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仁
王
堂
町
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笠岡の町が門前町だといわれる由縁は遍照寺、この寺の伽藍の仁王門は現存している。またその寺の由緒は元弘年間(1331ー34)に陶山氏が吉田村から笠岡市内に移転せしめたと伝えられる。遍照寺の総本寺は京都嵯峨野に在る大覚寺である。大覚寺は平安時代に真言宗開祖空海を庇護した嵯峨天皇の開基で、貞観18年(876年)なので少なくともそれ以降に吉田の地に建立されたともであろうが、時期・所在とも不詳、寺にも資料は残っていないか公開はされていない。
当初遍照寺は仁王門が通に面して建てられていたが、明治5年の県庁建設時、戸川陣屋(現岡山市妹尾)を移転させその周辺に幅5.7mの壕を巡らせ、正面道路を幅15m長さ100mとした。このために仁王門は境内で移転となった。さらに昭和五十一年には多宝塔を残して西ノ浜に移転し、町名からも仁王堂が消え中央町となった。(写真は西ノ浜に移転した現在の仁王門)
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笠岡1,873~2,047番地
☆仁王堂町院の馬場 click |
石
橋
町
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石橋(屋)町:東端は真(進・心)入川で、ここに石橋が架かり八軒屋町につづいていた。屋がつく地名は家・屋敷・家並などの意味。この筋に石橋屋という店がありこの屋号からの町名だと説もある。この筋へ小路が3本(広浜屋・胡屋・鞆屋)と仁王堂横丁が連なっている。
(この写真は古城山通りで南から北にむかって八軒屋踏切を見た景色だ。
中央の石柱に石橋町と残るこの柱は、聞くところによればかつてこの路筋の山側中腹に鎮座していた「金毘羅宮」の注連柱だそうだ。表には向かって右が「安随神明」、左側に「祓穢塵心」と刻まれている。この金比羅宮の移転先は威徳寺のある龍王山の東麓で、秋葉宮と共に現存する。)
☆2009/09/22 石橋町の尼さん伝 by 「笠岡史談会」会報(広沢氏)
江戸時代のある頃、笠岡は八軒屋町の石橋のほとりに小さな庵があった。浄土宗だったかというが、一人の尼さんが住んでいた。ところが、出家して仏門にはいったこの女性が子供を身ごもった。尼さんは悩んだあげくついに自殺したという。
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殿
川
町
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殿川町:殿は外の意味で、陶山氏の居館の城濠の外側に在る町。
現在では「隅田川」という名前が定着しているが、隅田川の下流が「殿川」と呼ばれたとの説あり。現在は、「隅田川」が海に注ぐ手前では「鬮場川」の名前がJR橋梁の横桁に書かれているのが確認可。
旧市街地には「千市町」「紅屋町」「洲崎町」「大玄町」などの地域があった。区画整理も完成し町名変更によってこの地域はすべて「中央町」の名前に括られてしまった(洲崎の名前は堆積土でできた地域を連想)。
地名は単に郵便物が配達されるために名称+地番が付されているわけではない。古くから呼び慣れた土地の顔である。
「どちらですか?」「中央町ですよ。」「中央町のどこですか?」「殿川です。」「あっ、わかりました。」という会話になるだろうなぁ~と、、、思う。
<殿川にある五角形地神碑>仁王堂への分かれ道⇒ClickHere
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西
本
町
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西本町:寛文11年(1671)6月の笠岡町地詰帳に記載されている。
天和4年(1684)3月の水野藩検地では「築出屋敷」29筆分3反7畝6歩[1,200坪]宝永4年(1707)8月西本町の浜に新しく造成があり亀川屋蔵屋敷(年貢米の収納倉庫)1反3畝28歩当時の物揚場は明治20年鉄道の敷設工事で埋めたてられた。
