青島山自性院の御住職を訪ね陶山氏のルーツを聞く
 
陶山氏の出自は奈良葛城、第10世陶山盛高は天仁元年(1102)笠岡を拝領す
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2010/10/20 陶山氏末裔の方々と「自性院」を訪問
訪問記<四国の御寺より毎月20日に当寺に出張って先祖供養講話を開が開かれる>
 陶山の末裔になる三人の方は第41世陶山安吾治氏の二男、富太郎-新吾と続く末裔となり、当世数えて44〜45代となる勘定だ。
同行したわれわれは郷土史愛好会の面々、この日は陶山氏をテーマに野外実習で自性院〜観音庵〜寺間墓地を歩く計画だ。
月に一度、神島自性院の勤務が月例行事となっているご住職はアポイント時刻、09:45時にわれわれを心よく迎えてくださった。
陶山家の皆さんが来られているとのことなので、本堂瑠璃光殿で陶山家の祖霊に対し読経してくださり、われわれも列に加わった。(写真右上)
ついでに別室の居間に移り、そこで寺宝の「陶山家系図」を見せていただいた。(写真真上)
永正三年(1506)第27世陶山高雅は笠岡山城を明け渡し、当時寺間にあった当寺に逃れ寓居中、家臣熊谷八郎左衛門に命じ陶山家の系図を
模写して自性院に納めたものである。時に永正三丙寅八月三日、今からざっと、504年前のことになる。
御住職が机の上に拡げて見せてくれた巻物は紙の劣化もなくレプリカであろう。
 読経する経典には九種類の音符記号があって漢字を音読するだけでは発声できない抑揚とか音韻とかを含めた読経のリズムがある。
この修行は時間をかけて先達から体得するもので、座学のみでは習得できない行である、、、など梵字と経典などいろんな法話を聞かせて
いたいた。その後、境内を見学して寺を辞し、寺間の墓所を訪ねて歩いた。(写真右下)⇒ ClickHere
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『陶山氏系譜
人皇五十代 桓武天皇 諱山部 號柏原帝 母、大皇大后高野夫贈正一位乙継女
天平九年九月御降誕 (天平)寶字八年十月従五位下大学頭侍従
寶亀元年十一月四品為親王 同二年三月中務郷 同四年正月十四日立太子
天應二年四月受禅 同廿五即位 十一月大嘗會 治世二十四年 延暦廿五年三月
十七崩御 壽七十 葬山城國柏原陵。。。。。。。。<以下省略> 』
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その後、自性院で供養している位牌が一基。(写真右中央)
この位牌は第20世陶山藤三義高と室輝代姫を祀るもので、左端の金色に着色された面が正面で、右端の黒色が裏側である。
梵字の意味は「阿」で、これは、大日如来を表す。

(正面) 観光院殿義公翠山禮敬大居士        明源院殿輝代姫孝全忠精禅大姉
(裏面) 正慶二癸酉歳二月廿三日卒 陶山義高公  延元元丙子歳九月廿五日卒 同室輝代姫
(台座) 寄嶋 陶山三郎正再建之

陶山三郎氏が再建されたことが判る。当寺に残る位牌はこの位牌のみでる。
位牌は中国からの伝来とされ、我が国へは鎌倉時代に入ってきて江戸時代に定着したという。
藤三義高の妻、輝代姫は夫の死後に尼となって自性院に入りて修行、後に自ら陶山山長福寺を建立している。当初の位牌を造ったのは
彼女であろうか? 輝代姫開基の長福寺跡 ⇒ ClickHere

