「西濱城」址 (その1)
 平安〜鎌倉期の陶山一族の居城「淵山城」か?
訪問DATE: 2009 04 22


西濱城(陶山城)へののぼり口

平安時代から鎌倉を経て室町にかけ、備中西部一帯を
領有したとされる陶山一族の本拠地たる戦国山城。
平家一門の陶山氏の笠岡の祖盛高と泰高とが最初に
笠岡の海に見た風景はどんなであったろうか。
陶山ノ岡の城から南を見ると金浦の龍王山の向こうに
神島の山々が長く連なり、その先が鞆の津であり、更に
遠くは四国伊予の山陰も見えたはず。(写真左)
そして右手前にみえる山が茂平の湊に連なる尾根で、そ
の向こうが備後の海である。当時拝領した領地は小田
郡の内魚緒・西濱・甲弩、なので陸上部の広がりもかなり
なものだ。しかし、主城をこの場所に置いたという以上は
その目線が海上を睨み、視界全域を支配しようという意思
を感じる。この城の本丸はまだ踏破していないけれど、こ
の角度からだと西濱も甲弩の領土は見渡せない。
また眼下にひろがる金浦湾は海上の要害であり、生江
から吉浜〜大=`大河〜用之江まで奥の広い内海がこ
の城の城下というより中庭だったと思われる。

2009/04/22 Created  位置図:笠岡市金浦町                                                          更新:2009/07/31
陶山城付近略図(s48年4月14日) 現状マップへ重ね合わせ(推定図) 資料は笠岡史談会会報 
『陶山義高臣大谷藤太夫邸跡を訪ねて』by関藤不二男氏論文引用

 明治9年の「木之目村々誌」がこのたび見つかった。この中の史跡とし
て次ぎの記録がある。
「本村東南笠岡村堺累蹟あり、字前龍王と云。伝え云。陶山義高累を此に
築いて、其臣大谷藤太夫をして居守せしむ。山下大谷邸と云える旧址あり」
この記録を読み04/14 15:00時、関籐さんは同行3人、龍王山へ上った。
出発点は木之目(現相生)の霧見神社。神社の西の道路を南下して進む。
ほどなく左手に谷川と古井戸に見、さらに山を上ると右別れ交叉部に出る。
この道(谷の西側)一帯を字藤太夫(とうだゆう)という。
径は狭くなり人一人が通れるほど、上りつめると藤太夫が見下ろせる反対
側にでる。新池があり、この辺りを大谷という。ここで標高は85m.
更に東へ進み標高150mのこの辺ではいちばん高所にでる。前龍王だ(現
在の相生墓園か?)地元では「お城ば」と呼ばれている。この場所が鎌倉
末期の陶山城の本丸の位置であろう。
前龍王からさらに東へ進むと、横に枝が広がった形のいい大きな一本松が
あり、その下に相生の龍王宮がある。更にその東隣に笠岡の竜王宮が祀っ
た小祠がある。最近建て替えたものでコンクリートブロック造り、一間半に二
間くらいの瀟洒なお宮だ。この二つの祠の中間が笠岡・相生の境である。
2アールくらいの平坦地でここに立てば素晴らしい眺望だ。仙酔島・福山城
神島・片島・神島大橋・西の浜が一望に見える。
 前龍王の西南には、行儀良く三つの峯が並んで見える。そのひとつ、行者
山には西出丸があり、石垣の残塁今尚存せり。と昭和11年発行の「金浦
要覧」に見えている。
笠岡越えの径に出て帰路につく。数年前にはこの辺りに一石五輪の墓があ
った筈だと探したがどこにも見あたらなかった。時計をみると6時が近い。
三人は険しい山径をふらつきながら下山した。
 大谷邸址は判然としなかったが、陶山義高の家来、大谷藤太夫は字大谷
と字藤太夫という二つの地名となって今も生きていた。
 笠岡図書館で「笠岡史談会会報」の記事を見つけて読んだ。(2009/07/30)

陶山城(西浜城・洲山城)にはまず遺構が残っていないこと、文献資料が発見されていないこと、過去に調査をおこなった先人たちの記録がないこと。
これらの理由によって詳細は特定されていない。 一説には、最初に泰時が洲山城の築城に着手したのは太治4年(1129)行者山であり、完成したのは元享元年(1320)で城主は義高
である。 ただ、泰時の行者山城(仮称)と義高の龍王山城(仮称)の関係がすっきりしていない。 城郭の縄張りも未調査のためどの位置にどの範囲でどんな構造(方位・土塁・空壕)
などの遺構と情報が少なすぎるのが最大の理由であろう。上の写真は行者山からの眺望、下図は龍王山の城郭で両城の距離は500mだ。両者は個別の城ではなく連郭式に拡幅され
てきたのかもしれない。が、龍王山と笠岡山の位置関係など陶山城はいまのところはベールに包まれている。
あと一点、村上隆重が築城したと伝えられる吸江山の笠岡城への疑問点。陶山の時代この吸江山はどんな状態にあったのか、陶山の城主は瀬戸内海を眺望するために吸江山ではな
く行者山と龍王山を選択した理由など知りたくおもう。

☆2010/03/31
 陶山藤三義高が祖父道高の顕彰と供養に建てた観音寺
 「興亡史跡笠岡城物語」より引用
『小田郡西浜村二陶山城其城跡之トニ陶山山観音寺称スハ義高公此陶山城ヲ発シ笠岡山城ヲ開基ス正和三年(1314)四月十五日ナリ。故ヲ以テ祖父道高ノタメニ観音寺置レシ者ナリ。
其ノ観音寺二有ル道高ノ御位牌ノ裏ニハ次ノ如シ
道高者弘安四年蒙古胡元九州二来り、共時河野通有ト共二戦功有り。道有者一功ニシテ道高者二功ヲ為ス。北候時宗公道高ヲ賞シ、小田郡魚渚郷以下三郷ヲ賜り 盛高平家ヨり分身
以来之采邑ヲ覆ス。是陶山家之大功者ナリ。
西浜村二有ル陶山山観音寺ハ陶山家旧城跡并二道高公ノ菩提ノタメ二義高公置レシモノナレバ陶山家二於イテ懸二尊敬致スベキモノナリ。
道高公ハ弘安四年之戦ヒニ功ヲ為ス盛高ヨリ高光迄四代魚渚郷陶山之城主ナリ。高光ノ子道勝ハ板倉之城主ニシテ父子武城ヲ守奉安徳帝ヲ平氏ハ我一族タレハ是ヲ守トイへドモ、終二
一族亡滅ス。道勝之後、道英ヨリ道国迄三代北條二従ヒ鎌倉ニ住ス。道高二イタリ当城二覆ス。小細ハ系譜二有り。』