五重塔を建て、弁財天を祀ったのも同時期である。堤防の築造で海峡が狭めら
         れ潮流が早くなり、海難防止と海上交通安全を祈願するためだった。

 [浅ノ王新開] 島の西端にある沖積地に波よけ堤防を築いた程度のもので、青島新開と同時期の完成。

 [中村西浜新田] 文化9年(1812)に着工、発起人は入江新田の庄屋の二代目鳥越新兵衛だが工事半ばで死去、その後引き継ぎ者が続行し、
         文化11年(1814)8月に完成した。造成面積は1町4反6畝歩である。

 [深方新田] ふけがた新田は浜田新開とも呼ばれる。文化3年(1806)の着工、造成面積は1町9反12歩で天保4年(1833)の完成、天保14年(1843)
         検地。発願は自性院、開発者は庄屋中塚染右衛門、広右衛門。
         この新田は堤防の延長が長く、かつ「フケ地(泥の深い地)」で工事中たびたび築堤が崩壊するなど難儀を極めた。
         資金難と同志の離反のため、一時工事中断など、完成までに実に37年を要した難工事であった。

 [吉兵衛新田] 横島の南端の海を大殿州まで二本の堤防で締め切って造成した干拓を吉兵衛新田という。
         吉兵衛は坂本氏のこと、同家は富岡村の庄屋を勤めていた。弘化3年(1846)十二月の検地、面積1町3反6畝21歩、
         高3石9斗7升6合。
         
 

景色考

 島の天神祭り: 内浦住民たちで祭礼が引き継がれている
 
神島の天神社をネットで検索。 島の天神社として、天神祭の紹介記事がいくつかヒットした。
http://www.tamatele.ne.jp/~onotoshi/kounosimatenzinmaturi.htm

 『神島7地区(神東・中村・汁方・福浦・高・寺間・見崎)の千歳楽(せんだいろく)が天神社に参集する賑やかな
秋祭。もともと神島は離島で、船による「お渡り」を行っていましたが、笠岡湾干拓によって陸続きになり、地区
によっては昭和48年(1973)からは、トラックによる陸の渡御となっています。旗や提灯で華やかに飾られた
船やトラックで運ばれた千歳楽は、天神社に入り、順次社の周りを3周してから神主の祈祷を受けます。最後に
神社の鎮座する神東地区が神社に入り、全地区の千歳楽が揃い、社内で一斉に練る「総担ぎ」が行なわれる。
また、神東地区には3体の神輿があり、御旅所からの戻り神輿は千歳楽とともに海を渡り、
その後地区内を巡回して夜に再び宮入りします。』

 島の天神社: 島の天神社は、天神山から今の場所に移ったという伝承がある。一説には文和年中(1352-1356)の創建というが、文和は北朝の年号で、 南朝は正平年間である。 天神信仰は、はじめは天(あま)つ神・国つ神の天神であったが、菅原道真(845-903)の怨霊が雷となるなど活動が激烈だったの で天神(てんじん)となり、天つ神より世間の評判をとった。「岡山県神社一覧」には創建は延文年間(1356-61)に地頭の小見山某の発願で創建とある。
 在田軒道貞の「小田物語」には「この島の天神の華表(鳥居)の笠木の一方が落失せたので、他方が風に吹かれればゆらゆら動くが、慶長年中(1596-1615 )より地に落ちず、島人は不思議だという。」とかかれている。
 磯崎鼎氏「郷土の史蹟と史実」には、
  「小寺清先の父、清続は浅口郡新庄の人・藤原佐平(後に磯田氏と改める)の二男で、小寺氏を嗣ぎ神島天神の祠官であった。
   のちに笠岡・陣屋稲荷の祠官となった。豊前守と称す。安永八年(1779)没した。」
 貞亨4年(1687)6月、福山城主水野美作守勝慶が社殿を再興し境内を拡張、現在の遺構となった。(この項「岡山県神社一覧」より引用)
 天保4年(1833)修理はじまる、by中塚家文書。その後、嘉永三年(1850)修復、さらに明治22年に再建、この時社の向きを変えた。

