「世の中は さらに宗祇の やどりかな」
 (世の中盤 さらに宗祇乃 やと耳哉)
(芭蕉 笈の日記にはこの句はなくて、
”世にふるもさらに宗祇のやどりかな”が掲載とか
 by 藤井寿幸著「おやこんなところにこんなものが」で指摘されている。)
安永八年(1779)三月、丸山株周が建立
別名 「鏡石」という
休石
西国へくだり侍りし時、備中の国かさおかにて
「山松のかけやうきみる 夏のうみ」
連歌師宗祇は明応三年(1494)三月
弟子の宗長、宗作を連れて山口へ向かう途中
笠岡の陶山一族訪ねて詠む。

寛保二年(1742)三月、江草南江が建立


現古城山公園の碑文の岡を歩く


↓↓旧くは『海松岡』(みるがおか)or『吸江山』or『高松の城山』という

地名考

 

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飯尾宗



飯尾宗祇
宗祇(そうぎ、1421年(応永28年)-1502年9月1日(文亀2年7月30日))は、室町時代の連歌師。号は自然斎、種玉庵。姓は飯尾というが定かではない。生国は、紀伊とも近江とも言われている。
応仁の乱以後、古典復興の気運が高まり、地方豪族、特に国人領主層に京都文化への関心と連歌の大流行が見られた。宗祇は、連歌本来の伝統である技巧的な句風に『新古今和歌集』以来の中世の美意識である「長(たけ)高く幽玄にして有心(うしん)なる心」を表現した。全国的な連歌の流行とともに、宗祇やその一門の活動もあり、この時代は連歌の黄金期であった。
連歌の作品として『水無瀬三吟百韻』、『湯山三吟百韻』、『葉守千句』があり、句集に『萱草』(わすれぐさ)、『老葉』(わくらば)、『下草』(したくさ)、紀行文に『白河紀行』、『筑紫道記』(つくしみちのき)、連歌論に『吾妻問答』、『浅茅』などがあり、古典の注釈書も多い。和歌の西行、俳句の松尾芭蕉とともに連歌を代表する漂泊の人である。

☆2008/08/26『笠岡史談』by岩山保志氏
 
 句碑銘では岡山県下最古(意味不明?)。碑には宗祇が明応三年(1494)に来賓とあるが、それは「新撰莬玖波集」から推察したもので、実際は文明十二年(1480)「初篇老葉(わくらば)」によれば、来笠の時とされる。
松尾芭蕉鏡石 松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日))は、現在の三重県伊賀市出身の江戸時代前期の俳諧師。幼名は金作。通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎。名は宗房。俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立し、俳聖と呼ばれる。芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文『奥の細道』がある。
伊賀国(現在の三重県伊賀市)で、松尾与左衛門と妻・梅の次男として生まれる。松尾家は、農業を業としていたが、松尾の苗字を持つ家柄だった。出生地には、赤坂(現在の伊賀市上野赤坂町)説と柘植(現在の伊賀市柘植)説の2説がある。これは、芭蕉の出生前後に松尾家が柘植から赤坂へ引っ越しをしていて、引っ越しと芭蕉誕生とどちらが先だったかが不明だからである。
若くして、伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕え、2歳年上の良忠とともに北村季吟に師事して俳諧の道に入った。1666年に良忠が歿するとともに仕官を退く。1672年、処女句集『貝おほひ』を上野天満宮(三重県伊賀市)に奉納。1675年に江戸に下り、神田上水の工事に携わった後、1678年に宗匠となり、職業的な俳諧師となった。1680年に深川に草庵を結ぶ。門人の李下から芭蕉を贈られ、芭蕉の木を一株植えたのが大いに茂ったので「芭蕉庵」と名付けた。
平松措
大句碑


平松措大 : ひらまつそだい, 1898~1986
明治三十一年、岡山県笠岡市生に生まれ。阿波野青畝と同学年。京都帝大法学部を卒業し、高校の教師となった。俳誌「さぎり」を発行。
家庭的には苦労した人で、若くして妻が入院療養生活に入り、男手で三人の息子を育てた。妻の死後、公職を退いて俳句専業となったときは四十代半ばだった。
 『措大句集』の巻末には、虚子選に入った妻の二句と、文学に志し十六歳のときホトトギス雑詠に入選した長男の一句を掲載した。措大は亡妻について、「結婚生活僅か五年で発狂し、三幼児は固より一切の肉親から八年余りも隔離されたまゝ病院で死亡した安子が、私に嫁ぐ前に一番心配してゐた事は俳句の点で夫たる私に随いて行けるかどうかといふ一事であつた」と書いている。

 


「鰯追う はまちの浪も 朝景色」
木山捷平の詩碑 
明治37(1904)~昭和43(1968)

