備中国小田郡北川村(笠岡最北端)


いにしえの条理制が残る小田川流域の田園風景

地名考

 北川村沿革: 笠明治21年(1888)四月、市制町村制が公布され、一年後の明治22年(1889)4月1日より全国的規模で実施となった。
この統合により笠岡市域もあった39村は合併し15か村になり、甲弩村と走出村は二村とも北側に小田川が流れている立地から北川村として統合された。
甲弩村と走出村は古来より共に小田川流域の豊かな土壌に恵まれ農耕に適した土地の恩恵を受けて発展した経過をたどり、室町~戦国時代には小田氏の領土となり、その後江戸時代には徳川幕府の天領となったが、さらに一橋領への組替えとなった。
このため海に面し商人町として発展してきた笠岡とは若干ちがった歴史の軌跡をたどり、どちらかといえば内陸的な小田川文化(小田・矢掛町・井原)の郷といえるかもしれない。
北川村が笠岡市に統合・合併されたのは昭和35年4月1日、笠岡市が市制を敷いた昭和27年から数えて8年後、現在の市域が確定した最後の編入だった。
平成20年4月1日現在の人口は2,336人。

景色考

 浄瑠璃山持宝院:(走出)

 平安時代前期の天長六年(829)、壹演(または一圓)和尚が開基。今も当時の布目瓦が境内から出土し、往古を偲ばせる。
壱演和尚は備中国司大中臣治知麿の子で『元亨釈書』にその伝がある。平安・鎌倉・室町時代には「薬王寺延福寺」(または圓福寺)という寺名で、南北朝時代、正平6年(1351)11月には当山が「延福寺山合戦」と呼ばれる戦場となり、痛手を被ったが、室町時代には再び栄えこの寺を中心に一山十二坊を構え、現在よりさらに広大な土地を持ち隆盛を極めていた。
この中世12坊は近世末期まで続いた西林坊自性院を含む11坊は廃絶し、碇光坊(現在の明王院)のみが残った。高野山真言宗、本尊は薬師如来。
(残る10坊の名は金蔵院・奥坊・中之坊・法林坊・西寺・畦之坊・金剛坊・遍照坊・中台坊・圓福寺)

 しかし、江戸時代初期になると、この延福寺は荒廃・廃絶したらしい。その後、後月郡上出部村(しつきぐんかみいずえむら:現・井原市)にあった持宝院が、寺を再興するにあたり、水害のある上出部の地から出て、山上にあり本尊がともに薬師如来で薬王寺と称する延福寺の跡へと移転してきた。こうして、延福寺跡は持宝院の境内となって今日に至っている。
 寛文十二年(1672)に中興され、江戸中期の享保年間(1716-36)に現在の寺基が整った。以来、この地方の中本寺(備中七本寺の一つ)として、四十五の末寺の僧侶育成修行の寺院として、昭和初期まで備中路における重要な寺院としてその法統を受け継いできた。特に、鎌倉期作といわれる本尊・薬師如来は、中国地方における三薬師の一つに数えられ霊験あらたかで、旧山陽道街道筋にあったことから、備中・備後地方の篤い信仰を集め、現在に至っている。この寺の門前駅として、大正二年に開業した井笠鉄道(昭和46年に廃業)には「薬師」駅が設けられていた。「走出のお薬師さん」は古来より病気、特に眼病におかげがあるとしてを信仰する人が多く、地元備中近隣のみならず四国・近畿からのも足を運んだと伝えられる。