 天神社の後ろの海の潮流は早く帆船の転覆事故等、海難事故が後を絶たなかった。道真公が南向きでうっとしがっておられるのはないか、との声があり 当時南向き(山向き)の社殿を北向き(海向き)に変えたという。 -------→ 「天神祭」地元明倫団さんHP 


 神島神社: 備中式内社のひとつ。 → → → ClickHere

「当神社は式内社なり、即ち延喜儀式神名帳に備中小田郡神島神社とある。
御祭神は神日本磐余彦命(神武天皇)興世姫命(おきよひめ:神武天皇の妃)を奉斎す。社伝によれば創建は奈良時代(726)神亀3年、室町時代(1547)天文十六年に本殿の御造営が行なわれていることが棟札によって知られる、大正十五年八月十五日に第六回目の改修工事を行ない当時の様式を偲ぶことが出来る。命は、皇祖皇考神聖にして日向より東征の砌、吉備高島に八年間駐屯後、海上より熊野に至り大和平定後、橿原の地に第一代践祚の大偉業を成し給う。妃興世姫命は、部下を率いて駐留され天業を扶翼し奉りて此の地に崩す。近郷住民は、高き尊き御神徳を畏み奉りて一大崇敬産土神と斎き奉る。(岡山県神社庁HPより)
一説にはこの社は対岸の高島の王泊に鎮座していたが、現在の場所に移されたという。

 神島神社の秋祭り(奴行列):  → → → ClickHere

神島外浦の祭礼も千歳楽(せんだいろく)が村々を巡る。
昔は担ぎ手も多く、一旦担いで出発すると御旅所へ入るまで、交代で千歳楽(せんだいろく:御神輿)を地面に
卸すことなく男たちの肩で支えたという。
今では過疎になったこと、道路が整備され車でぐる~っと回れること、の環境変化で千歳楽(せんだいろく)は車
に乗って村を回ってお旅所へ入る。この後、奴行列がはじまる。
三洋汽船の桟橋あたりが出発点で、16人の奴姿の男たちが毛槍と道具箱を担ぎ、隊列を組み往来を踊って
歩きながら神島神社へ向かって行進する。その昔、江戸時代に西国大名たちの参勤交代のとき、多くの船が
潮待ちでこの地に仮泊した。
その船旅人たちを陸上から退屈しないよう、慰撫する目的ではじまった祭りだという。
この行列の先頭も猿田彦のお面をかぶった先がけが毛槍振って進路を確保して隊列を導く。
観客席の道路脇で見守るおばあちゃんに言わせると、奴踊りも千歳楽(せんだいろく)の練り歩きも、昔から村の若者たちが先輩から口伝継承してきた技があり、昔のほうが格調が高かった、と嘆く。
とはいえ、奴行列には80代の男性も数名、現役! 浴衣姿に裾まくり、派手な色の褌を見せながら裸足。顔は同欄で厚化粧し、隈取りは各人のお好みでバリエーションを持たせている。

No. 表題 Title   内容 Contents
001 神島の干拓地略図  画像みる    ↓
    
 
 神島大橋付近の俯瞰図を見ると、神島・片島・横島の三島が陸地に飲み込まれている。
神島大橋は昭和45年に開通した。笠岡湾干拓のおかげで海水が笠岡港へ流入する水路はこの神島大橋直下の水道のみとなった。
その昔、笠岡に縄文人たちが定住していた頃、東は今井~絵師、西は生江浜~用之江・有田まで海が迫っていた。江戸時代以前にも
笠岡一帯での干拓事業は行われていたであろうが、記録として文書に記されて残るのは江戸時代以降である。
神島関連の干拓はこの図のとおり内浦に集中している。
002  神島88ケ所お四国巡り  画像みる    ↓

大護摩祭
  ↓ ClickHere

 神島は内浦(内村)と外浦(外村)に二分されていた。
それぞれが氏神を持ち、それぞれの村内で閉じられた社会として江戸時代までつづいてきた。
内浦の石高489石に対し外浦の石高は265石であった。外浦には山が海に迫り平地がすくなく農地の確保が出来なかった。古来
より塩業が盛んで揚げ浜式塩田が行われていた。近代以降は本土と隔離された環境の利点を生かして亜鉛精錬工場が立地し
民業の隆盛期を迎えたが、江戸中期の延享元年(1744)に島内八十八カ所を設置によって、内浦と外浦がより密接につながった。
この時期の完成の前と後と、神島がどんな変化をたどったのかは興味ある歴史テーマのひとつであろう。