『笠岡遊覧恋の浮雲』 天保14年(1843年)当時の街の風情。
「夫より本町筋西の入口、 此のあたり木賃旅籠宿屋茶店多く数多の
女を置き 旅人舟方諸方の放蕩者集る場所にて 賑々しく 暮頃より女
多く脂粉の香 漂ふ様を見る様に思ふて日暮から早出かけたる女等は
蛍のように尻で迷はす」
陶山氏の築いた城下町笠岡は西方から東へ町並みが整備されていった。
当初は、隅田川流域のこの地域一帯に、人が商いを始めモノが集積され
信仰が起こり、規模は小さいが地域の神々が祀られていった。
この一郭を歩いて思うこと。それは祈りの場がいたる処にあり驚かされる。
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西本町をあるく⇒ClickHere |
川
辺
屋
町
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川辺屋町:隅田川を挟んで殿川町と向かい合う町、南北に長く北は追分までを川辺屋町に含まれている。(南北につづいていた。)
屋がつく地名は家・屋敷・家並などの意味。隅田川沿いに家屋敷が軒を並べて出来た町だと解るネーミングである。
この写真で洲崎橋を渡った左側が川辺屋町、手前は殿川町である。
洲崎という地名のとおりこの辺りが隅田川の河口があり堆積土で洲ができていたと云われている。つまり笠岡の町はこの写真から手前は海が迫っていた。
そんな地形を想像させるのが、「笠岡には西と東に分かれて町があり、八幡平(はちまんびら)まで舟に乗って行ってた時代があったと聞いている。」という昔話を聞いたことがある。ハナシをしてくれたのは戦前生まれの男性、代々宮地に住んで聞いた話がどの先祖がどこの舟着き場から舟に乗ったのかは解らない。おそらくは今の浜田あたりにも海が来ていたにちがいない。
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八
軒
屋
町
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八軒屋町:商家が八軒並んでいたから命名されたと語り継がれている。古くは「胡町」と呼ばれていたのであろう。いまの東本町、恵比寿通り商店街にはアーケードを挟んで商店街となっているが、この通の東口に、胡神社(現在は高おう神社の境内別社)があった。右の写真の道筋と踏切を渡った奥側(北側:古城山通り)で交差する。
八軒屋という名前は、現在この踏切に唯一残っている(写真中央)。八軒屋町は西は真(進・心)入川で石橋町と接し、東はこの右の写真道路よりさらに東にある薬師堂あたりで伏越町に接していた。(広義には大磯迄)安永4年(1775)以降、未新田が完成し南はこの八軒屋町に接した。(明治中期、八軒屋に基督教会が創建。⇒ 再建ClickHere)
この通りを南北に横切る路地(地図002)「助市小路」と「地蔵小路」は現存する。助市という親孝行な商家(紺屋)の息子さんがいたという伝承と、地蔵堂にはそのまま祠が道路の脇に祀られている。商家の蔵屋敷が残るのはJRが波止の埋めたてを走り、以前はここで物資の荷揚げが盛んにおこなわれ漁具・穀物・鮮魚など卸問屋が軒をつらね活況を呈していた。助市小路Click
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現東本町の1~2丁目で宮地川から石橋町への道筋とその裏道をいう。笠岡2,175~2,333番地 |
浜
田
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浜田:塩づくりの塩田に関係する土地が多く、かっては字の如く浜に面した田があった場所である。
区画工事に中本町裏通りから古墳時代の製塩跡を発掘1500年前、本町は浜の波うち際で、そこで塩つくりがおこなわれていたことが判明した。浜田の境界線から30mの地点である。
浜田の西側には陣屋から南下し八軒屋筋を横切り未新田で海に注ぐ真入川(しんにゅうがわ)が流れていた。いま、陣屋跡の外濠には「せせらぎの道」を人工的な流水が還流し、その水には錦鯉が放流されている。
一方、真入川のほとんどが埋設管に形を変えて道路の下に隠された。