ところで、同院がこうした歴史と伝統を秘めていることを証明するのが同院所蔵の宝物である。
薬師本堂、大師堂、客殿・庫裡は明治から昭和初期にかけての建造だが、鐘楼堂は享保十八年(1733)、仏殿は享保年間の建造である。
 梵鐘と両界曼茶羅図は共に県の重文で、聖観音菩薩像図と弘法大師像図・高野山四社明神像図は市の重文の指定を受けており、同院の寺宝のみならず、貴重な文化財としても保存されている。
「絹本著色両界曼荼羅図」2幅は応永34年(1427)に備中都宇(つう)郡矢部村日差山観音寺から当院(圓福寺)へもたらされた。県下最古、鎌倉時代の作。
「絹本著色十二天像図」 木版による12天像(インド神話からくる密教の守護神で灌頂会(かんじょうえ:密教儀式)に用いられた。(東の帝釈天・東南の火天・南の焔魔天・西南の羅刹天・西の水天・西北の風天・北の毘沙門天・東北の伊舎那天・上の梵天・地の地天・および日天と月天)室町初期の作品。
 
また、梵鐘は総高百二十センチ、口径七十一・六センチ、重量三百七十五キロで、建長三年(1251)鋳造の青銅製。県下では現存最古の梵鐘である。
銘文によると鎌倉時代に肥前三郎藤原資泰(すけやす:那須与一の子孫で、後月郡荏原庄を領有していたといわれる。)が井原市野上町にあった「頂見寺」(いたみでら)に寄進するために造られたもの。
戦国時代になり成羽の三村氏と矢掛猿掛城主の庄氏が頂見で合戦となり、庄氏が自分の居城である猿掛山に持ち帰えり陣鐘として使っていた。ところが宇喜多直家に攻められて猿掛城は落城しこの梵鐘は山上から小田川に転がり落ちた。その後、地元民が所有していると聞いた走出の領主小田乗清が買い取りのうえ永禄12年(1569)延福寺に寄進したという銘文も鋳込まれている。(この落城・落下の痕として64個のうち52個が欠損し12個の乳しか残ってないと言われる)

同院の詳しい歴史と文化財について知るには「持宝院の歴史と文化財」の書がある。
市指定の「天然記念物」ヤマモモ:樹齢300年といわれる巨木。幹の周囲2.8m 根元周囲6m 高さ11m

☆心木についての詳細記事
  十二角は十二天供を意味しています。十二天とは、世界や全ての生き物をまもる護世天の12尊のことです。 持宝院の宝物に「十二天像図」があります。
 「十二角形 の心木」です。「供養十二大威徳天報恩品」の正式作法によるものです。       LinkClick → Here!


 
長尾山来迎院神護寺:(甲弩)

 真言宗大覚寺派、本尊は阿弥陀如来。もとは神宮寺と呼ばれ甲弩神社の別棟寺として創建された。
開基は行基と伝えられるが年代は明らかでない。古くは大坊、中坊、般若坊、正円坊、長福坊、上学坊の六坊を有する大寺であった。
このうち長福坊は山口に移り、現在の長福寺となり大坊がが現在の神護寺となった。現存する本堂は市内最古の木造建築、県指定重要文化財。

 室町時代にはこの地方の領主小田氏の帰依を得て栄える。本堂の天井棟木には永禄11年(1568)十月六日に6代目小田高清が大壇那として建立した事を証する墨書(大工藤原乗久)が鮮明に残っていおり、市内最古の建造物として昭和35年に市の文化財に指定された。寺内には天正15年の瓦葺きのとき用いたと思える古瓦四枚が残されており、いずれも天正十四年二月に宮内(吉備津神社門前町)の瓦大工五郎左衛門が焼いたと思える銘がある。また、天正3年(1575)8月18日死去した小田高清の位牌が祀られている。戒名は孚臺院殿良玄秀郭居士。
 この墨書棟木に附された棟札(木札)が2枚あり、一枚目は天正15年(1587)10月15日再建のとき小田高生清の子元家らが甲弩村の村中を施主として屋根替えを行ったことを記録している。この時期に瓦葺きに改めたと考えられている。二枚目の棟札は文化3年(1806)4月の屋根葺き替えの記録で本殿向拝は江戸後期の様式であるため、この時期につくられたのかもしれない。

彫刻「不動明王坐像」:像高84.4cm 室町時代の作
 不動明王は大日如来の使者として、如来の教えに背く衆生の悪をくじき教化し、同時に密教の修行者を守るために現れる憤怒の形相の仏。
彫刻「神像 2体」: 一体は檜材の一本造りの僧形、あとの一体は檜材寄せ木造り、ともに鎌倉時代の作。