☆ 陶山三郎正について
 大島郷土史家の住吉清氏著、「大島人物史」(昭和26年4月刊行)に次ぎの記事が載っている。
『陶山三郎(劔士)
大島中湯舟の人陶山文右衛門の二男にして其の先は陶山義高に出ずという。天保二年(1831)五月十五日生る。諱は正高、幼名民三郎、
三郎はその通称なり。幼にして気節あり明治十二年三月東大島片本浜に移りて製塩を業とせしが既にして志を立て備前の剣士大賀光忠
に就きて剣技神道無彊流を学び其の奥技を極む。
慶応元年(1865)気節隊に加わり明治元年幕府征討の軍に従いて功あり。帰国の後道場を開き盛んに子弟を教授し明治十五年練武場を
築き県下稀有たり。明治十八年七月明治天皇岡山に行幸あり、県下知名の剣客三十八人を後楽園に召し其の技を天覧さる。翁其の選に
挙げられ巧妙練達神技を演ず、威名愈々盛にして門弟附近数ヶ国に亘り其の数五百人に及べり。
翁又寄島村会議員となりて村政に参与して頗る功あり。公共の為金品を義捐せしこと?々(いよいよ)にして官之を賞する一再ならず。
明治三十七年十一月十三日年七十四を以て没し片本山に葬る。子なく兄安五次の男三郎二を養いて嗣となす。』
※二階の陶山墓所の隣地に小祀あり。三神を祀る石柱に祭主として三郎銘あり。→陶山一族の墓所 ⇒  ClickHere

<陶山氏の出自について> 
 御住職から話を伺った自性院に伝わる陶山氏のルーツ。
陶山氏は桓武天皇を祖とする平家一門の武士集団であり、その祖先たちは奈良葛城郷の當麻寺(たいまでら)の近隣に定住していた。
平安時代の末期、出雲地方に戦があるというので一族郎党、そこで功名をあげようと郷をでて出雲へ下った。出雲の戦いでは陶山一族
が組みした方が勝利をおさめ、その恩賞として一族は笠岡に領地をもらった。葛城に帰郷したもののそこは他の部族が入ってきていたの
で、一族は笠岡へと移住したという。この話を聞きながら、次ぎのような連想が浮かんだ次第。
 
 1−裏付けとなる資料 
   陶山氏系図の第10世陶山和泉守盛の下記の事蹟と見合っている。
  「康和2年(1100)源上対馬守義親の九州謀叛を追捕し生け捕り隠岐へ流す。出雲に逃亡後嘉承2(1107)平正盛追討の先鋒として
   発向す。義親と数度交戦し天仁元年(1108)2月遂に義親の首を斬り帰洛す。恩賞として備中小田郡の内魚?西濱甲怒三千貫の
   采地を加え賜り之により盛高居城和泉国より備中国の所領を懸持にす。」

 2−裏付けとなる地名と神社
   奈良葛城郷といえば、一言主命を祀る「葛城神社」である。
   ここ笠岡にも「葛城神社」があって一言主命を祀っている。その場所は大河、金浦湾は大河まで湾入し平安時代には水際線が深く
   入り込んでいたことだろう。 <市域内 大河の「葛城神社」> ⇒ ClickHere
   また、「当麻」という地名が大河と金浦に残っている。 
   金浦の小字「当摩」は金浦西北部の水際線上、大河にちかい位置である。「笠岡市史」地名編によると『元禄検地帳』では「たいま」
   と読まれていた。
   笠岡史談会1号「郷里制下の笠岡」by名和潤氏によると、『金浦の当摩(小字)、山口の当麻村(江戸期)のタエマは古い地名で、タ
   ギタギシイ低湿地なのである』とあるが、北海道・会津など北部の地名の語源はアイヌ語の「湖・沼」が「入る・ある」と言った意味で、
   奈良をふくめた当地までアイヌ語がこの時代に流布していたとは思えない。

 3−大河の当摩と中当摩
   地図を見ると旧大河と旧金浦の村域境界には吉浜が割り込んでいる。昔は海だった領域である。
   大河の葛城神社の南に当摩と中当摩の小字を発見!(「笠岡市史」地名編)

 4−陶山姓の全国分布
   写録宝夢巣Ver.2007版で全国陶山姓の分布を調べると、総数1,696件のうち島根県が全国1位の230人、2位福岡150人、3位神奈川
   と続く。島根県下の市町村別にはもっとも多い地域は141人を有する雲南市、次点で松江市の30人となっている。陶山姓が島根県に
   集中しているのと国外最初の軍功の地が島根県だったということなのか、、、、、ちなみに陶山姓分布で岡山県は72人、うち総社と岡
   山市で各20人、笠岡近隣は寄島4人、鴨方・里庄・笠岡に各1名となっている。

 以上の神社と地名、陶山姓分布は平安時代の末期に葛城郷から移入してきた部族の陶山氏とともに場所ワープした名残かもしれない。


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                                                    位置図: 笠岡市神島東村
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