| 北川地区の五角柱型地神婢 (現在4基を確認) 井立川の「地神橋」のたもとに立つ地神碑 訪問:2010/12/20 |
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| 正面の神名「軻遇突知命」、鍛冶関係者による祭祀説? | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 下井立地神橋北角(写真上) @この碑に刻まれた五神名は、軻遇突知命(かぐつちのみこと)・金山彦命(かなやまひこのみこと)・埴安姫命(はにやすひめのみこと)・ 罔象女命(みつはのめのみこと)・勺々乃馳命(くくのちのみこと)。 通常は天照大神(五穀の祖神)の位置とされる北面に軻遇突知命が祀られている。北川地区の「昔を訪ねる会」による調査報告書によると この碑は鉄つくりの職人との関係があるのだという。 しかしながら五神名は別にして、この碑を五角柱地神碑として見れば立地的には農耕神に稲作の豊穣を祈るための最適地に立てられている のが容易に見てとれる。まず、水田の中央部にぽつんとあること。そして、水源である井立川の北岸土手にあって往来の辻にあたること。 元位置からはずれて神社の境内などに移設されている碑もあって現在の位置が元位置とも限らないが、この碑の位置は農業生産者が祈り を捧げるには最も適した場所にあると思う。鉄つくりの職人を鍛冶と呼ぶが、北川地区には鉄工房の遺跡が発見されていることと、神名に金山 彦命や軻遇突知命が彫られていることからの関連づけであろう。 わたし的には祭祀する人々が、火事とかの災害に遭いその火防の願いで碑を立てたという理由のほうが鍛冶集団説よりは魅力を感じる。 あるいは主神の天照大神抜きで軻遇突知命以下を撰んだのはこの碑が北川の他地区よりも遅れて立てた改良版かもしれない。 これら新顔の神々は伊邪那美命から生まれた神々ではあるが神格からすれば決して高位にあるとは思えないのである。 村に他地区とは違った視点の有識者がいたのであろう。一般人には知名度もなく、かつ読めない難解な漢字を好む御仁であったと思われる。 幕末から明治にかけて、当時そんなイメージをもつ有識者といえば寺のご住職ではなかろうか。 本来は神名を扱うのは神職の範疇であるが、この碑に刻まれた各面の梵字を見てなんとなく僧職を思い浮かべた次第。 その他の碑(写真右上より) 天保〜弘化〜嘉永の時代 A阿部山東麓、甲弩山手の山手公会堂東の道路脇に立つ。神名は天照大神・大己貴命・少彦名命・蒼稲魂命・埴安媛命。 五角の基壇あり、記年号あり。嘉永四年(1851)と刻まれている。写真にあるようにこの場所には他にも石仏や自然石碑が集積している。 B水田に囲まれた小田川の西、甲弩辻・共栄橋手前道路脇。神明は天照大神・大己貴命・少彦名命・蒼稲魂命・罔象女命(みつはのめの みこと)。記年号は天保十二年(1841)、北川地区では最も旧い碑である。また石夜灯と隣合っているのが特長。(自然石地神碑+石夜灯が セットとなっている地域もある。) 埴安媛命と入れ替わりに書かれている罔象女命とは、 古事記には弥都波能売神(みつはのめのひめ:貴船の神)と書かれている。伊邪那美命が火の神迦具土命を生まれたとき、陰所を焼き苦 しみ給うた折に尿をした、その尿より化生した神という。「みずは」とは走り水の意で、耕地の灌漑に使う引き水の表現である。この神は日本書 紀に水神と記されており、水を司る神である。埴安媛命は土の神だ。 C井出池北詰、道路脇。 神名は天照大神・大己貴命・少彦名命・蒼稲魂命・埴安媛命と定番の並びである。記年号は弘化四年(1847)、 道路のガードレールに押しつぶされた型で上3分の1が折れて番線で修復されているのが痛々しい。元位置は池土手に立っていたのであろうか。 井原〜笠岡の近隣地域にある五角形の「地神様」(実地確認済のみ掲載) h22/10/31現 笠岡では通算で8例目、井原を含めると9例目
この奇妙な形の石造碑に最初に気付いたのは笠岡大″ッ神社境内の地神碑だった。五角形=五穀豊穣という図式から天照大神と大己貴命が 他の神々たちが祭神に祀られているとのことであるが、役小角を祖とする修験道者たちがこの碑を建てる推進者であったという説もあるようだ。 地域によっては修験道霊場が近くにある場所もあり、神社境内もあり、路傍の碑として建つ碑もある。目的は五穀豊穣祈願と明確だが誰が何時、 建立したのか?という時代背景もはっきりとは解っていないようだ。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 2010/11/26 吉浜地区で更なる発見!(金浦歴史研究会Kさんからの情報による) 笠岡では通算で10例目、井原を含めると11例目 吉浜という狭い範囲で次々と五角柱地神があったのは驚きである。 平素は気付かずに通り過ぎていた道路にポツンと建つ御姿は神々しい。天照大神が南面するとも限らないようで、吉浜の地神さまの共通点はすべ て田圃を見渡す位置の水路の脇に建っている。(陰陽道では北が大地となる関係で、正面の天照大神が北向だが、その後の移動もあるだろう) 岡山県下で五角柱形地神の建立記年の最古とされるのが現吉備中央町(旧加茂川町)の天明七年(1787)なので、この吉浜地区は県下最西域と なることから、この年号よりは新しい時代に建立されたと思われる。 中国を起源として江戸時代後期に県下西南部の農村部に広がった信仰で、春秋の社(しゃ)日(にち)に土地の神を祭ると五穀豊饒のみならず 天下泰平、家内繁盛、子孫長久、無病息災などが得られるという。 ⇒ CとDの位置図 ClickHere 位置図: 笠岡市北川下井立地神橋北詰 |