☆北川地区サイト内リンク  
 訪問毎にサイトを更新、最終更新日:2012/03/04

No 訪問日付 Title 説   明 詳   細 場所
01 2009/04/05 折敷山城をさがす 標高65m、別名有江城・有岡城、天文年間、有岡新之丞が在城 永禄9年(1566)新之丞 城を棄て出奔す 走出
02 2009/03/13 甲弩神社に訪問 奈良時代・神護景雲元年(767)9月の創建、吉備津彦を祀る社 千田地区より境内へ五角地神碑移転 甲弩
03 2010/01/05 武宮神社を訪問 甲弩神社と同じ時期に創建と伝えら祭神は建速須佐之男命他 鳥居扁額には「尺宮」(たけみや)とあり 甲弩
04 2010/12/20 北川柱五角地神 北川の昔を訪ねる会のHさんから教えていただき五基を探す 創建の時期は江戸期天保・弘化・嘉永 北川
05 2011/01/20 井立のネズの木 樹齢300年の巨木、井立池畔北西に立っている。才之神碑有 2010/12/05訪問、駐車スペースあり 北川
06 2012/03/04  岡田の椋樹(むく)  昭和43年[1968]市指定天然記念物、樹齢推定400年[1568]  永禄年間の発芽の計算、市域最古木?  甲弩
07  2012/03/04  五神名地神碑2  前回探索中断の小倉公会堂碑と岡田橋南詰碑の二基を見た  岡田在住の地元Mさんの案内を頂いた  走出 

 


No. 表題 Title   内容 Contents
001 2008/09/24(Wednesday) 神護寺拝観ツアー  画像みる    ↓
    
 
 当日のツアー参加者は44名。岡山県主催の県西部文化講座のファイナル・ステージに鴨方・矢掛・井原・里庄とサーキットした後、最後に登場。
コースはここ甲弩にある「神護寺」の市内最古の木造建築である本殿を拝観し、そのあと走出の「持宝院」で由緒ある梵鐘と悲眼院を見学。
ご当地は初めてであり、どんな所かわくわくしながらバスから景色を楽しんだ。
甲弩は小田川と尾坂川に囲まれて笠岡らしからぬ水源豊富な立地にあって古来より米づくりに適した環境だ。
この写真でもわかるように道路が一直線に伸びているのが電線の敷設から見てとれる。これだけ土地配分が方形で区切られた地域は他に例がない。いつの時代かに為政者たちが机の絵をみながら線引きをしたのであろう。ちょうどアフリカ大陸の国境線が一直線で区切られているように。

002  長尾山来迎院神護寺の山門石段から神戸山城を眺望  画像みる    ↓

 笠岡が徳川幕府の天領となる前の時代、室町から戦国の頃にこの地に領主として君臨した豪族が小田氏である。
毛利元就が西進する前、小田家は七代に亘ってこの地を領有した。
この地域の社寺に対しては手厚く遇し、同時に戦国時代の豪族として小高い山々には山城をつくって外敵に対峙した模様。
城壁も城郭も残っていない中世の城趾はよく聞くが、まだ小田一族の築城城趾には訪れていないので、是非訪ねたく思う。
この写真で正面にみえる三嶺はすべて小田一族のお城跡だという。
左から、折敷山城(おしきやま)、岩屋山城、神戸山城(こうどさん)

☆小田5代目政清と折敷山城 笠岡市史より

 走出城主有岡新之丞は、東南の馬鞍山城主小田政清と西北の高越城主伊勢盛勝・同高晴父子の両勢力に脅かされていた。
ために遂には心労が高じて城を棄てて出奔してしまった。永禄9年(1566)のことで、小田政清は労せずに走出を手に入れ、走出の
折敷山城に住んで隠居し、隆清に代を譲った。

