西門から南方の眺望、吉備平野から児島湾がみえる
上図はGoogle Mapより引用

左・下図は薬師寺慎一氏著『吉備の中山と古代吉備』より引用

  奈良時代、律令国家の天皇家の日本にさきがけてこの吉備には吉備王朝の歴史があった(とおもっている)。
この国分寺から東へおよそ30Km、「楯筑遺跡」「吉備の中山」「造山古墳」など、さまざまな古代遺跡が点在する。さらに総社市鬼城山には古代朝鮮式の山城「鬼ノ城」が聳える。はるか2,000年前より先進文化をいち早く取り入れて栄えた吉備王朝がこの地に在った。
時間をかけて歩いてみよう。当面のターゲットはおよそ次ぎのとおりである。 (2009/01/01 現在)
☆2008/12/31

 暮れも押し詰まって、2008年の大晦日の午後に備中国分寺を訪れた。
新年を迎える垂れ幕の飾り付けはあったが、境内には参拝者はなかった。
国分寺(こくぶんじ)は、聖武天皇が741年に国状不安を鎮撫するために各国に国分尼寺(こくぶんにじ、こくぶにじ)とともに建立を命じた寺院である。正式名称は国分寺が金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)、国分尼寺が法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)であり、国府のそばに置かれた。この五重塔は南北朝の戦乱により消失し、その後江戸時代に再建されたもの。
備中国分寺は岡山県総社市上林江崎に在り、本尊は薬師如来、寺院の山号は日照山總持院国分寺という。寺の宗派は真言宗御室派。
 


吉備王朝の探索


  真金吹く吉備の甍に古代が光る~

地名考

 








1-楯筑遺跡 
備中国(びっちゅうのくに)の遺跡で最も年代が古いといわれる古墳。縄文・弥生の遺跡とはちがって埋葬跡があり、副葬品があり
         そして何よりも祭祀跡と見られる環状巨石がある。
         人為的に作られた岩石祭祀施設である。そして、そのご神体は「亀石」と呼ばれる表面全体に帯を巻き付けたような弧状の文様が線彫
         がある。 また、墳墓からは32Kgの辰沙が出土している。 
         参照サイト → http://www10.ocn.ne.jp/~veeten/iwakura/okayama/tatetuki.html
     
☆2010/01/01 訪問記 ⇒ ClickHere

2-矢喰神社 吉備津彦命と鬼神温羅にまつわる伝説の中で吉備の中山に陣取る吉備津彦が射た矢と、 鬼ノ城に居た温羅が投げた岩とが空中で
         かみあい落下したといういわれをもっている。
         この矢喰神社は吉備路のほぼ中央部、血吸川に沿った水田地帯の中に位置し 境内にある大小5個の花崗岩から成るこれらの岩は古く
         からの伝説とあいまって地域の 人々に親しまれている。 参照サイト → http://www.geocities.jp/mizokuti_01/yagui-jinjya.html

3-福田海  牛魂供養の「はなぐり塚」は、陰徳積善を掲げる法人福田海の経営で大正14年の創設。横穴式古墳の前に、馬頭観音の銅像を安置
        して本尊とし、全国のと場から送られてきた牛の鼻ぐりを積み、その数およそ600万。毎月第三日曜日に供養を行い、なお、春秋二季
        に護摩をたいて畜魂祭を営んでいる。 参照サイト → http://www.asahi-net.or.jp/~rn2h-dimr/ohaka2/20tikusan/26cyugoku/hanaguri.html


4-ベンガラの町  江吹屋銅山は大同2年(807年)に発見、開杭されたものと言われています。江戸時代から大正末期まで採掘されており、昭和初
        期以来閉山されていたもので、昭和53年度に「岡山県ふるさと村整備事業」として杭道の一部、延長250mが復元整備されたものです。
        吹屋の銅山としての記録は戦国時代尼子氏と毛利氏の争奪依頼、江戸時代初期一時成羽藩の支配下にあったが大部分の間は幕府
        直轄地で代官の支配下で稼いでいた。
        江戸時代の採掘は手彫りで、鉱区も小範囲であったが、杭内の排水が非常に困難であり水抜坑道を掘りぬいた時期が繁栄していた。
        参照サイト → http://www.geocities.jp/yukatabus/fukiya.htm


