西本町・正寿場町を歩く


陶山城下笠岡の最大の物流拠点でかつ消費ゾーンの繁華街

地名考

☆2008/09/07 Sunday 西本町~正寿場町散策

  笠岡に残り一般に公開されている文学の「恋浮雲」「お夏ガ瀧」の主人公たちははじめる笠岡散策は決まって金崎からはじまる。
 社寺めぐりのスタート地点に選ばれるにはそれだけの理由があるだろう。 つまり、笠岡の竜王山発祥説である。
 町となるには人が住み着き、物流の交流がはじまり、信仰の場が定着する。 遍照寺も西明院もはるか山を越えた走出~吉田方面から移ってきた。
 お寺が独りで歩くわけはない(w)。 移転には多くのひとびとが移住して笠岡に住み着いた。
 農地が増えるわけでもないのに、増えた人口を養っていくのが町が街たる由縁なり。

 ↓写真以外は 『おや こんなところにこんなものが』 by郷土史愛好G(藤井寿幸氏著) 平成10年発刊 より引用

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西本町

天満宮

天満神社
「西の天神さん」と呼ばれ親しまれている「菅原道真公」を祀る社。創建は天正八年(1580)で享保六年(1721)に再建された。これが現在の社殿で極彩色に塗られていた。拝殿は昭和30年(1955)に改修された。 御神像は元禄八年(1695)に謹刻されたもので、衣冠束帯姿の坐像で右手に笏を持つ、高さ80cm、横幅110cm、桧の寄木造りである。 建物の裏に末社「於重稲荷」がある。昭和八年に改修された。お産に霊験があるという。
石段をあがたところの狛犬には刻銘がないが、社殿前の狛犬には文化六年己巳(1809)晩秋吉日 願主長梅屋定七と刻まれている。これは兄の「角屋作治郎」が死去した直後、その供養のため寄進されたもの。拝殿前の石灯籠は、向かって右側が享保六年(1721)本殿再建と年の寄進、左側が宝永七年(1710)の奉納である。地元では明和の種麦事件の場所として知られている。
祭礼の夏祭りは旧暦六月廿四日、秋祭りが九月二十五日、この神社から井戸公園にかけては桜の名所として花見時に賑わう。


西本町

六造稲荷

六造正一位稲荷
天神宮とおなじ場所、同じく東面し並んで在る。天保四年(1833)の丸山家の「代官所御用留置書」に、古城山稲荷を分祀して西の浜新田の堤に建立したとある。
明治十七年(1884)に高潮で流出したために天満宮の敷地内の現在の場所に再建された。現在の社殿は昭和初期のもの。
社殿前に一対の常夜灯があり、それには天保二卯三月吉日(1831)、吉濱氏子と彫られている。この常夜灯は流出しないで残ったものを移転したと言う。
この稲荷は、西の浜新田の守りとして祀られたもので、当時には「六道稲荷」と呼んでいたのが、何時の間にか「六造」となった。また、流失は江戸の末期、嘉永三年(1850)との説がある。
現在、本殿のお稲荷さんには幕がかけられ、拝殿内には町内の「神輿」が2基納め置かれている。拝殿軒先の天井は格天井になっていて、24枚の板にそれぞれ漢字が12枚、和歌が12枚書かれているが消えかかって読めないのが多い。書いた人、由来は不明。また、この社に「大般若経」の経典があったが今は威徳寺に保管されている。


西本町

えびす


西本町のえびす社

 流れ造り銅板葺きのしっかりとした小祠。
町内40軒ほどの氏子で奉祭されていて、いつもきれに祀られている。
祭礼は毎年、一月十日に「十日えびす」が町内でおこなわれる。この祭りはしばらくは途絶えていたが十年前から再開となった。
このえびすは「船玉」的えびすだろうと言われる。
《船玉・船霊》
 船の守護神として船乗りや漁師たちから信仰を得ている「船玉」「船霊」(ふなだま)という。
ご神体は女の毛髪・男女一対の人形・サイコロ2個・銭12文・五穀を納める例が多い。
ご神体をおさめる風習は全国各地にあることから、近世廻船問屋の間で信仰されて全国へと普及したとかんがえられている。

