小田郡村誌西濱村


↓↓↓ 『笠岡市史』資料編 上巻より転記

地名考

備中国第壱大区小田郡小一区:市史からの抜粋『皇国地誌』(明治9年)

 本村古来ヨリ本郡ニアリ漁渚郷ニ属ス 旧(も)ト漁渚村ト云中古(年代詳ナラズ)改メテ西濱村ト云。
 地勢: 東北山峯ヲ負ヒ南方海ニ枕(のぞ)ム 土地大率坦夷(平坦)ナリ、運輸至便ト雖モ薪炭ノ類之ヲ他ニ仰クヲ以テ欠乏ヲ免レズ。

 山:   金崎山 高サ三十二丈周囲一里、本村ノ東南位ニアリ嶺上ヨリ三分シ東シ笠岡村ニ続キ南ハ海ニ俯シ西本村ニ属ス。
      山脈北木ノ目村ニ互(?)ル嶺上樹木扶疎タリ 南方半ハ墾破シ耕地ト為ス。
      
 人数: 男九百五十六口 女九百八口 総計千八百六拾四口
 寺:  報恩寺 真言宗西京西本願寺末派ナリ 本村ノ西南ニアリ。

 社(やしろ) 記述なし

 舟車: 日本船(二百石未満五拾石以上)七艘 五拾石未満荷船拾四艘 漁船百三拾艘 総計百五拾壱艘
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 「金浦要覧」 by 金浦商工会議所 1936年(s11年刊行)
  金浦町は小田郡西南部に位し、東は金崎の丘陵及び其養脈によりて笠岡町及び大井村と境北は大井陶山両村に接し、西は城見村に隣し、南は
 金浦湾を抱きて遙に鞆津仙酔島の勝を眺むべく海に瀬せり。面積は〇.・四五方里、東西一里二町餘、南北三十五町餘あり。 ⇒ Map ClickHere
 市制までの沿革
  
明治22年2月 町村制施行により金浦・木之目・吉浜・生江浜・大河の五ケ村が合併し金浦村となり、明治34年2月に町制施行で金浦町となった。
 昭和27年4月1日、笠岡村と合併し笠岡市となった。



☆吉浜灌漑工事、升池築造 久我源三郎・房三父子の貢献 ⇒ 「升池碑」by 関藤不二男氏著 ClickHere



☆社をさがす -------⇒ map画像クリック

 八幡神社 笠岡市金浦354 岡山県神社庁HPに掲載 ↓(次項と2社が掲載されている)
   八幡神を祀る神社は八幡神社(八幡社・八幡宮・若宮神社)と呼ばれ、その数は1万社とも2万社とも言われ、稲荷神社に次いで全国2位である。
   一方、岡田荘司氏らによれば、祭神で全国の神社を分類すれば、八幡信仰に分類される神社は、全国1位(7817社)であるという。
   八幡神社の総本社は大分県宇佐市の宇佐神宮(宇佐八幡宮)である。
   祭神は、応神天皇を主神として、神功皇后、比売神を合わせて八幡神(八幡三神)ともしている。神功皇后は応神天皇の母親であり、親子神(母
   子神)信仰に基づくものだといわれる。 比売神は八幡神の妃神と説明されることも多いが、その出自はよく分かっていない。八幡神は外来神で
   比売神はそれ以前に宇佐に祀られていた地主神だという説や、比売神は宗像三神または市杵島姫命であるという説、近年では比売神はヒミコ
   でありアマテラスであるという説も登場している。

   八幡神社の祭神は応神天皇だが、応神天皇の父である仲哀天皇をともに祀っているところも多い。/以上

  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 田方神社(祇園宮)
 笠岡市金浦354 ↑と同一住所なので現地の状況からこの名称と勝手に比定
 八幡さまとおなじ場所、おなじ向きに並んで鎮座。
 愛知県小牧市の田方神社は豊年祈願祭で、男根を露出した人形の神輿と、大榊の行列が町を練り歩きエロチックな祀りで有名だが、この社は
 そのようなもの(セイキの張型奉納)はなし。
 タガタの文字表記は田縣(県)、こちらの縁起をネットで調べると、、、、、
 『古い土着信仰に基づく神社で、子宝と農業の信仰を結びつけた神社。祭神は御歳神と玉姫神で、五穀豊穣と子宝の神である。社伝によれば、
 当地は大荒田命の邸 の一部で、邸内で五穀豊穣の神である御歳神を祀っていた。玉姫は大荒田命の娘で、夫が亡くなった後に実家に帰り、
 父を助けて当地を開拓したので、その功を讃えて神として祀られるようになったという。』

