笠岡市走出「折敷山城」
 矢掛道と西浜往還道の交叉部の笠岡北方の砦
訪問DATE: 2009 04 05 

「折敷山城阯」(おしきやまじょうあと)北△60m南△87m
 『備中府志』によると、この城は天文年間(1532-55)有岡
氏が拠った居城で城主は有岡新之丞としている。
創建の年代は不明だが、この山の別名は「有江山」とも
「有岡山」とも言われるところから、有岡氏の長期在城を
伺わせる。「中国兵乱記」には龍の口合戦時の馬鞍山
城主小田一門下の武将の名に有岡右京の名が見える。
時代が下って天正年間(1573-92)には毛利軍が小田に
進み折敷山城・龍山城に陣を敷いた。前述の有岡右京も
当時この城に在ったと思れる。天正10年(1582)の高松
の役に毛利元就が猿懸城に、その侍臣を折敷山・岩屋
城の城塁はすべて毛利勢で固められていた。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、当地は御代官所
となり、同8年(1603)より楢村監物が居城した。
楢村監物は宇喜多秀家の家臣で名筆をもって鳴らした人
物。秀家がしばしば注進状を書かせたという。
上図にあるように遺構は本丸・出丸・堀切があり、西端に
は人頭大の礫による石垣が見られる。本丸は東西100mX
南北50m、一部貯水槽が建設されているが相対的に削平
面をとどめている。またこの辺りの地名は「要害」という。
南東部には「弓場」と「的場」と称する平場がある。
(『日本城郭大系13』岡山県より引用)

2009/05/13 Created
  折敷山城の地図を頼りに笠岡から北上し走り出にいった。古くはこのあたり一帯が甲弩郷という地名で呼ばれていた時代には
 小田川に臨み肥沃な平野を見渡す立地にあった。古代スポーツ公園の古墳群の首長たちの居館がこの辺りにあったといっても
 不思議ではない。その理由はこの決して高くもない丘陵から東西に広がる視野には旧山陽道がすっぽりと収まるからだ
 思い描くのは、陶山一族の笠岡への第一歩。
 『第10世陶山和泉守盛高 母ハ右衛門尉平正衡女
 康和元年(1099)将軍源義家の長子義親謀反を企て、盛高は因幡守平正盛の先鋒として討伐にあたる。天仁2年(1109)義親を
 討ち取り、恩賞として備中国小田郡の内魚緒・西濱・甲弩・および三千貫を賜う。これにより盛高の居城和泉國より備中国所領を
 懸持す。』 陶山一族の祖が笠岡に入ってきたのは平安時代、白河上皇の院政の頃である。所領には甲弩が見える。魚緒は笠岡
 と金浦で 西濱とあるのは神島以下の笠岡諸島のことではないだろうか。
 仮定のハナシとして、有岡氏からおよそ400年前、平安の頃に居城した城主は陶山一族ではなかったかと思っている。

 また、「弓場」には「弓場山古墳」(ゆんばやま)が昭和43年に発見された。現地説明書きによると直径10mの円墳で築造年代は
 発掘品から5世紀前半。幸運にも未盗屈墳墓で箱式石棺のなかに発見された被埋葬者は青年男子、副葬品は鎌・斧・鍬先が各
 一点と刀が2口。発掘品の材質は書かれていないが、5世紀であれば輸入された鉄製であろうか?
 『笠岡市史』によるとすべての出土品は鉄製で刀は52cmもある。
 成立から推定するとすぐ隣にある長福寺裏古墳群よりもさらに時代が古いという。

 更に同誌掲載の「尾鋪山城主有岡新之丞」についての記述は以下のとおり。
 『走出城主有岡新之丞は、東南の馬鞍山城主小田政清と、西北の高越城主伊勢盛勝・同高晴父子の両勢力に脅かされてい
  ために、遂に心労が高じて城を捨てて出奔してしまった。永禄九年[1566]のことで、小田政清は労せずして走出を手に入れ
  走出の尾鋪山(折敷山ともいう)に住んで隠居し、隆清に代を譲った。(出典:小田物語・小田岩屋城の項)』
 

位置図:笠岡市走出字要害

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走出浄瑠璃山より折鋪山を眺望