 神島の信号器の交差点の弘法大師像は「厄除神島大師」という。高さ4メートル、重量約2屯、毎年十一月三日に大法要が行わ
れる。昭和59年(1984)11月建立、弘法大師の入定1,150年の記念として祀られた(パンフには1,500年と記載)。

☆2008/09/28 (Sunday) 外浦月照山日光寺へ参詣-------→ ClickHere

 外浦の奴行列を見にいった日、道を尋ねた女性が日光寺へ案内してくれた。
海を南に望む小高い丘に建つ寺院は景色がすばらしく、境内は本堂、大師堂、宝蔵、庫裡、山門、客殿、茶室などの伽藍が並び、端正な佇まいをみせている。これらの建築時期は見た目で、比較的あたらしく、手入れの行き届いた真言の古刹だった。
天台宗を開いた伝教大師最澄作の薬師如来を本尊とする。
市の案内によると、日光寺は市指定石造美術品を2基保有するという。
その1-石造地蔵菩薩。花崗岩の宝塔で、塔身90cm、右側面に「文永十一年都市次甲戊」(1274)文永の役の年(元と高麗
の連合蒙古軍が壱岐・対馬を侵し筑前に上陸、翌日は風雨に遭い撤退す)
その2-閑香の塔婆。日光寺裏山の墓地にあり、塔身正面に閑香と刻み、「天正十二年申八月」(1584)の紀年を両側に振
り分けて刻んでいる。閑香の詳細は不明。
また、同寺には国重文の「地蔵十王像」があり、江戸末期から数多くの文人墨客が止宿した寺院である。
 備後国・福山藩主の水野勝成公は、この寺を祈願所として、月見の宴や茶会を催し代々にわたって参拝。現在、拝領の抹茶器が残されている。また、通称「梅寺」と呼ばれるように境内には古梅林が残っており、絶景に加え一段と季節の風雅の趣きを増している。
 以来、こうした風雅を楽しむため多くの文人墨客が来遊している。頼山陽の師でもある代官の菅谷弥五郎が寛政元年(1789)が止宿し、鎮守・金毘羅宮を勧請したのをはじめ、京都・清水寺成就院の住職で歌僧として知られる月照、中国の論語学者・胡鉄梅、菅茶山、頼山陽らが来遊。梅に関する詩歌数千種の短冊が残されている。かつては笠岡諸島の総菩提寺であった。


日光寺

003
 お四国縁起 (『神島史誌』より) 画像みる    ↓



 笠岡市史第3巻
「神島四国は、真言宗の祖弘法大師空海が四国で修行したと伝えられる遺跡八十八箇所を模したものである。
笠岡の商人今田慧弦(宇兵衛)が発願し神島内浦の池田十郎兵衛の協力によって元文5年(1740)から延享元年(1744)まで5年の苦心惨憺の末完成した。
この時期の笠岡代官は第19代川田玄蕃。
道程七里八町(約30Km)の間に八十八体の仏像をお祭りして札所とし、それぞれの札所の本尊土台下には四国のそれぞ
れの札所から持ち帰った土を埋めてあるという。延享元年(1744)春、遍照寺主䜌随阿砂利を導師として開眼供養がおこなわれた。
当日は88人の僧侶を集めたという。

 ☆今田慧弦の石像: 第36番札所「青龍寺」 → PhotoClick Here
  高知県土佐市宇佐町 真言宗豊山派、御本尊 波切不動明王 
   「本尊の波切不動明王は大師が入 唐の折、暴風雨にあわれその時風 波を切って静めた不動明王の像を 刻まれたもので、現在でも
    遠洋漁 業の舶員は出港の前、船長以下全 員が当寺へおまいりして、海上安 全の祈願をしてから出航する習わ しになっています。」
  島内瀬戸にあるざんげ庵の今田慧弦の五輪塔(墓石) → PhotoClick Here

