小田郡村誌大河村(おおこう)


吉田川の河口が海に注ぎ込んでいた村だった

地名考

市制までの沿革
  
大河は金浦湾の最奥部に立地する村であり、吉浜干拓以前は水際線があった。現在の笠岡市域への編入までの経過は金浦町と同じ経過。
 明治22年2月 町村制施行により金浦・木之目・吉浜・生江浜・大河の五ケ村が合併し金浦村となり、明治34年2月に町制施行で金浦町となった。
 昭和27年4月1日、笠岡村と合併し笠岡市となった。
 江戸時代後期は文化年間(1812)以降には転封により旗本領地から一橋領へ編入され幕末を迎えた。金浦村の他とは若干異なる経過を持つ。


『備中国古図』(寛永10年)1633年

 この地図では大河村は大川村と表記されて、入海に面している。
 その後、吉浜新田完成によって内陸の村となった。また、元禄13年『備中国小田郡大河村御検地帳』(1700年)以降は大河村と書かれている。

 小字地名にその海の名残があると市史は語る。
 村の地形の広がりがちょうど三角形で底辺部分がくびれている。このくびれが湾入で東側には「磯向」「磯島」があり対岸の西には「浜田」「東浜田」
 「西浜田」があり、海岸地形の名残とその土地利用の反映と解釈される。
 干拓で不要となった浅い池=皿池を田にした地名→「池の内」、新川延長により流域変更により農地→「新川内」
 「鯨」という地名は全国的に見られ、クズ(崩)ラ(接尾語)=地形的に崩れた箇所をいうのが定説だとか、、、、←コジツケのような、、、<私見>
 
 『皇国地誌』(明治9年)の記述で、小字名「宮之谷」
 「地形の小字への反映でまず眼に飛び込んでくるものは、小字宮之谷の細長い形状である。
 大河第一の美田地帯であると語りかけようとしている。そして地誌には字名としてとりあげられており、大河の中心的位置にある」(市史表記ママ)
 



 社(やしろ) 葛城神社

  拝殿地面積 七畝廿弐歩、本村の中央にあり 祭る神一言主命 本村の氏神なり。 ⇒ ClickHere!

 奉納された由緒沿革碑文:鳥居をくぐって右手にあり。

 「葛城神社本宮は延喜式内名神大社に列し大和国葛城(現在は奈良県御所市)に鎮座し一言主大神を奉斎するもので古事記に依ると二十一代
雄略天皇(西暦470年)が葛城山にて狩猟せらるたる時、天皇と同じ象形の現人神が顕れ吾は悪事も一言善事も一言に言離つ神一言主之大神なり
と申し給う。天皇驚き恐懼感激、爾来朝廷の守護神として崇敬祭祀されたりと。
口碑に伝ふ 往古大和国藩士前田某は同国葛城山に鎮座せる葛城大明神を信仰すること厚く一夕霊夢により諸国神祠を順拝せんと行脚し山陽道を
通過適々当地に至り故ありて大河村殿山に小祠を創設し葛城大明神の御分霊を奉齋せり 爾後村民参拝霊威顕著益々尊信旧族コマル、シュウズ、
ムカイ、ミナミ、ヲ、クジラ、トツサこの七氏村民と議りて氏神と尊崇し奉らんと社殿を再建し爾後七氏の謫孫神社経営財産造成に熱心尽力し
定期の祭典怠らざらるも当時大河村中間には海水浸入し随時随時参拝不可能により大祭の期日には暁天に潮を待ちて渡渉し祭事をおこなう
習慣継続せり 其後参拝の不便を感じ氏子協定現在地に新殿修築し移転奉遷せるは文安元年(西暦1,444年)なり。
元禄年間(西暦1,688年)領主水野美作守井出池尻田弐畝八歩を神領とし奉納せられ無年貢地として除地せられたり。
正徳年間(西暦1,711年)領主御代官野田三郎左衛門は当社の霊経赫々たるに感じ石鳥居一基奉納せらたり。
明治三庚午(西暦1,870年)倉敷県神社調査掛小寺好房 出張調査の結果葛城神社と奉称せられたり。
明治五年(西暦1,872年)社格村社と規定せられ大正五年(西暦1,916年)現在本殿社殿を再建益々尊信祭祀を厳粛に執行せり。
 葛城神社奉賛会」 
☆片カナで刻まれた旧族名称について
 市史の資料地名編の「大河村」の小字地名と見比べてみると、小丸、向、南、鯨の4族はそのまま、あと3旧族の名前は合致していない。
 3氏村は消滅or改名か?最終的な移転時期は1,444年なので七氏村民時代はかなりムカシの時代まで遡るかもしれない。
 祭事をおこなうに海水の浸入を避けて潮をみながら渡渉したというのは極めてリアルである。村社となるまでの経緯が口伝として残存し、大和葛城
 (葛城王朝)から綿々とつづく歴史の糸の響きが聞こえてくる社である。