5-福岡の市  倉福岡の市は、鎌倉時代福岡庄で開かれていた定期市のひとつだったと推定されています。弘安元(1278)年、一遍が福岡の市で
       説法する様子を描いた「一遍上人絵伝」は、当時の風俗を知るうえでも貴重なものです。
       参照サイト → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B2%A1_(%E7%80%AC%E6%88%B8%E5%86%85%E5%B8%82)


 Paticulars Information View











 吉備津神社(備中国賀陽郡「かやぐん」)
  「延喜式神名帳」(延喜5年~延長5年[905-927])が完成した平安時代の賀陽郡の郡司は賀陽氏で、備中国内で最も大きな勢力を持っていた氏族だと推測される。賀陽郡には式内社が4社あり(古郡神社・野俣神社・鼓神社・吉備津彦神社)これらは賀陽氏の氏神であったと思われる。また、賀陽氏は古代より備中吉備宮の宮司の職にあった。この社伝によると、「加夜臣奈留美命(かやおみなるみのみこと)が吉備津彦命を祀ったのが吉備津宮の起こりであった。」
奈良飛鳥川の上流(明日香村栢ノ森「かやのもり」)には加夜奈留美命神社が鎮座しており、有名な「出雲国国造神賀詞みやつこのかむよむごと」には「加夜奈留美命の御霊を飛鳥の神奈備に坐(ま)せて」という記録も残っている。吉備津宮の本殿には飯山を拝するよう、裏側に扉が取り付けてある。また急なる石段を登って上がる理由はそのご神体である飯山を拝する位置へのこだわりと思われる。なお現在の本殿は室町時代(足利義満)の建築。

<吉備郡真金町宮内(元官幣中社)>
☆『温羅伝説』 吉備成立と地名説話 → Click












 外陣の四隅の神々
 「一品吉備津宮社記」(明治4年正月、倉敷県庁へ提出された文書)の記述では、(東北の隅)艮御崎神社うしとらおんざきじんじゃ 祭神は、温羅命・王丹(温羅の弟)(東南の隅)巽御崎神社たつみおんざきじんじゃ 祭神は、楽々森彦命・留玉臣(西南の隅)坤御崎神社ひつじさる祭神は、櫛振(吉備海部直之祖)・小奇(同、女)・真振(同、男)(西北の隅)乾御崎神社いぬい 祭神は真揖しんゆう(忍海部直之祖)・真縄(同、男)・真艪(同、男)温羅以外のささもり彦・とめたまひめなどは温羅と戦った吉備津彦陣営の人々。

『梁塵秘抄』(平安末期の歌謡集)に「一品聖霊吉備津宮いっぽんしょうりょう、新宮しんぐう、本宮、内宮うちのみや、隼人崎はやとざき、北や南の神客人かみまろうど、丑寅みさきはおそろしや。」
新宮は摂社で祭神は「吉備武彦命きびたけひこのみこと」ヤマト武命がエゾを討ったときの副将軍。本宮も摂社で祭神は吉備津彦の父母、内宮も摂社で祭神は吉備津彦の夫人、北と南の神客人は随臣門に祭られている吉備津彦の家来たち。隼人崎は特定不詳。「by薬師寺慎一氏」。
 









殿吉備国の中心地、総社平野を眼下に見下ろす標高400メートルの鬼城山頂に「鬼ノ城」がある。その概要は、山頂を囲む周囲三キロメートルの城壁、およそ30ヘクタールの城内、丁寧に敷かれた通路の敷石、東西南北4箇所の城門、谷筋に作られた5箇所の水門など、桃太郎伝説の鬼の城として、偶然の山火事の後、民間人の調査が始まったのが昭和46年、本格的な学術調査が始まったのは昭和53年のことである。
<神籠石(こうごいし)>または神籠石式山城(こうごいし)とは古代に築造された山城で、「日本書紀」「続日本紀」に記載がなく、遺構でしか存在の確認できないものを指す。古代山城(朝鮮式山城)の比定地にされることもあるが、築造主体など建設の経緯は一切不明である。
特色は、標高200~400Mの山頂から中腹にかけて数Kmにわたって一辺が70cm位の切石(きりいし=岩を割って作った石)による石積みを配列し、谷を通過するときには水門を設けていること。
鏡山猛は、列石前面の3m間隔で並ぶ掘立柱穴から、唐尺使用の開始する7世紀中頃以降の築造としているが、八木奘三郎は、古墳石室の構築法との比較から、神籠石の築造年代は推古朝(7世紀初)以前としている。北部九州から瀬戸内沿岸にかけて、16箇所が知られる。
神籠石は、当て字で皮籠石、交合石、皇后石などとも書き、「こうご」本来の意味は分かってない。磐座(いわくら)のことだったという説がある。
岡山県下では、2例、この鬼ノ城とあと大迴小迴山城 おおめぐり・こめぐりやまじょう 岡山県岡山市草ヶ部 国指定史跡 である。
区分 サイト名 Contents
総社 ミステリアルゾーン「鬼ノ城」を紹介 全方位のパノラマ写真が美しい。また作者の書いた文章も味わい深いサイトである。 2009/01/05
一般 日本人はるかな旅展 by「国立科学博物館」、氷河期にさかのぼるニッポン人のルーツの探索 2009/01/05
総社 新設・温羅伝説 吉備津彦神社