 ☆今田慧弦が弘法大師の夢告を聞いたと伝わる88ケ所奥之院、白石島青龍寺大師堂→ Click Here


☆2008/10/19 (Sunday) 笠岡新88っ所霊場について(吉田公民館刊行「続ふるさと よしだの史跡」)

 笠岡新88ケ所霊場は、石仏に残る建立年号から、寛政9~10年(1797-98)の両年にわたって設立されたとおもわれる。
第一番札所となっているところは、現在の遍照寺本堂の西側、「霊山寺」が建つ。この本尊・釈迦如来像の台座の刻字によると、
笠岡在の「熊越弥八郎」となっている(同じ人物が田頭に在る第20番霊場札所にみえる)。
建立された場所からみると、ほとんどが旧街道に沿って建てられており、土地の篤信の厚い施主を募り、設置されたものと考えられている。
昭和39年ごろ、甲弩郷史談会が調査・整理され現在の資料の基礎ができあがった。
概観をみると、
 第1番札所~第21番太龍寺(大仙院) 笠岡地区 第22~28番 小平井地区  29~38番 吉田地区 39~41番関戸地区
 42~46番 新賀地区 47~56番 関戸地区 57~77番 吉田地区78~88番 園井地区 第88番「大窪寺」は園井団地と
 大井ハイランドの2カ所にあり結願となる。


☆2008/11/03 (Monday)
 弘法大師大護摩祈祷祭 たまたま正寿場町でポスターを見かけ、当日見学しました。
 
 笠岡市街地より神島大橋渡り、島内唯一の信号機のある交差点に、弘法大師の立像(厄除神島大師)が建っていらしゃる。
 この交差点を挟んで、メイン道路の両側がその会場になっていた。ポスター、チラシで広報された内容は次ぎのとおり。

 「厄除神島大師 建立24周年 神島大師恒例大祭」  主催:神島霊場会・先達理事会
  十時より、、、、、本四国霊場八八ケ所 お砂踏開白法要
  十時半より、、、、神島大師大法要  菊献華、御詠歌奉詠、宗教舞踊、アトラクション
  十二時半より、、厄除神島大師大護摩祈祷、火わたり行事、お接待、福餅まき
 大護摩祈祷に際し、護摩木の奉納をお願いします。
 願い事は、先祖供養・家内安全・身体健固・交通安全・当病平癒・商売繁盛・その他どんなことでも構いません。
 ※毎年盛大に厳修し、皆様の幸福をお祈りいたしております。 

004
005
神島の戦国時代の城阯
神島には中世の山城が2城あったと聞いて、2009/04/08現地を訪ねました。その後、更に2城を知る(2009/04/18)。
「笠岡市史」では神島中村の城「小見山城」が「日本城郭大系」では何故か、「十神島城」(標高△93m、城主:河野通治)となっていましたよ。   ☆2015/08/09 神島四城は将に東西南北、竜虎朱玄の如く四方の海を見張る為の要塞であった、と思えますね。 
  当然ながら四城が同じ時代に同じ為政者の命で築造されていたことが判れば、神島歴史も面白いだろうけど、残念ながら総べて不明。     このうち小見山城(地元では東村古城)の写真はこちら ⇒ ClickHere
城名 位置 概観 概要




  標高二五メートルの台地上に位置する。村上氏の属城の一つであり、
「かもん」と呼ばれている。「かもん」は村上掃部、笠岡掃部、島掃部などと呼ばれた村上氏にちなむ呼称であろう。村上水軍の海上拠点の一つとして機能していたことは言うまでもない。馬越城の別名もある。
(「笠岡市史」)
神島~横島水道への要害である。
道順 神島大橋を渡り、直進。日限入口のバス停を山に向
かって直進し「東村下集会場」をすぎた丘を鳥越という。
この場所からは神島瀬戸が一望できる。子殿洲~孫殿洲をへて大島の見通し線を
通過する軍船の烽火をあげるだけでなく、城からは火箭を浴びせたかもしれない。