☆飛鳥村の葛城王朝・一言主大神について
「街道をゆく」by 司馬遼太郎(s46.9月刊行)より要約引用 ⇒ 葛城山付近略図ClickHere
 奈良県の大和山麓に葛城山がある。その山の東麓に一言主神社がある。この神社を祭った人々が葛城氏で天孫族によって五世紀には滅んで
 しまった。おなじ時期、鴨氏一族は祭礼を担当していたのかもしれない。この鴨一族から役小角(えんのおづの634-?)が出た。「日本霊異記」に
 「大和の国、葛木の上の郡茅原の村の人なり」とある。小角は葛城の岩窟に住み、葛をたたいてそれを衣服とし、草根木皮を食って暮らすうち、
 葛城山から吉野山まで石の橋をかけてやろうと思いたった。そこで小角は葛城の神霊である一言主神を呼び出して「おのれが橋をかけよ」と命じた。
 かつては鴨族がうやうやしく斎き祀った一言主も仏教の伝来以降は威厳を失い、小角に従った。
 一言主神は地元では「イッコンジンさん」とも呼ばれる。「善きことも一言、悪しきことも一言」という宣託の神で、葛城国家の土着神であった。
 「釈日本紀」に一言主神は雄略天皇と争い土佐に流罪となった。高知では一宮の都佐神社に祀られている。この流罪から三百年後の天平宝字
 八年(764)、葛城の鴨族の巫人のひとりである高賀茂田守(たかがものたもり)が奈良朝廷に奏し土佐から一言主神を呼び戻した。この神祠を
 建てたところが高丘という高台で葛城王朝の宮殿跡だと思われる。第二代綏靖帝(すいぜいてい)の皇居はこの場所であったというし、のちに葛城
 氏の後裔を称した蘇我蝦夷が祖先の祖廟に撰んだ場所がここ、今の一言主神社のある高台、森脇という地であった。」

景色考

  

No. 表題 Title   内容 Contents
001 吉浜から吉田川に沿って北へ歩く(井出池を左に見て左折)  画像みる    ↓
     
周辺情景
  

 吉田川の不思議
 金浦湾に注ぎこむ吉田川を岡山県HPで調べると、等級は二級河川でその水系長5.0Kmとあった。これ以上の詳しい情報は今のところ手元にない。

いままでは名前からして吉田とあるから水源は吉田だろうと、おもっていた。ところが今回、大河村がかっての吉田川の最下流、この村から海へ
注ぎ込んでいた、という市史の記述を読んで改めて地図を眺めたら、、、川の線は大河をさかのぼり東大戸に抜けてそこで止まっている。
吉田まで遡るには小平井を通らなけばいけない。 ⇒ 新たなテーマとしよう♪  吉田川流域踏破すべし!(w)

