初夏の風物詩、金浦の「おしぐらんご」(旧暦五月五日)
 平成23年6月5日、10:00〜12:00時 来年よりは漕ぎ手不足で休止すると聞く。
訪問DATE: 2011 06 05


発走前の吉田川河口の「住吉神社」の神事
 漕ぎ競べに参加する艇の数は六艘、すべてこの祭り
用に建造されて保管されている専用の和船である。
昔はその年に卸さらた船、新造船があてられたという。
 この日は潮の上げが遅く10時を過ぎても潮待ち状態、
湾内の干潟が満ち潮で隠れるまで漕ぎ手も観客も本部
役員たちも全員が待った。この潮を待つという行為は
太古より営々と続いている海人たちの儀式である。有名
な斉明天皇を詠んだ額田王の御歌。「熟田津尓 船乗
世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜」
 写真上、黄色の電車はJR山陽線。吉田川の河口に架
かる鉄橋で、住吉神社はその左岸にある。神官が太鼓を
打ち鳴らし、御神酒を供えて出陣の祝詞をあげる。
この祭りは漁師たちの出漁にかかるい神事ではない。そ
の証拠に船飾りの幟旗に大漁旗はあがっていない。赤は
平家、白は源氏のシンボルだ。写真左が保存会によるフ
ィナーレ、第三レースの様子である。平家方が「乙女丸」、
源氏方が「龍宮丸」。観音さまと龍王山の意味なのか。
いずれにせよ陶山一族に関わる伝承であろう。

2011/06/07 Created  位置図:笠岡市金浦町  
                                                        
陶山城(西浜城・洲山城)にはまず遺構が残っていないこと、文献資料が発見されていないこと、過去に調査をおこなった先人たちの記録がないこと。
これらの理由によって詳細は特定されていない。 一説には、最初に泰時が洲山城の築城に着手したのは太治4年(1129)行者山であり、完成したのは元享元年(1320)
で城主は義高である。 ただ、泰時の行者山城(仮称)と義高の龍王山城(仮称)の関係がすっきりしていない。 城郭の縄張りも未調査のためどの位置にどの範囲
でどんな構造(方位・土塁・空壕)などの遺構と情報が少なすぎるのが最大の理由であろう。

この日、金浦湾の樋守をしている男性からハナシを聞いた。
現在でも一日二回、水門の開閉を手動で行っていると聞いて驚いた。潮位は計算値で求められる値だから、セットしておけば勝手に水門の開閉が始まるものだと思っていた。
満潮にかけて潮があがれば樋門を閉じる、潮が引けば樋門を開ける。干拓地へ海水が流入しないための措置である。この地域が干拓されたのは江戸時代、水野藩支配に
なってからのことであろう。水野忠重の勘当となった嫡子勝成は流浪の身となり、備中を彷徨したと言われる。このイオスナ郷にも足を運び、勝成逗留伝説が残っている。
水野勝成は後の福山藩主、元和5年(1619年)、福島正則の改易に伴い大和郡山6万石に替わって福山10万石で転封となる。治世は将軍秀忠、勝成は54才であった。
樋守の方のハナシに戻す。
陶山城の跡と言われる場所には井戸があった。今でもあると思う。ただ、口では言えない道順なので、説明はできない。ということであった。
ひったかの提灯に灯を入れる行者山の東に聳えるやや高い山の名前が石鎚山だという。加入堂山の南にも同じ名前の山があり、両山の距離は1Kmとは離れていないだろう。
行者、石鎚山、と並べば熊野信仰の役小角を連想させる。葛城神社、当麻、金山など。此等は観音信仰とおなじ陶山の時代の遺産なのであろうか。
(木之目には「大谷」と「藤大夫」という小字が残る。大谷滕大夫とは陶山の家臣の名前、長く陶山城の城番を勤めたという。)