 

No.  吉備路観光マップ   内容 Contents
001 吉備の国分寺を中心とした遺跡の広がり

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總社宮

総社まちかど郷土館

歴史: 7世紀後半に、吉備国を備前国、備中国、備後国に三分して設けられた。はじめのうち、吉備道に属する一国とされたらしく、
     吉備道中国(きびのみちのなかつくに)と書いた木簡が見つかっている。また平安時代の『和名類聚抄』でも、備中国の和訓を
     「きびのみちのなかつくに」としている。

     古代から開発が進んだ先進地帯で、鉄産地でもあった。造山古墳と作山古墳があることなどから、吉備の最有力豪族の拠点だった
     と推定される。その後も瀬戸内海に面した交通の要を占め、天智天皇の時代に鬼ノ城が築かれた。
     律令制では上国とされた。 管下に都宇、窪屋、浅口、小田、後月、下道、賀夜、英賀、哲多の9郡がおかれた。後に鎌倉時代のころ、
     賀陽郡の一部を割いて上房郡、下道郡の一部を割いて川上郡が置かれ11郡となった。

     平安時代末には、妹尾兼康という武士が出、十二か郷用水を開いて村々を潤した。兼康は中央の政治では平家に忠実な家人として
     活躍し、最後は備中国板倉で源義仲に敗れて死んだ。

     室町時代、備中国は細川氏が代々守護であったが、その影響力は早くから絶対的とは言い難く、守護代、庄氏・石川氏・上野氏や
     三村氏を初めとする有力地頭など国人衆の独立性が強かった。戦国時代中期には、尼子氏・大内氏の係争地となっていたが、1560年頃
     には毛利氏と同盟した三村氏(備中松山城を根拠とした)が備中国の支配をほぼ手中にした。しかし、その三村氏も1575年に織田信長の
     誘いを受けて毛利氏と対立するに至り、毛利氏によって滅ぼされた(備中兵乱)。
     さらに羽柴秀吉を先鋒に織田信長が進出してくると、備中国高松城が織田・毛利両軍の対峙の場になった。
     織田信長の死による講和で、毛利輝元は備中の三郡を譲り、残りを保持することになった。

     江戸時代の備中国は、数多い知行地に分割領有された。元和3年(1617年)まで、幕府は備中国奉行を派遣して広域統治にあたらせた。
     その後の江戸時代初期には隣接の備後福山藩水野氏の領として現在の笠岡市や井原市の大半が領地であったりし、他の備中国の小藩に
     備中松山藩(池田氏、水谷氏を経て板倉氏)、成羽藩(山崎氏)、岡田藩(伊東氏)、足守藩(木下氏)、庭瀬藩(戸川氏、後に板倉氏)、
     浅尾藩(蒔田氏)があった。以上は断絶や転封で様々に変遷した。現在の高梁市にある松山城が備中国唯一の城で、残りは陣屋を構えた。
     松山城下は江戸時代はじめに備中国で最大の人口を抱えた。 

     倉敷は、城下町ではなかったが、徳川氏政権の直轄地として代官所が置かれ、幕府によって備前国から讃岐国に移管された小豆島など
     も統治した。江戸時代を通じて発展を続けた倉敷は、松山と肩を並べ、やがてこれを凌駕して備中最大の都市となって現在に至る。
     現在の倉敷市西部にあたる玉島は、瀬戸内海の流通と結びついた備中松山藩の海港として栄えた。備中では綿作が広まり、江戸時代
     後期になるとその加工も盛んになった。また、製鉄もなお重要であり続けた。