西本町

称念寺跡

正岡山 称念寺跡

 浄土宗鎮西派で、寿正院の末寺。西本町の隅田川右岸にあった。
昭和五十年(1975)頃に廃寺とり、現在は墓所・井戸・観音堂をのぞく寺域の敷地は駐車場となっている。この道の手前、墨田川を渡る橋には「称念寺橋」とその名前が残る。(写真に写る土塀の一部は消えていた。2011/04/03現)
「称念寺」の創建は天正十年(1582)『然譽上人』による。ご本尊は「阿弥陀如来」、廃寺になった後この阿弥陀如来像はいったん寿正院で祀られていたが、現在は沖縄に「称念寺」を復活しそちらに移り祀られている。
また、「十一面観音像」もおなじく祀られており、こちらはそのまま寿正院に客仏として祀られている。この像(たけ二寸)は寺伝によると菅原道真の作で、秘仏となっている。
境内跡には西国33観音霊場 紀三井寺がある。
また同じ境内に「庚申堂」がいまでも残っている ⇒ ClickHere
以前、称念寺境内にあった柔道場の「彰善館」は現在、高おう神社に移転された。

威徳寺

白岩
地蔵

威徳寺境内 白岩地蔵 → ZoomUp
 白岩とげぬき地蔵といわれているようだ。
台座には天明三稔六月建之(1783)と彫ってある。もとは西の浜山陽本線金崎トンネル東口あたりの山裾に祀られていた。沖を通る船から見ると白く見えるので白岩地蔵と名づけられた。(創建は天明三年[1783])
 金崎街道をとおる道ができたのは享保の頃(1716-1736)と思われるが、山裾をとおる細い道は難所であったであろう。みんなここを通るひとはお地蔵さんに手を合わせ無事を祈ったと想像できる。やがて、海岸道路はこの地蔵より少し離れたところに付けられたが、地元のひとはこのお地蔵さんをお祭りし、地蔵尊の前の広場で盆踊りや奉納相撲をおこなった。昭和7年に吉濱のひとたちが寄進者は地元の祖先だという理由で一時持ち去ったことがあった。実際の寄進者は笠岡の「伏見屋栄之助」で西本町の石工「井上定次郎」がおなじものを一体つくり吉濱に渡すことで決着、昭和7年6/19地蔵尊は元の場所に戻された。また威徳寺へ移ったのは、以前「白岩地蔵会陽」で神木を奪い合う行事があった。その神木の持ち込み先が威徳寺であったという縁で、昭和53年本堂落慶のとき「白岩とげぬき地蔵」として祀られた。
☆威徳寺→ClickHere, 訪問Photo →ClickHere, 吉浜の地蔵尊 →ClickHere

正寿場町

金比羅宮

正寿場町 金比羅宮

 創建は江戸時代、港関係の廻船問屋・商人・船頭などが航行安全と商売繁盛を祈って讃岐琴平の「象頭山金刀比羅宮」を勧請した。
平入り流れ造りの社殿、参道入口の常夜灯には「金毘羅大権現」「住吉大神宮」と刻まれているがこの常夜灯は元笠岡港にあったもの。元から境内にある常夜灯は自然石でできた方で、「天保十四年(1843)五月・戎屋佐□、覚蔵」と彫られている。
 境内をぐるりと取りまく玉垣は、商売繁盛と海路の安全を祈願して笠岡の畳表問屋が寄進したもの。丸山家の文書には「往古より明和中までは、備後御畳表御用、笠岡村へ仰せつけられ、外浦より御用のほか一切積み出し相成らず候」とある。
これは福山水野藩が断絶し、元禄十年(1697)福山藩が幕府に公収された後、福山にあった幕府御用表見役所(畳おもての検査場)が笠岡村に移されて、以後は笠岡港が積み出し港となりここから全国にむけて出荷するようになっていた。
境内の山寄せにある石垣に、玉垣寄進の発起人と世話人の名前を掘り込んだ石が三箇所に嵌め込まれている。狛犬は文政九年(1858)年十一月、「長梅屋定七」の寄進。

正寿場町

秋葉
大権現

正寿場町 秋葉大権現
 正寿場町の金比羅宮境内に鎮座。勧請は明治の終わり頃。
社の前にある鳥居には「秋葉大権現」の額が懸かり、文政十二年(1829)丑八月吉日と彫り込まれている。この鳥居はもともと古城山のトンネル西口の上あたりにあった「金刀比羅宮」の鳥居をここに移したものと伝えられる。
《秋葉信仰とは》
 秋葉信仰とは静岡県の秋葉山頂に鎮座する秋葉神社の祭礼にかかわる信仰で、剣難・水難・火難に霊験あらたかとされる。
特に火難(火伏せ、防火)信仰は愛宕神社とならび有名。