 天神神社
  
場所は吉田川に架かる「たぬきばし」を渡って直進、密集する家々の路地を山にむかってすすむと石段がある。
 手摺があって灯火も完備でかなりの氏子たちが参拝している様子。ここには「急傾斜崩壊危険区域」の標識があり角度は急だし余計な空間のない
 狭隘地だ。近くの家の方の話だとこの社の祭礼・縁日には吉浜の天神さんから宮司が出かけて来るという。 とすれば、吉浜の菅原神社の末社と
 いえる。 今は吉浜新田のおかげで金浦湾の締め切りで水門ができ吉浜の菅原神社まで徒歩で20分くらいの距離だがこの社ができた時代には
 往来に難渋していたことがうかがえる。遠い・時間がかかる⇒勧請 or 分社 =1660年の吉浜新田が創設の菅原神社と同期生かもしれぬ。

 勝念稲荷大明神
  朱塗りの鳥居は倒れて損壊、折れた横木に残る扁額に書かれた社の正式名称は「東山 正一位勝念稲荷大明神」
 この額に書かれた文字から「ひったか」で火が灯り紅幟がたつ東山(妙見山)だと解った。当然ながら吉田川をはさんで対面の山が行者山だろう。
 参道は天神さまと共有で、その前をとおってすぐ隣りに本殿が鎮座している(倒壊は鳥居のみ)。
 社殿の前は人の通れる祖間道が南につづく。昔はこの道が妙見山の中腹をとおって南にある八幡さままで歩いて行けた。周辺の山は畑がいっぱい
 あり、今のような雑木はなく見通しがよかった(地元のs12生男談)

 荒神社 - - - - - - → 2009/04/22 「恵比寿神社」だと判明!
  「ひったか」の宵にはこの荒神さまが賑わうらしい。
 その場所は、吉田川の南、金浦町のメインストリートのしかも名代旧家の久我邸と軒を並べて鎮座している。
 見た目には久我家の一部、守護社とも映る。この時、自転車で通りを走っていたおばちゃんが突然自転車を止め、サドルから降りてこの神社に向
 かって拝礼・拍手ならぬ読経を唱えて一礼しまた自転車に跨って通り過ぎた。信仰が日常生活の一部となっている風景である。

 岬稲荷社(勝手な呼称です、地元の方は単に「お稲荷さん」と呼んでいました。)
  2国道が笠岡の町なかへ入る手前、金浦の竜王山をおおきく南に迂回する箇所、「金浦の歌碑」の沖側の山際に建つ。
 朱塗りの小社というより祠が低いコンクリートの塀に囲われて祀られている。
 何度かこの社の前を通るとき、塀の周りの雑草を日中ひとりで刈り取っている年配の女性をみかけた。
 縁起・創建・祭神などはいっさい不詳、まだ彼女が小さい頃に海がこのお稲荷さんに打ち寄せて、無論いまの国道2号線もない頃からここにあった。
 よくおじいさんに連れられてお参りしていた、とのこと。彼女の年代からおしはかると1940年代、戦前のあわただしい国情を抱えたニッポンの時代
 の記憶を話してもらった。

 点在する太子像
  路傍に祠があり一対の石像、お馴染みの太子像が置かれている。



☆2009/04/22 金浦を歩く
  八幡神社の鎮座する山を「陶山ケ岡」という。地図でみると西浜城(陶山城)の本丸の位置にある山の中腹にあたる。 → 西濱城(1)ClickHere