景色のなかに下り山陽新幹線が笠岡トンネルを抜け金浦トンネルに入るとき、わずか200mの間山間を走るその高架が見えている。
電車が走るときには、風圧ですざまじい音がする。 何故この200mを気中走行させたのか? 騒音問題からいえばもっと走行レベルを掘り下げて
土中走行しておけばデシベル値も改善されたであろう。     

☆吉田川はやっぱり吉田に水源がありました(w) ⇒ Click Here
2008/06/30 この日は梅雨の合間の快晴で日射が厳しく、車で移動しました。
002  葛城神社の社  画像みる    ↓

  東大戸金浦線と平行して山際を走る道路沿いに宮之谷があり葛城宮の社がみえてくる。

乗用車が後ろから来て、追い越していった。車同士だと離合もままならぬ幅員が狭い道路だ。
おまけにこのあたりで雨つぶが落ちてきた。曇天のいつ雨が始まってもおかしくない梅雨空だったから、雨具はちゃんと持っていた。

003
葛城宮参拝 画像みる    ↓

葛城宮

 祭神は「葛城大明神/一言主命」:東西南北の往来人へ語りかけてくるお社

 
拝殿への鳥居の正面に道を挟んで「七夜神社神土」碑が建つ。

由緒 「当水田弐畝八歩は元禄年間領主水野美作守より神領として奉納せられ爾来神田と尊称注連縄を張り清浄管理に努めたりと尚往時腫瘍
に苦しむ者は神田の土を患部に塗布し七夜様に祈願することにより神効顕着全快すると氏子は勿論近隣より参拝祈願する者多く全快の暁は
清浄なる山土を御返しする慣しなり昭和初期まで続行 七夜様の周辺には清浄なる山土が盛られ信仰の面影を留めたり。
茲にその神徳を伝承する為に一隅を以て清域とす。  葛城神社奉賛会 平成三年八月吉日建立 」

領主水野美作守は初代水野勝成の子で在位期間は慶安~承応('1648-1652年)
奉納田が神田として一般庶民のご利益に貢献する例は極めて稀ではないだろうか。少なくともこの笠岡では初見。
本殿はほぼ真南に向かって鎮座し、角地なので西側も道路に面している。その道にも「石竈」が置かれて往来を歩く人々に呼びかけているような
独特の風格と庶民的な友愛心が漂っている。

004
大河の小字図(「笠岡市史」地名編 大河村) 画像みる    ↓

宮之谷の常夜灯


当摩の常夜灯


馬場の地神様
☆注目すべき大河村の小字
  備中国古図(寛永十年1633)大河は大川村と書かれている。当時の金浦湾は西浜村と大下村から用之江・有田・大川村へ向かって湾入し
生江浜と吉浜の地名がない状態である。上図では北にくびれた箇所が干拓新田で、吉田川はこの位置に注ぎ込んでいた。磯向、東浜田、浜田
西浜田の位置である。市史の記述では大河の中心部の美田地帯は宮之内であり、この地に葛城神社が鎮座していると書かれている。
 わたしが注目するのは、まず
 馬場という地名、中世の山城の周辺にみられる馬場という地名が大河に存在する。
 柏崎、この地が粕崎と呼ばれていた地点であろうか。金浦の碑文に刻まれた「おきつ風 波たつぺくもふかぬよに かねの浦より出る海士舟」
 の歌が詠まれた場所だとする説がある。以下、「よしはま物語」より。
 『粕崎(かねざき)というのは、吉浜の北に隣接する大河の南端にある小部落で、土地の人は「カツサキ」と呼んでいる。粕崎いう地名は、海岸に
  面した山麓を意味するものである。むかしはここを、金の浦(かねのうら)と呼んでいたのかも知れない。鉱山採掘の跡がのこっている。』
 金山、吉浜に銀山(ぎんざん)なる地名があるが、ここの地名の音読はきんざんではあるまい。ここから金が採掘されておれば、金の浦という
 地名が粕崎にぴったりかさなる。現在の金浦という地名の語源となる場所と思われる。
 当摩・中当摩、陶山氏の出自を連想させる地名。 ClickHere ⇒ 自性院訪問記
 自性院の御住職の話によると、陶山氏は桓武天皇を祖とする平家一門の武士集団であり、その祖先たちは奈良葛城郷の當麻寺(たいまでら)
 の近隣に定住していた。平安時代の末期、出雲地方に戦があるというので一族郎党、そこで功名をあげようと郷をでて出雲へ下った。出雲の戦
 いでは陶山一族が組みした方が勝利をおさめ、その恩賞として一族は笠岡に領地をもらった。
 この当麻という地名が、この大河の他に金浦と吉浜の三箇所に残っている。地名は混乱を避けるために同一名称は避けられるものだ。まして村
 域を超えて同じ地名があるという事は、、、、ある時期にそれらは繋がっていた地域だった。と考えるべきであろう。要考察の事項である。
 宮之谷 葛城神社の鎮座する聖地である。神社縁起には「往古大和国藩士前田某。。。。」とあるが陶山氏とのつながりはないのであろうか?
 これも今後の考察課題である。
 大谷、宮之谷の隣に大谷がある。どこにでもある名前ではあるが、金浦と木之目には陶山義高臣大谷藤太夫邸跡にちなむ大谷がある。
 この大河にある大谷は偶然だろうか?