この神社の入り口は金比羅宮と同じく旧井笠鉄道軌道敷に面している。
元々この付近は威徳寺の末寺『宝厳寺』があった。「安永六年(1777)、宝厳寺、ほうごんじ」と彫られた石柱が残っている。その碑の隣には柳山大師堂、金比羅大権現の石灯籠など。そして自然石「地神社」の碑が祀られている。笠岡市域での「社」の附く碑とここが最初である。
「地神社」ClickHere

正寿場町

粟島神社

正寿場町 粟島神社

 今は廃社である。天正年間(1573-1592)にはかつては敬業館の歴代教授を勤めた小寺氏の祖が住んだと伝えられる。社殿裏には「宝殿」と呼ぶ神道の墓(小型の祠のようなもの)が三基あり、植え込みには数基の五輪墓がある。陶山時代の笠岡城関係の古墳とみられる。
 祭神は「大己貴命」(おほなむちのみこと)と「少彦名命」、婦人病・縁結び・安産・海上安全の神として婦人からの信仰を集めていた。
境内に一基残っている常夜灯には文政十三年(1830)十二月吉日、願主は「當町女中」と彫られている。
以前には石の鳥居があったようで石の亀腹が左右とも、また「粟嶋社」と彫られた石の鳥居額が境内に残っている(未確認)。この社の縁起は古く、寛文十三年(1673)の祝詞の紙が残されているとか、社殿は大正年間に再建されたもの。

訪問記 
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正寿場町

御韓神社

正寿場町 御韓神社

 地元の人の「おんからぐう」の発声が聞くと「おきゃらぐう」と聞き取れる。
観音開きの格子戸の上に注連縄が張られ、その上に祭神「素盞嗚尊」「大己貴命」「少彦名命」と書かれた木製の神社額がかけられている。大正十三年発行の「小田郡誌」には「神功皇后」を祀るとあり、「園神」「韓神」を祀るという説がある。
創建は江戸時代の元禄年間(1688-1704)以降の勧請と言われる。
その当時には風呂屋町と呼ばれたこの地区には数件の風呂屋があった。風呂屋とは遊里のことで船頭・町人たちの憩いの場として賑わっていた。
この社は水商売のひとたちが祀ったとされ、格子戸から中を覗くと桧皮葺きの小祠があり、キツネが二匹座っている。以前は豊島石製の宝殿だったが、明治初年に木造の宝殿となり、覆屋は昭和初期に改修された。
 

正寿場町




神社

正寿場町 えびす社

 西本町のえびす宮から50-60m奥に正寿場町の「えびす社」がある。
社殿前には常夜灯があったらしく台座石だけが残っている。
天保十四年(1843)に書かれた「笠岡遊覧恋浮雲」にもこのえびす宮が登場する。
「恵美酒神社」と書かれたものもある。
当時はこのあたり湊関係者や商人たちの歓楽街であった。

《えびす考》 えびす神の漢字に戎や夷などが当てられている事は、中央政府が地方のまつろわぬ民や東国の者を「えみし」や「えびす」と呼んで、戎や夷の字を当てたのと同じことで、いずれも異邦の者を意味している。「えびす」という神名の文献における初見は平安時代後期の『伊呂波字類抄』であるが、そこには「夷 エビス 毘沙門」と記されている。


正寿場町

地蔵堂

正寿場町 地蔵堂

 正寿場町に二箇所の地蔵堂がある。先ず壱ヵ所目は上のえびす社からすこし進んだT字路にある。ブロックで囲まれた堂の中に十数体の石仏が祀られている。それぞれの石仏には前掛けが掛けられ、花が供えられている。
以前にはこれらの石仏以外に五輪墓も祀られていた。今は五輪墓は威徳寺の移り、「笠岡山城古墳苑」として集めらている。
《地蔵考》
 地蔵菩薩 (じぞうぼさつ)、梵名クシティ・ガルバ(क्षितिघर्भ [kSiti gharbha])は、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味で、意訳して「地蔵」と言う。また持地、妙憧、無辺心とも訳される。大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包みこみ、救う所から名付けられたとされる。一般的には「子供の守り神」として信じられており、よく子供がよろこぶお菓子が供えられている。一般的に、親しみをこめて「お地蔵さん」、「お地蔵様」と呼ばれる。


 