ただその流れの一部は地表を流れているとのハナシを聞いて、その場所にカメラを持ってでかけていった。場所は八軒屋町から北へ浄心寺と妙乗寺の間の道の東の側溝として残っていた。今は夏で雨水もなく川が底見え状態だったがこの水路を海から海水が逆流・冠水することもあるという。 |

笠岡2,048~2,178番地 |
小
丸
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字小丸:今でも字小丸という地名が存在するかどうか、不明。
ネット検索すると、真っ先に小田県庁跡がヒットした。
笠岡市役所のHPだ。『現在の笠岡小学校の敷地が、小田県庁の跡である。以前は三方を堀で囲んでいたが、平成の時代になって堀を埋め立て「せせらぎ水路」として整備した。現在残っているのは、県庁当時の門だけである。
県庁の正門として、都宇郡妹尾村(現岡山市妹尾)の戸川陣屋の長屋門を移築したため、軒丸瓦の紋様には戸川氏の家紋「三本杉」が使われている。この門は今なお笠岡小学校正門として親しまれている。
ちなみに笠岡に県庁があったのは、明治4年(1871)11月から明治8年(1875)12月までの間で、権令は矢野光儀(みつのり)であった。』
なお、県庁の前は江戸幕府の代官所があった。
小丸という地名は小高い山に付される命名、笠岡では現在の小学校を含め北方の裁判所近隣も小丸の範囲にはいっている。 小田県庁跡Click
☆2010/11/10 笠岡代官所跡(小田県庁跡と同じ処) ⇒ ClickHere |

十二社から「陣屋稲荷社」⇒ ClickHere
笠岡1,690~1,872番地狼渓の出口から西にかけての山麓 |
未
新
田
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未新田:安永4年(1775)に港内の東半分、真入川の川口から
東の古城山下まで埋めたてられて陸地となり、西の堤防の
南端には住吉宮を祀る(現在は高おう神社に合祀)。
安永4年12月、未年の完成(検地受)であったので、未新田と呼ばれた。同年12月の新田検地帳に、3町4反7畝15歩が記載されている。堤防・遊水池を加えると4町歩程度の広さである。
明治24年(1891)山陽鉄道の線路、駅の開設のため物揚げ場に接する部分が埋めたてられ、明治以降の市街化にともない住吉町と呼ばれるようになった。この住吉という地名は非公式な呼称だが、国道2号線の信号機には「住吉」の名盤が表示されている(右写真中央の信号機横)。
笠岡の港には「西・中・東破戸(今様にいえば波止か?)」の三本の桟橋が用意されており、東破戸には未新田に渡る「白津橋」が架けられていた。
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笠岡2,387~2,485番地 |
西
ノ
浜
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西ノ浜:弘化2年(1847)12月の新田の検地帳に3町3反4畝18歩と記されている。
新田の堤防は称念寺の東南角から川に沿って下り、市民病院側の道路を北の金崎山に結んだ線に築かれた。現在その跡は見えないが、朝倉稲荷の一角に僅かな汚水だまりがこのってる。
朝倉稲荷宮は現存、境内には「朝倉稲荷神社壱百年記念」碑が立つ。
その建立の年月日が昭和9年(1934)1月1日、逆算すると1834年、天保5年となる。朝倉稲荷社は埋めたて工事のかなり早い時期の建立か。
西ノ浜新田の完成には、六道稲荷を祀り六道新田と呼ばれていた。現在は西の天神社の境内に移されている。その由緒によれば、「六造正一位稲荷社は干拓地の六造新田に祭紀されていたが明治後半に信者の方々によりこの北八幡社の境内に移設され今日に至る。祭神は善神六造正一位稲荷大明神で身を修めれば五穀豊穣、商売繁盛、福徳円満、交通安全家内安全、大願成就の御神徳をいただける。」と刻まれている。
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北八幡宮境内別社「六造稲荷社」⇒ClickHere
西ノ浜干拓後創建「朝庫稲荷社」⇒ClickHere |
正
寿
場
町