標高九二メートルの独立丘陵に位置する。別名を神島内浦城といい、城主は小見山三郎と伝える。
小見山氏は後月郡高屋を本拠とする豪族であるが、この一族が神島へも追出していたのであろう。その年代は不明である。また、河野三郎通治、池田主殿正なども在城したというが、いずれも確証はない。神島は村上氏相伝の所領ともいわれ、小見山は村上氏被官説もある。
道順 神島大橋を渡り、信号左折。右の山の上に屋根が見
える。これが城丸山、頂上には七面神社が鎮座する。
小見山氏は陶山氏とは姻戚関係があり、笠置山攻略には同行したことでも有名。陶山氏は笠岡城村上氏とも姻戚関係にあり陶山・村上・小見山の地域聯合時代があったはず。




標高56メートルの海に向かって南に延びる舌状丘陵に若干の高台と平坦面、という説明のみで城主は不明、築城の時代は鎌倉~室町、出土品なし。
以上が岡山県文化遺跡Mapサイトからの引用。
遺跡場所の表示がないので勝手に第36番札所青龍寺の境内であろと決めた。そこからの眺望は黒土瀬戸を眼下に、笠岡諸島を正面に広がる瀬戸内海の窓である。
道順 神島外浦を見下ろす高台。外浦の港から内浦への山越
道を進み、二本目の道を左折。目印は35番札所清瀧寺。
築城が鎌倉~室町であればこの城の主は陶山氏、小見山氏あるいは真鍋氏のいずれかであろう。神武天皇東征の船団がこの瀬戸を上ったとすれば、感慨深い城である。
☆2009/07/21鳥越城について
  森本繁氏著『村上水軍全紀行』(新人物往来社2009/02/25刊)
 「能島村上氏第五代武吉の叔父隆重は、能島の村上家で第四代義雅が死去して、その嫡子義益と義雅の弟義忠の子武吉とのあいだで家督争いが起こったとき、彼は武吉に味方して義益派と対立した。能島を追われた彼は備中へ進出して神島を占領し、城を築いた。これを鳥越城という。当時宗勝という名であった隆重は備中笠岡の領主であった陶山民部少輔に妹を嫁がせ、笠岡沿海部に新城(笠岡城)を構築した。
そして、陶山氏と同盟して当時出雲の尼子氏と結んでいた小田氏と天文九年(1540)に萌黄原で戦闘を交えたが、敗れた。さいわいこのときは進駐してきた大内義隆の軍勢に助けられて、陶山氏の旧領であった笠岡を推持することができたが、彼が正式に笠岡の城主として、ここに所領を得るのは、そのあと笠岡へ進出して来た毛利軍の部将小早川隆景の肝煎りによってである。
 それは天文二十年(1552)から翌年にかけてのことで、このとき隆重は小早川隆景から笠岡の旧領主であった陶山氏の所領千貫を給与されている(『閥閲録』二十二ノ二)。
 こうして、隆重は、滅亡した陶山氏のあとを受けて備中笠岡の領主となり、彼の没後嫡子の景広がこれを相続して、慶長四年(1599)に毛利輝元から配置替えを命ぜられるまで、約四八年間ここを支配するのである。」

横島の「鳴ケ端城」 陶山一族の築城、後村上一族が居城す ⇒ ClickHere

☆2012/04/12 「笠岡市史史料編上巻」の『皇国地誌m9年』に次ぎの記事を発見。
「神島内浦 古跡 古城趾城主河野三郎通治 養和中鞆津ニテ奴加入道ヲ打捕ルト云
            古城主池田主殿貞和年中之人」
 この記事の意味する処、二行に書かれているので恐らく別々の内容であろう。1-養和中とは1181-1182なので平安時代末期。鞆津の奴
 加入道とは、平氏の荘園があった奴可郡一帯(広島県東城町付近)を支配していた奴可入道西寂のことか?
 2-池田主殿、貞和年中(1345-1350)之人。池田姓の武将は陶山一族にあり。よってこの時代、陶山支配の出城にいた武将が池田主殿
 ということなのであろうか?
 ただし、両城ともどの城かは特定出来ず。後補としては⇒「鳥越城」と「福浦城」か。

☆2015/08/07鳥越城について([神島内村誌」大正7年4月刊行)より
 鳥越城

 神島内浦字東村鳥越部落の頂点約二反の地、此城跡にして以前島民馬越の城と云ひ伝えたりと云う。然ども今此地を鳥越という。惟ふに鳥と馬との文字の形似たるより誤りたるならん。備中誌に拠れば「小寺云う、城主は嶋掃部なるべし。此辺より村兼の海までもすべて今も「かもん」と云えり、云々。又云う常山紀に城主は村上弾正、嶋掃部云々と。