☆2010/11/06 宮之谷散策
 笠岡市史の云う大河一番の美田地帯「宮之谷」を歩いた。
葛城神社の西側の緩やかな道を北に向かって歩くと左手に常夜灯が建っていた。刻まれた銘もなく何時、誰が、何のために建てたのか現状で
は不明。近くで耕耘機をトラックに乗せようと作業中の人に尋ねると、大河から大戸へと抜ける貫道はこの道ではなく葛城神社の東側の道だと、
教えられた。四ツ堂があったが自然崩壊したそうだ。とは云っても常夜灯が建つくらいなので往時はかなりの人通りがあったに違いない。
粕崎(かつざき)の所在を尋ねると神社の西側、5軒目の家までの地域。馬場なる地名はその昔、成羽に勤める黒田元右衛門なる人物の屋敷が
あり、乗馬にて登城していたという言い伝えが残る。小丸に住む分限者の土地には不涸れの井戸があってどの家よりもいい暮らしをしていた。
葛城神社はその昔、対面の殿山(とのやま)に祠があり、そこに祭られていたのを今の場所へ移転したという。宮之谷は山の水が注ぎ地崩れが
頻発、昔山の上から流れてきた土砂に交じって五輪塔の一部と思われる石が田圃に流されてきた。そのひとつが常夜灯の処にある丸い石です。
名前を尋ねるとシミズさんと名乗られた。

☆2010/11/08 粕崎~当摩、馬場~西之平散策
 粕崎(かつさき)という地名もあまり地元では知られてないようだ。 ⇒ 宮之谷常夜灯
カツザキから迫(さこ)へ抜ける間道がある。よしはま物語に紹介されている第二の常夜灯を探して歩いた。
当摩常夜灯 
カツサキから迫へ抜ける道の峠の塔には「金比羅大権現常夜灯 元治元年子十二月調之、講中」 と彫られている。
          元治元年は1864年、地元の方は舟の航行をたすけるためだと説明してくれたが、吉浜汐留後すでに二百年が経っており、代々
          この位置に燈台の役目をする燈籠があったかどうかは立証ができない。「よしはま物語」掲載の写真は舗装道路になっていない。
馬場の地神さま 葛城神社の西側を北に上る小道がある。
          馬場、西之平へと続く道で上り切ると平坦地となりそこに地神さまを祭る小祀と薬師如来等の石仏を祀るお堂が立っている。
          黒田家の墓所があって、地元の方の伝承だと福岡藩黒田家の係累の方がこの地に転入してきたという。馬場という地名もここに
          小さなお城があったという伝承を伝えるものかも知れない。地神様と書かれた木札の祠には白い丸い石が祀られていた。
2010/11/06更新 2008/06/26