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正寿場町:古くは正寿庵町、正寿屋町で明治以降に正寿場町。
正寿庵町という命名は庵寺があった名残であろうか。江戸時代には種々の商家が立ち並び、商い活況から商事場といわれたという言い伝えもある。北は川辺屋町、南は西本町に接し、風呂屋町とも呼ばれたようだ。
幕末の頃、根岸兵弥(ひょうや)いう中年の剣客がこの町に道場を開いた。以前は福山藩へ仕官の身分であったが、笠岡に移住し戸田流の居合いの達人で、その太刀さばきは目にも止まらぬ速さで、門人は笠岡は言うに及ばず遠く井原からも門を叩いたという。その道場の場所は「御韓宮」のすぐそばで、お宮に詣る人の線香の煙が絶えず、道場からの武芸のバンカラ声と線香が常に漂っている町だったとか。(資料出処:笠岡史談会報2号、「笠岡武芸」by広沢澄郎氏)
この「御韓宮」は小さな祠で現在もあり、当時この町に多く住んでいた芸妓・遊女らの信仰を集めていたという。なお、居合いの先生は安永6年8月2日、剣の試合の後遺症で死去、享年76才だった。 |
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正寿場町をあるく⇒ClickHere |
大
磯
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大磯:笠岡の東の入口、伏越の宮地川から東は富岡までの旧水際線。
古城山からの景観の佳さから江戸後期の笠岡二十勝景にも選ばた。
安政5年(1858)の『お夏ケ瀧』(江戸文芸)に書かれた大磯は、
「これより当所東入口、此辺島々渡海に行来多く繁昌の場所なり。磯辺から派手な手掛前垂れて、島田の人の際立った風。(美人も往来を歩いてた♪)在処商人新田のかへり等交易するさまを見て、売買の爰もかしこも市をして、かへるもあればかつくのも在。(商人の賑わい♪)ここより大磯口、真角(まかど)地蔵尊、此処道の曲がりとなれば、まかとゝて道を曲がれば地蔵尊、心まからぬようにさしかね。ここより大磯新町出来、売人職人茶店往来絶え間なく町方よりもかえって繁昌しける。両側の茶店小店も賑はしふ、大磯かしら売るも現きん。(狭い往来だけど両側に店あり!)大磯にとら前られて酒呑は、一寸船乗か出てあしらう。(酒が飲める店もあった♪)」
真角の磯では穴ジャコたくさん採れた。また、この真角から横島の牛の頸までの埋立構想(現在の富岡湾干拓・番町一帯)に着手した人もいた。この伝説は「六条御殿」として残り場所は真角から東へ100mほどか。
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伏越から東へ進むと、大磯への道はここで左へ大きく曲がる。踏切の銘板に「真角」と書かれているのが見える。地名の保存は今やJRと路線バス関係に限定か?2008/08/16 |
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大磯詳細(史談資料)⇒ClickHere |
伏
越
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伏越:笠岡の町から大磯への浜街道がない頃には、伏越の地福寺の手前から応神山に向かって迂回していた。この小径は急峻な坂道で前かがみになり伏すような姿勢で登ったのでフシゴエという。
区画から見ると伏越は八軒屋町の内になったこともあるが、もともとはJR路線の東北の通称上道(うえみち)と呼ばれる場所から応神山の西部にかけての狭い区域だった。現在は埋めたてにより鉄道から南が広くなっている。大磯への浜街道が開かれるころ、真角で道は直角に曲がっていた。この辺の海へ被処刑者の遺骨を「ゴイサレ」(意味は帰ってください)と唱えるて投棄したという。また、真角が難所であったことを示す証として、西寄りの岩肌に「十ばん弘法大師 施主小野里○同遊○」の文字が陰刻されていた。
遍照寺住職の筆によるものと伝えられる。
(この項、笠岡史談会報「笠岡地名考」by 岩山保志氏より引用)
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笠岡617~727番地、笠岡5,901~5,902番地 |