(資料出処:「井原市史史料編」)
二度の戦禍をくぐりぬけた走出の「持宝院」梵鐘
 県下最古の銘文あり(重文指定s34年3月24日)。建長三辛亥[1251]二月二十二日
訪問DATE: 2013 11 21 
 
  この梵鐘は文治元年(1185)源平屋島合戦の扇の的で名を馳せた那須与一が拝領した所領荏原郷野上(井原市東部)の地にあった。頂見寺は聖武天皇の勧請により天平九年[735]行基菩薩の開基による七堂伽藍七十二房を有する大寺であった。その後、建長年間[1249-55]に那須一族の後裔、備中荏原荘の地頭肥前三郎資泰によって再建され、梵鐘もこの時に寄進された。
その後、天文二十年[1551]頃にこの一帯は成羽三村氏と猿掛城主荘氏との衝突により戦場となった。寺は焼けたが梵鐘は庄氏が猿掛城へ持ち帰った。さらに永禄十一年[1567]に猿掛城は備前より進攻した宇喜多直家によって落城する。この戦禍で梵鐘は猿掛城から小田川の渕に転がり落ちて沈んでしまったという。
その翌年、永禄十二年[1568]小田川の近くの農民が泥の中から拾い出した梵鐘を尾鋪山城主であった小田又六乗清がこれを買い求め、自領の浄瑠璃山延福寺(後荒廃し木之子村より持宝院が転入)に寄進した。上文に干時永禄十二年仲冬念と刻まれており、旧暦十一月のことである。

                                                  (資料出処:s50.3.15「笠岡湾物語」山陽新聞)
                                                          (2013/11/23 記)


<持宝院の現在の鐘樓>
 現在の北川の真言宗「浄瑠璃山持
宝院」は平安・鎌倉・室町時代には「
薬王寺延福寺」を中心に一山十二坊
を数え、隆盛を極めと伝えられる。し
かしこの延福寺は江戸初期に廃絶、
その趾へ寛文十二年(1672)に木之子
村より「持宝院」が移転してきた。本
尊は薬師如来、鎌倉期作といわれるこ
の仏像は中国地方における三薬師の
一つに数えられ「走出の薬師さん」とし
て古来より病気、殊に眼病に霊験があ
るとして備中・備後方面に広く信仰を
集めた。

位置図: 笠岡市北川37

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