No. 散策ガイド   内容 Contents
001 西本町・正寿場町略図  画像みる    ↓
     
 
 戦国の武将陶山氏が竜王山に山城を築いた。この辺りは最初の城下町として開かれたであろう。
 長い歴史の時間を経て、この狭い地域に名勝がひしめいている。
 
002  亀川屋蔵屋敷  画像みる    ↓
 ☆2008/09/06『郷土史愛好G』
  
  亀川屋蔵屋敷は現笠岡井原線が2号線を跨いだボーリング場の北、「笠岡市民ギャラリー」あたりにあった。(写真とは別!)
 これらの蔵屋敷は「御城米御蔵」と呼ばれ、笠岡代官所扱いの年貢米と、文政十年(1827)から小田、後月、上房3郡のうち、64ケ村
 を所領した徳川一族の「一橋家」の年貢米、その他の大名、旗本の年貢米などが運び込まれて一時保管され、すぐ南の笠岡湊から
 船に積まれて回送されていた。亀川屋蔵屋敷は宝永四年(1707)造成検地を受けている。
  市内鳥越家所蔵の「管轄庁沿革誌」によると、亀川屋は関が原直後の備中国代官小堀新助の時代から名前が出ており、江戸時代
 を通じて海運業を営み、御用商人を勤めていたようだ。その後、幕末までは栄えていたのは当時の「御用留」などにも記録に残るが
 その後はわからない。

003  「田中荒神社」(たのなかこうじんしゃ)  画像みる    ↓

 この周辺は田園が広がっていた頃の名残をとどめる命名の社、「田中荒神社」
地元では単に、「荒神さん」と呼ばれているようだ。
「笠岡遊覧恋浮雲」では「三宝荒神社」となっている。また、この社の拝殿に入ると、「大歳神社」の名がはいった書き付けの板がある。
江戸時代には「笠岡五荒神」のひとつとして知られていたようだ。
 この社の他の四荒神とは、城山荒神・院の馬場荒神・宮地荒神・上田頭荒神をいう。
004 街角には今でも井戸がたくさんある  画像みる    ↓

井戸から汲み出す水は飲料には適さないとのこと。
いまでもショッパイ水が出る、とか。
 この地区には明治時代に共同井戸として掘られた「大井戸」や井戸のそばに祭られた「水神」が残る。
「水神」は陶山時代の製作をうかがわせる五輪の石塔で、いまでも祀られているという。

005  笠岡の劇場(演劇とスクリーン)文化の名残  画像みる    ↓
笠岡の演劇・映画  by広沢澄郎氏「笠岡史談」

 芝居小屋の新設は、明治七年十一月、笠岡村の黒田幸太郎ほか六人のものが願い出ている(笠岡史談第十三号)これが同十一年「祝座」
として発足した演劇場へとつながる。
それは笠岡の浜仲仕全員の共同経営であったといわれる。その後、大津波で流失したため、同三十六年新築され、戎座(えびすざ)となる。
昭和三年八月、戎座で鈴木文治が講演した。斎藤友八氏によれば、笠岡には西ノ浜の戎座のほか、笠神社下に富士見座、岩井座があった。
さらに小野竹喬画伯の兄・小野竹桃さんが、岡山市野田屋町の柳川座(明治八年こけらおとし、岡山最古の常小屋?)でイプセン作「人形の
家」のノラを演じた、と云うのである。
さて、戎座は昭和五年、大和座と改称する。収容人員八百人余。同十五年より映画を主とした。鉄道がすぐ横を通るので、閉めた障子が振動
で音がする。エノケンの「ちゃっきり金太」が面白かった。戦後、前進座がきて「佐倉宗五郎」「東海道膝栗毛」を演じた。
 映画館では、殿川南の曙館が大正元年できた。
松竹系の常設キネマ館で、田中絹代らのスターを引き連れて鈴木伝明がステージからファンへお目見えしたことがある。収容人員六百人、
吉仲(仁科)が興業。二度火事があり、笠岡映画館(通称、笠映)として昭和十八年八月新しく開館した。同二十六年八月その一部が洋画専
門の大洋座となった。今スーパー和信がある所。なお笠岡映経営者瀬戸健二郎氏は岡山市上之町でも映画館を経営した。代表山本明男氏、
ナイトショーが多かったように思う。
西本町の中央劇場(小野博子さん経営)は昭和三十年開館、ワイドのブリジット・バルドーなどの映画があった。今は山陽相互銀行の駐車場。
2010/12/29更新 2008/09/21