☆「有田氏消息」by 立石定夫著『神辺城と藤井皓玄』
 
 「(有岡氏)
 小田郡にあった土豪であるが、その出自は讃岐国多度郡有岡村より起こったという。『備中府志』に 尾鋪山城 走出村城主、
 天文弘治頃、有岡新之丞。此山を有江山、有岡山共いふ。永禄九年より小田政清領。文禄四年より毛利家蔵入。慶長三年よりは
 毛利元康。(後略)
 政所山城 新賀村 当城主、有岡右京、走出村城主有岡新之丞舎弟也。此城は笠岡の村上と小田と戦の時、築けるとなん。
 (後略) といい、『備中集成志』も又同旨の事を載せている。

 尾鋪山城は折敷山城とも云い、北川村大字走出(笠岡市) にある標高五十メートルの丘陵である。有岡新之丞は永禄九年
 (1566)出奔し、爾来小田政清、同小次郎高清(又六乗清とも云)、同孫兵衛元家まで三代二十九年(『小田物語』)とあり、
 始め有岡新之丞の領地であったが、小田政清に追われて退去したという。後に走出を領した小田乗清は分家(本家は兄高清、
 天正三年没) の主で、永禄十一年十月の神護寺の棟札に名を留めている (笠岡市史第二巻)という。」

☆2009/04/05 折敷山城をさがす → ClickHere

 地図上での確認では弓場山古墳とおなじ山にあるとのことで、北川小学校を目標に車で出かけた。
 弓場山古墳を見て、近くの家の方に道を尋ねると昔は山上にまで上れたが、最近は上がっていないのでどうだろう、とのこと。
 山へ登る入り口の道順だけを聞いて近くまで行ってはみたが畑のそばにあるはずの道は草にまぎれて喪失していた。
 他人の畑に無断で立ち入る負い目もあって断念。山の高さは70mほどなので頂上は見えていたが雑木で山の稜線は不見。


003
 走出の名刹「浄瑠璃山持宝院」の本堂 画像みる    ↓

 広い境内である。

 この本堂は明治28年に再建された。
再建に際して、矢掛町の賭博師「樋口種吉」氏が金子五百円と本堂の主柱材を34本寄進し、この再建に必要な財源確保の先鞭となった。
また戦前までは祭礼で「心木」(しんぼく)を奪い合う儀式があったが、刃物を隠し持った信者が物議をかもし警察から中止勧告がでたという。
(この項、2008/09/24 笠岡市教育委員会学芸員の説明講話より聞き取りより)

☆ 非眼院開院

大正三(1914)年、無料で治療する施療院・悲眼院が開院した。走出薬師の大師堂を診察室、薬局にし、離れ座敷を病室にした。
代表者になった高橋慈本と渡辺元一院長は院是を決めた。

一、治療は医術と信仰の併進を基調とする

二、不浄の寄付勧募はなさず、浄財の寄付金のみを受くる

三、患者よりは人格上の意味において任意の寄付金は受くるも、その他は徴収せず

四、関係者は病院によって生活せざること

 人間尊重、医の倫理、奉仕の心を掲げ、実践した。一年目、眼科だけで一万二千人の患者を一人でみた。その後、
内科、外科、産科と拡大、医師も患者も増えた。

 渡辺の日課は午前四時起床、六時まで写経、六~八時自宅診察、十~十一時町内往診、十一~午後三時悲眼院診察、
三~六時町外往診、六時より紡績医務局、八~十時各種救済事業。

 写経で心を洗い、一日六時間貧しい人々のため奉仕の診察をし、時間があけば読書した。

 十年間、悲眼院院長として貧しい人のため、走り続け、五十七歳で亡くなった。悲眼院無得居士。

 米騒動、不況、地主と小作の対立など貧乏が大きな社会問題だった大正時代に「公共慈善ヲ以テ唯一ノ楽シミトスル」名医だった。

 孫の渡辺登さんは「偉ぶらず、医は仁なりを生き方で示した信仰の人でした」と話す。悲眼院は児童福祉施設となり存続している。

2012/03/04更新 08/09/24