006
その他の社寺由緒
神島島内神社と寺院一覧リスト&サイト内リンク一覧
名   称  場  所  詳              細 
北宋渡来銭と亀山焼   神島寺間 昭和36年に寺間の井戸から12世紀の渡来銭六枚が発見された。大飛島遺蹟との関連があるのかも 
長鋪邸と金比羅丸  内村汁方  元禄十三年小田郡神島内村検地長に庄屋伝右衛門名の屋敷、百拾八歩と多くの田畑あり。 
神島&横島の塩田  神島内村  明治22年市町村統合により横島村は神島内村となった。当時の塩田は2ケ所、面積6町9反歩 
賴山陽七言絶句碑  島の天神  境内に建碑あり。文政八年(1825)賴山陽訪問し西山拙斎と菅茶山を偲びて作詩す。 
[南無妙法連華経]塔  神島大橋  2013/10/18遠望から碑があることは前々から知っていた。橋脚のそば、台座は波に洗われている状態 
三日月神社  内浦見崎  2013/10/17 大島の長濱にある「お月さん」の関連でこの場所に月信仰を伺った。御崎神社鳥居横。 
片島八幡神社 内浦片島 2011/01/06 上浦八幡神社は福山水野藩統治時代に創建、下浦八幡宮は神島汁方より遷宮された
片島アバマ海水浴場 内浦片島 2011/01/06 江戸時代水野藩統治時代の片島は光円寺所領であった。内浦中村の又助一家が定住開始
自性院御住職に面談 神島東村 2010/10/20 陶山藤三義高の末裔になる方々と寺間墓所の五輪塔の話を聞きに訪ねました。
寺間観音庵自性院跡 神島寺間 元亨元年(1321)、陶山藤三義三単騎で此の地の自性院に落ちのびてきたという伝承が伝わっている。
陶山一族の寺間墓所 神島寺間 神島寺間観音庵横の山の頂上にある墓所。岡田光博氏著『陶山家歴代の足跡』第二巻p620掲載。
青島山朝福寺自性院   神島内浦総  養老2年(718)寺間に行基菩薩によって開創、その後天文十六年(1547)現在の場所に移転。陶山縁あり
神島山安養院 神島内浦総  慶雲~和銅年間(704-715)の創設、中興に弘仁2年(814)、僧沙門空海の開山と伝えられる。真言宗
円明山法華寺  神島内浦  元は真言宗の寺であり、大覚大僧正(諱は妙實、摂政近衛経忠の子)西遊し開基とす。延文元年(1356)
福浦の荒神社&薬師 神島福浦 椋の巨木あり、その周辺に荒神社・一畑薬師分霊所・福浦薬師そして中世五輪塔郡の集積祭祀場がある
外浦の地神碑2基  神島外浦  海に向かった地神碑は珍しい。しかも明治と大正で新しく、どんなルートで伝播したのか興味を引かれる 
神島天神社 Bus島の天神 菅公を祀る社で創建は貞和年間(1345-1350)と伝えられる。鳥居は北面し海からの参拝者を迎う造り。
月照山日光寺 神島外浦 境内からは黒土瀬戸を眼下に臨み、笠岡諸島が連なるパノラマ風景は絶品だ。鎌倉期の石塔あり。
神島神社の奴行列 神島外浦 神島神社は在田神社と共に、延喜式神名帳に記載された市内でもっとも格式ある神社とされる古き社。
神島瀬戸の渡し舟 神島大橋 昭和26年にこの渡場の手漕ぎ船が動力船に代わったという。当時の写真が掲載されていた瀬戸の風景
式内社神島神社 神島外浦 神武天皇が日向よりの東征の途中、高島宮に逗留。皇后興世姫尊は当地にとどまり歿。両神を祀る社。
神外ヲォーキング 神島外浦 2009/12/06 「いきいき笠岡21」笠岡市健康福祉課が主催する第3回目の「かぶとがにWolking」イベント

2016/03/07 更新 08/09/29



 












































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