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Modified 0000/00/00/Created 2011/02/17
笠岡湊情景
江戸時代は年貢米の積み出し港
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笠岡湊が最初に開かれたのは一体どの時代からであろうか。
時代を追って考えてみると、平安時代から室町時代にかけて陶山一族が笠岡山城に主城を構えて城下町を造った頃には金浦湾が主体だったようだ。その理由は吉浜〜大河〜有田へ湾入した懐の広い内海があったから。軍船を留めるための基地は吉浜と生江浜に「船隠」という字名が今でも残っている。太閤秀吉から近隣海域専業操業の朱印状を発給されたのも金浦の漁船団である。
今の古城山公園に城を築づいたのは弘治年間(1553-1558)に村上隆重だというのが通説である。
当時の古城山は海に突出した断崖であった。住吉や伏越が湊として整備されたのはこの笠岡城完成後からのことであろう。
関ヶ原合戦の後に幕府直轄地から一時的には福山水野藩支配となるが、その後は再び天領となり明治維新を迎えた。笠岡湊が最も栄えたのはこの江戸時代のことである。
亀川屋の跡地である西ノ浜から伏越湊まで、防波堤に囲まれて年貢米や干鰯・畳表などの物流があった。これらの商品を扱う商人たちが寄進して祀った稲富稲荷宮や金比羅宮には多くの町方衆の名前が彫られている。