 陶山一族の魁として最初に此の地金浦を領有したのは平安時代末期、第10世陶山和泉守盛高である。
 『康和元年(1099)将軍源義家の長子義親謀反を企て、盛高は因幡守平正盛の先鋒として討伐にあたる。天仁2年(1109)義親を討ち取り、恩賞と
 して備中国小田郡の内魚緒・西濱・甲弩・および三千貫を賜う。これにより盛高の居城和泉國より備中国所領を懸持す。』
  
 この後、第11世 陶山備中守泰高の時代には、
 『備中國山田郡西濱村淵山ノ古城ハ年久ク空城タレバ發壊ス。時ニ大治四年(1129)三月山陽南海ノ海賊起テ海路ノ往来ヲ妨ゲ通船ヲ悩シ或ハ
  着岸シテ民家ヲ侵シテ私財ヲ奪フ。 遂ニ大崎島ノ孤城ヲ攻落シ屯集シ威ヲ振ルフ。 之ニ依り備中守ニ院宣ヲ蒙ル。平忠盛ハ追討ノ為發向ス、
  此時康高忠盛ノ一族タレバ催促ニ従ヒ康高先鋒ニ進ミ、大崎島ニ赴キ賊徒ヲ悉ク退治ス、帰路ニ忠盛ハ康高ノ第ニ帰ルヲ誘ヒ曰く「構フ可シト
  命ズ」是ニ於いて康高ハ淵山ノ廃城ヲ再興シ淵山城ノ舊(旧)名ヲ陶山城ト称シテ移住ス。』
 
 この記述どおりだとすると陶山氏は平家一門の武将として天仁~大治年間に陶山城を再興し移住している。
 市史によると「八幡神社」の創建は鎌倉時代だという。また陶山顕彰会のパンフレットにも「鶴ヶ岡八幡宮を陶山氏が勧請したものである。」と記す。
 鎌倉時代には中央から赴任した地頭職が鶴ヶ岡八幡宮を地方に勧請するケースが定例化していたのであろう。

 時代が下って毛利統治の室町末期、村上隆重・景広父子が笠岡城(現古城山公園)時代の慶長4年(1599)景広は周防へ移封となり、毛利元就の
 八男・元康が城主となる。慶長5年(1600)元康は築城のため笠岡在住の漁師たちを漁渚に集団移住させた。この移住により西浜漁師たちには
 漁業特権が生じ、後々周辺漁民との紛糾の原因となったが、西浜は昭和53年(1978)に海が消えて漁業協同組合が解散するまでの400年に
 わたり漁業の町であり続けた。

 この漁業従事者たちが祀ってきた神社が海際に今も建つ。
 1-恵比寿宮 .......................... 吉田川に沿って建つ久我邸の南隣、ひったかの夜に最大の賑わいを迎える。
 2-住吉神社 ......................... 吉田川の河口、東岸。町の老人憩いの家「竜宮荘」の裏側に建つからなのか、地元では「竜宮さん」と呼ぶ。
 3-金比羅宮 ........................ 吉田川河口、西岸。石の常夜灯が海に映える位置に建つ。
 4-水神さん  ....................... 吉田川の最下流に架かる橋、「千歳橋」の西岸の民家の玄関口の井戸の傍に祀られる。
 5-お清明神 ........................ 吉浜新田締め切り土手の東岸の山を削って安置された観音像と白馬の伝説。

景色考

名勝地: 金浦
  
本村東南ノ地海岸ニアリ大嘗會和歌集に載ス風色太(はなはだ)タ愛ス可シ

古跡: 陶山岡ト云 往時陶山藤三(一備中ト称ス)義高 塁ヲ築イテ此ニ居ス 其子又次郎高直其子備前高重其子刑部相承襲シ 永正年間(1504-1521)
     ニ至祀ヲ絶ス故ヲ以名トス

  ☆2010/09/19 陶山道高を祀る「観音堂」訪問 ⇒ ClickHere
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☆2011/06/05(日)「おしぐらんご」見物に
 
梅雨入りの六月最初の日曜日、かつては旧暦五月五日が催行日だとか。
宵祀りの「ひったか」は土曜日の夜、こちらは所用があって見そびれた。 ⇒ 初見「おしぐらんご」 Click Here
  

