| 神島内浦「片島」 の事情 「アバマ海水浴場跡」碑と小祠二座あり 訪問:2011/01/06 |
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| 2011/01/01 「笠岡遊歩」への投稿あり |
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| <情報提供してくださったのはtrue_arc078@xxxx.ne.jpさん>写真も添付されていた。(地図と右中段の最上白龍動大権現を除く) >はじめまして。 >度々、拝見させていただいております。 >私も笠岡在住で地元の歴史に興味があり、気になった神社、石碑、遺構など探索した後、 >ネット検索すると必ずこちらのHPがヒットします。 > >干拓が海だったころの遺構、船着場が神島にニョキニョキ残っていますが、なんか不思議で。 >そう遠くない昔は海だったんだなあと再認識させられます。 >片島が海水浴場だったと聞いて、その場所に行ってみたいと思って、2年ほど前に探しに行ったんです。 >そして、去年再訪した時の写真も添付しておきます。神社内の笠岡諸島図や白瀧権現の絵など、全く色褪せてない >ことにびっくり! 時計もいつ止まったのか・・・。 >もしかして踏破されてますか?場所は、農場の空港の近くの道路沿いにファームポンド?前の道を南側に入っていき >(入口にどこかの運送会社のトラックが駐車されていて、道なりに100〜200m行った左手です。 >是非是非行かれてみてください。 >海水浴場時代にお客さんが憩ってたのかなあと思いを馳せてみたり(笑) <写真説明:右上段より「アバマ海水浴場跡碑」と「最上白瀧大権現」の祠、中段:白龍動大権現絵図、下段「五社大明神」> 現地踏査(2011/01/06)そして、その返信メール true_arc078@xxxx.ne.jpさま 写真どおりの遺構がありました。 持ち主は海が消えた後も家屋は小祀を撤去や移転する気力も失せたのでしょうね。 あるいは思い出に漬って日暮らし暦を重ねたのかも。 昭和18年10月1日付けで笠岡警察署長が上杉信夫さんを警防團第六部組長に命じた辞令書、 笠岡諸島の島航路絵図、壊れた祭壇、3月2日(土)11:56':50"で止まった時計(土曜に なるs46年以降の年号を調べるとs49年、締め切って三年後かも)寄贈者名は「魚万」さん 送っていただいたモノクロ写真はナシ。ほかには、、、額入絵が二枚、「最上白龍動大権現」女神or菩薩? と彩色絵は白狐に乗った女神の絵、賽銭箱もありました。 朱塗りの取付鳥居の扁額には「最上白瀧大権現」と書かれていました。 白瀧と白龍と似た文字があり、五社大明神(こちらも朱塗の鳥居と本殿外壁も朱でした)との関連 もペンディングです(継続審議の先送り) 現地には二つの小祀があった。 それぞれ別の朱塗り木像鳥居があって、扁額には「最上白瀧大権現」と「五社大明神」と書かれている。最上白瀧大権現社は内部への立入 が可能だが、後者はコンクリート・ブロック構造のようで原型のまま残っている。祭祀者は碑文に名を刻み、笠岡警察署から警防組長に任命 された上杉信夫さんと思われる。両社とも筆者の知る限りでは今のところ、笠岡市域には同一社名の祠は思いあたらない。 またTrueArcさんよりメールの続信があり、 笠岡警察署長から辞令を受けた「上杉信夫さん」は、住吉の三洋汽船の近くに昔(昭和40年代位まで?貸しボード業をされていた上杉ボード のご主人だとのこと。 笠岡図書館で関係書をさがす⇒「神島史誌」より引用 現地に残る碑文の全文(写真右上段)&地図の右下 「アバマ海水浴場跡 此處(ここ)アバマ地区は昭和の初期より海水浴場として笠岡近郷の人々に親しまれて来ましたが 笠岡湾大干拓施工によりやむなく閉場するに至りました。潮の香匂う波静かな浜辺を惜しみつつ、 ここに思い出を記す。昭和46年吉日 上杉信夫 有志一同 建之」 笠岡湾干拓工事は昭和41年2月から平成2年まで、四半世紀を要し完工、その完工記念碑は伏越の十二番町公園入り口付近に 建てられている。この片島海水浴場の文献を探して図書館を訪ねたが、検索しても完全一致はなし。以下、「神島史誌」を引用。 『片島汐ケ鼻古墳 片島の北側海岸には干拓工事の前、海水浴場があった。砂地の海辺には土器が散らばっていたし、十センチ余の先のきれいに磨かれた 石斧があったりした。土器は硬質で、須恵器の系統とみられる。 これは五世紀ごろ、大陸から伝えられた新技術でつくられた。成形にロクロを使い登り窯で千度以上の還元焔によって焼成されたといわれる。 海岸(汐ケ鼻)の東南の小山に横穴式古墳があった。古くは五基あったといわれるが破壊されている。 一箇所は竹やぶの中にあり、付近に大きな石の露出がみられる。もう一つは畑のすみに石が積み重ねられている。この大きさの石は、片島 で調達できたと思われる。 古墳から金環が二個出土したのは注目に価する。一つは笠岡郷土史館に保存されている。径が三センチ弱だから、耳飾りだろう。ただ金の残 存部分がわずかである。もう一つは金が三割ほど残っていたという。(中略)この古墳は六〜七世紀、後期古墳時代の築造とみられている。』 同誌を書いた広沢澄夫氏の説を借ればこの片島へ人が住みつくのは江戸時代になってから、17世紀の水野藩統治以降のようだ。 神島の中村の住人が渡海して永住、子孫を増やして八幡神社を勧請したと書かれている。 かの有名な縄文遺跡がある津雲貝塚からさほど離れていない片島にも数千年前から縄文人たちが住み着き、古墳時代に至まで痕跡を残して いることを考えると、 1-古代人たちは航海術にたけていた。 彼等の移動は陸上ではなく、海路の移動が主流であった。 あたりまえのことではあるが、われわれの想像を超えて船構造も堪航性があり、海流を読み天測に長けた航海術・土地勘などはるかに 優れた人々であったと想像できる。 2−長期間の居住はその場所が安全である証しであり、天災や外敵から守られていたことを示す。 3−水野時代に神島本島からの移住者たちは八幡神社と妙見宮を勧請した。 人が動くと彼等が信仰する神々も移動する。いろんな場所にいろんな祈りの場が残るのはそこに居住した人々の歴史であり記憶である。 片島の八幡神社については別項で考察しよう。 (2011/01/07 記) ☆笠岡諸島訪問記 神島めぐり ⇒ ClickHere 片島八幡神社 六島(廻り神輿の祭礼見物) ⇒ ClickHere 白石島(島内見学、白石港に上陸)⇒ ClickHere 位置図: 笠岡市神島内浦片島アバマ |