     明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県の直後、備中国には10の県があった。
     同年中に備後国の6郡とあわせて深津県となった。深津県は明治5年(1872年)に小田県と改称し、明治8年(1875年)に岡山県に合併した。

     幕府調査による人口は、文政5年(1822年)が33万7155人であった。
     明治政府の明治5年(1872年)の調査による人口は、39万6880人であった。

002 吉備の中山詳細Map  画像みる    ↓
     


その他
 
  ☆吉備の中山遺跡郡
 「真金吹く吉備の中山おびにせる細谷川の音のさやけさ」
 国境の川 → 北流「細谷川」 南流「境目川」  山嶺の名 → 龍王山・飯山・向山・庚申山・神道山・茶臼山
 古墳群 →  矢籐治山古墳・茶臼山古墳・石舟古墳・鼻ぐり  塚古墳・車山古墳・ギリギリ山古墳 高麗寺・有木の別所の遺跡・成親供養塔下古墳
 古代「神力寺」・「神宮寺」跡  岩山宮→吉備津神社末社で祭神は「中山主命・建日方別命」  この社のご神体は「岩」であり社殿に鎮座
 新宮 →吉備津神社境内、「影向石(ようごうせき)」あり 「真如院」「賀陽氏館跡」「庭瀬堂」「石棺石・龍山石製
 八徳寺→ 「波津登玖寺」主神は「温羅」高麗寺とも合致。 奥の院として、「穴観音」自然石(イワクラ)に観音像が彫り込まれている。50mほど登った地点にある。
 金毘羅宮跡のイワクラ → 吉備中山の最大のイワクラ(巨石群)といえる。金毘羅宮は江戸時代であろうから、それ以前には別社か?
 ダイボウの足跡 → 人為的に掘られた跡、水祭りの痕跡か? ちかくに「八畳岩」自然石だが周りから土師器が出土した。
 有木神社 → 賀陽郡宮内字馬場、有木山にあり。祭神は「巨智麿、一説に曰く 針間牛鹿直はりまのうじかのあたい」、境内に「不動岩」あり。福田海の境内
          この場所が吉備中山の「冬至の日の出」を拝むためのイワクラであった。
          備後一宮の「吉備津彦神社」は大同元年(806)備中吉備津宮を分社、そのとき備中有木から宮司「有鬼氏」が神主となり元禄頃まで世襲した。
 福田海   福田海は明治33年頃、中山通幽という人が始めた宗派で、修験道の一種と考えてよいだろう。
003
吉備の中山を歩く『いせき探検』講座 by 岡山県古代吉備文化財センター

画像みる    ↓

尾上車山
 古墳


矢藤治山
 古墳


中山茶臼
 山古墳
☆2009/02/21 Saturday
  
当日は50人の募集に応募者80人とかで、参加者大幅増。 役所の企画にしては臨機応変、最大限の受け入れ努力に拍手!です。
 おかげで2組みに分かれて隊列皇軍、時間差出発。およそ2.5Hのみちゆきでした。
 100mそこそこの丘陵ですが、UpとDownが間断なくつづき、約9,000歩、結構草臥れましたよ。

004  鬼ノ城ビジターセンターでもらったパンフ  画像みる    ↓

 朝鮮式山城と呼ばれる「鬼ノ城」

 鬼城山城(鬼ノ城) おにのき(きのじょう) 岡山県総社市奥坂・黒尾 国指定史跡
 大迴小迴山城 おおめぐり・こめぐりやまじょう 岡山県岡山市草ヶ部 国指定史跡

 飛鳥時代
 天智天皇2年(663年)の白村江の戦いに倭国が敗れた後、唐・新羅の侵攻に備え築城したと考えられている。日本書紀などには西日本の要所に
 大野城など12の古代山城(朝鮮式山城)を築いたと記されており、鬼ノ城も防衛施設の一つであろうと推測される。しかしどの歴史書の類にも一切
 記されていない、築城時期が白村江の戦いの時代と符合しないなど、その真相は未だに解明されていない謎の山城である。
 史書に記載が無く、12の古代山城(朝鮮式山城)に該当しないものは神籠石系山城と呼ばれる。

2010/01/07更新 2009/01/20