No. 表題 Title   内容 Contents
001 漁渚竜王山を西から望む(旭ガ丘団地より)  画像みる    ↓
     
社寺map

八幡宮

天神宮

太子像他


2-町並
  

 「金浦要覧」の云フ陶山岡
 『西濱の北部にあり、羊腸たる経路を登れば山頂平にして広潤今は全く畑と化せるも、元弘(1331-34)以後永正年間(1504-21)まで陶山氏の居城たりし西濱城の跡にして西丸本丸跡は定かに見ることを得、殊に西丸行者山には石垣の残塁今尚存せり。此辺の風光殊に美しく東に金崎山突兀として聳え、西北は眼界遠く備後の諸峯を望むべく俯して金浦湾を望めば、矢走の帰帆に優る勝景と甍の□然たる殷賑の市街を寸眸におさめ、山紫水明風光無比と称するも敢えて過言にあらざるを信ず。此城は洲山岡城とも称し備中南部の名城たりしものなり。此城跡の一部に村社八幡宮の森厳たる神域あり。此処に祀れる田方神社は昔大明神川の西岸、山陽線線路の辺にありて、於伎與社または祇園社とも称せしを此神域に勧請し宮の谷、即金崎遂道の南上方に鎮座ましませし。十二神社および木野山神社は俗にうしと称するうしの谷と大谷との堺界点にありしを此の神域に勧請したるものなり。あゝ崇高森嚴たる神域、誰か豈敬虔(けいけん)の情なからんや。
行者山の西方、岩石多し。青蛙の句に、
   岩山に松風はげしひめ小松 城跡を尋ぬる梅の小道かな。』 


002  金崎の歌碑(昭和53年建立)LBD220x290x105cm  画像みる    ↓

  この歌碑は国道2号上り線の金浦橋を渡り竜王山の南端を東進むカーブの手前左手の手入れされた花壇のそばにある。

碑文の読み下しは、『沖つ風浪立つべくも吹かぬよに 金の浦より出づるあま舟』

後冷泉院永承元年(1046)十一月十五日、大嘗会和歌集にいう。
主基方(すきかた)備中金浦に漁釣舟という歌題の木工頭兼文章博士讃岐権介藤原朝臣家経の歌といわれる。
そして、明治22年(1867)西浜村・吉浜村・木之目村・生江浜村・大河村が合併して→金の浦を村名に選んだ。

《金の浦の場所比定》
笠岡の文化人であった小寺清先が「備中国名勝図会」(文政5年1822)でこの金の浦を西濱村金崎に比定した。
その後、増成松平は「金浦要覧」(昭和11年)で干拓前の状態を想定し、吉浜の内湾だと主張している。

☆「よしはま物語」by関藤不二男氏著は「備中誌」の関鳧翁の説として大河の粕崎を金の浦だと書いている。(2010/10/30記)
 
 『粕崎(かねざき)というのは、吉浜の北に隣接する大河の南端にある小部落で、土地の人は「カツサキ」と呼んでいる。粕崎いう地名は、
海岸に面した山麓を意味するものである。むかしはここを、金の浦(かねのうら)と呼んでいたのかも知れない。
鉱山採掘の跡がのこっている。この大河村にかね山という所あリ、寛文の頃(1661-73)迄は、入海なりし処にてその麓を、かす崎(柏崎)という。
このあたりかねの浦ならんと覚ゆ、かの入海を寛文の頃墾田となせり。今は吉浜の地なり。金崎はカナザキ、かね崎とはいわず。このかね山
は金山、又は兼山など書きて今もかね山と呼ぶなり。是かねの浦の一証には非ずや。』

☆カツザキ(粕崎)散策
 鳧翁先生が比定された「金の浦」を訪ねてみた。⇒2010/11/06 大河の小字散策
この地には「金山」(かねやま)なる小字もあり、金浦湾が今以上に北へ湾入してその懐が広かった時代には湾の最奥部に立地する大河村が
「カネのウラ」にふさわしい場所だと実感できた。
ウラは後ろ側、あるいは陰の意味であろうから、粕崎あたりがカネ山の浦と称されたと思う。(鳧翁説を支持)


003
干潮時の金浦の海 画像みる    ↓

西濱城
(陶山城)


左端が
 妙見山
山の切れ目に吉田川が
流れ出て
その右岸の
山が陶山氏の城とされる。本丸をはさんで西ノ丸・東ノ丸と三連式の山城で石垣や井戸の遺構が残っているという。

 「ひったか」と「おしぐらんご」:

 
ご当地笠岡では余りに有名なるイベントです。
笠岡市の無形文化財としての指定を受けて保存すべき文化財としての認知を受けているわけですから。
以下の記述はbyヒッタカ』s53年ヒッタカ記録保存委員会

『「おしぐらんこ」と「ひったか」は毎年陰暦の五月五日、すなはち菖蒲の節句の当日、昼と夜にわかれて催された民俗行事である。大字西浜の西方行者山には白幟を東方の妙見山には紅幟をたてた。
伝承によれば、一ノ谷の合戦の平家敗走後の寿永3年(1184年)平家の武将、越前守三位平通盛と能登守教経とが、魚渚郷の西浜にあった陶山城に兵をあつめ再蜂起を計っていた。この期に源氏方に通じていた讃岐国の在庁等が水軍二千あまりで陶山城を海から攻め立てた。激しい海戦が展開され通盛らは味方の劣勢を補うため、付近の山一帯にかがり火を焚いて大軍とみせかけ敵をあざむき退散させたという。その後、しろのぼりの源氏方と赤のぼりの平家方との源平二手にわかれ松明を焚き気勢をあげて競うようになった。
またヒッタカの語源は、昔、山上で松明の火を高く焚くという意味の「火を高く焚く」が訛り「ひったか」になったという。

☆2009/05/23(土曜日)
  待望の現地見学。 国道2号線を茂平から東進し、金崎橋の手前を左折、上の写真を撮った生江浜の金浦湾沿いの護岸道に車を駐めた。
 時刻はちょうど黄昏時で薄暮からどっぷりと日が沈む瞬間、対岸に火が灯り大会本部からスピーカーで「ひったか」の由来と歴史の説明が始まった。
 毎年話題の出来事を篝火(かがりび)で描くという。
 今年は「WBC2連覇のイチロウ」と「宇宙滞在若田飛行士」のS.シャトルだった。   → 「2009年度ひったか」 ClichHere
 

おしぐらんこ ------→ 明日 2009/05/24(日)に予定どおり催行とか、残念だが見物は当日不在で来年まで持ち越しとなった。
この地方の方言で「櫓を漕ぐこと」を「櫓を押す」という。
また駈足競争のことを「かけりぐらんこ」という。
これらから類推して、おしぐらんことは「ふな漕ぎくらべ」という
意味になる。

「スペース
シャトル」
 と
「WBC
イチロー」
 と
「打上花火」

 と

祭りの熱気

 金崎合戦

   「ひったか」の起源をたどると源平合戦の時代に遡る。
   時代は平安時代の末期、当笠岡一帯は陶山氏が領有していた。伝説・風聞の小説レベルの歴史を語ると、
 『笠岡へ最初に入国した武将は陶山備中守泰高、桓武平家の血筋といわれる陶山氏の第11世城主が小田郡西濱村に淵山ノ廃城ヲ
 再興シ淵山城ノ舊(旧)名ヲ陶山城ト称シテ移住ス。
 その泰高の孫に当たる第13世陶山次郎後備中守高光が城主の頃、 ↑に書いた寿永3年(1184年)の金崎合戦が勃発する。
 対岸の四国より2千とも3千(@100人・隻)とも云われる水軍がこの金崎の西濱城へ攻撃をしかけたという。
 迎え撃つ城方の通盛・教経軍は僅か舟10艘で追い散らし、攻撃してきた源氏勢は淡路島の福良に敗走したという。
 しかしながら、この勝ち戦もつかの間の安堵で、翌年の文治元年(1185)3/24には城主高光は平教經と共に壇ノ浦合戦で戦死した。
 陶山次郎後備中守高光は享年48才であったという。』
 
2010/11/06更新 2008/06/16