 木山捷平は、明治37年岡山県小田郡新山村に生まれた。 県立矢掛中学校在学中から詩・短歌・俳句などを創作、『文章倶楽部』その他の雑誌に投稿した。 姫路師範学校第2部卒業後、大正12年から小学校で教鞭をとりながら詩作に励んだ。大正14年上京して東洋大学専門学部文化学科に入学。 赤松月船主催の詩集『朝』の同人となった。 昭和8年太宰治、大鹿卓らと同人誌『海豹』を創刊し同誌に小説を発表、以後小説家としての道を歩み、昭和38年『大陸の細道』で芸術選奨文部大臣賞を受賞した。

【サイト内リンク】新賀村「文豪 木山捷平」の生家 ⇒ ClickHere

「杉山の松」

杉山をとほりて
杉山の中に
一本松を見出でたり。

あたりの杉に交つて
あたりの杉のやうに
まつすぐに立つてゐるその姿

その姿がどうもをかしかりけり。


(『メクラとチンバ』所収) 


清水比庵の歌碑 書家、歌人。現高梁市荒神町に生まれる。比庵は号で本名は秀。高梁中学校、第六高等学校を経て明治四十一年(1908)京都帝国大学法学部を卒業。卒業後は司法官として神戸地方裁判所へ勤務、退官後は安田銀行、古河電機工業会社などに勤めた。昭和五年(1930)栃木県日光町(現日光市)から懇請をうけて町長に就任、町長在職中から歌詩「二荒」を発行、書道に執心し、昭和十四年退職すると歌と書に没頭、独自の境地を開拓し、詩趣に富む画を描いた。昭和十七年川合玉堂、清水三溪(比庵の弟)らと野水会を組織、晩年には奥村土牛、小倉遊亀らと有山会を創立、歌誌「窓日」を主宰するなど比庵芸術の幅は広く、ゆたかな詩情をたたえ、人の心によびかける主張があった。愛郷心あつく、郷里高梁市をはじめ岡山県下にもしばしば帰って、各地に足跡を残している。著書に「比庵歌・書・画」「紅をもて」がある。昭和四十九年高梁高等学校発行「松籟」の表紙は比庵の書である。

津田白印碑 津田白印(はくいん)は,文久2年 備中笠岡(現笠岡市)の浄土真宗本願寺派 浄心寺住職津田明海の二男に生まれ、本名は明導(めいどう)。明治13年,豊前国(現福岡県豊前市)の浄土真宗大教校 乗桂校に入り,仏教学や漢学を修めます。また長崎派の画家 成富(なるとみ)椿屋(ちんおく)の門に入り,南画を9年間学びました。
その後,明治33年に笠岡の本林寺に孤児収容施設の甘露(かんろ)育児院を創設。34年,前頭部に一塊の白髪があり,かねてから入魂の僧侶 島地黙雷(しまじもくらい)が「白印」の号を贈り,これ以後「白印」と号します。
その後,大正12年には,女子教育普及を目指し淳和女学校を創設しますが,これらの施設の経営が困難を極めたため,画筆で得た全収入を施設の経営維持に当てたと言われます。 昭和21年,85歳で逝去。 生涯にわたり,その無欲な人格と確かな筆致により,気品高く,清澄な印象を与える作品を数多く描き残しました。 雅号は「白印」のほかに「吸江(きゅうこう)」「甘露窟主人(かんろくつしゅじん)」「白道人(はくどうじん)」など。
【サイト内リンク】津田白印伝「甘露院設営」 ⇒ ClickHere
http://www.town.yakage.okayama.jp/new/2007/bizyutukan/hakuin.htm

 
永久不変の真理は平等、無差別でただ一つであることを表す80歳の時の書「一如(いちにょ)」
☆2008/09/06『郷土史愛好G』
一如とは仏教用語で「宇宙に偏在する根本的実態。真如は現れかたはいろいろでも根本は一つ」
高木甲之の句碑 水甕同人高木甲之先生は本名甲一、父為太郎母芳野の長男
明治三十五年五月十五日笠岡市山口に出生す。
矢掛中学校及び廣島縣師範学校を卒業育英に励む後、倉敷市
教育委員会教育長として十五年間在任し勲四等に叙せられ
瑞宝章を受く。
歌集に「輪廻」「鶴形」ほか多数あり。
昭和五十七年十月
有志之を建つ
「ほろほろと
  ふるれはこほす
 白萩のいかすいのちを
 をしえつつちる」
津崎
茘子
句碑
碑文
津崎茘子(つざきれいし)
本名 博 笠岡に生まれる。
俳人(臼田亜浪門)如月俳句会主宰 慶応義塾大学文学部卒
学徒出陣で陸軍歩兵少尉
山陽新聞記者 財団法人正宗文庫理事
広島矯正管区篤志面接委員協議会理事
全国篤志面接委員会岡山刑務所会長
法務大臣表彰藍綬褒章勲五等瑞宝章従六位
笠岡中央公民会講師(昭和五十四年~平成十四年)
瀬戸内老人大学校講師(昭和五十二年~平成十四年)

『冬日落つ

  白波のうみ

   しまゑあり』


仁力
or




句碑
笠岡港東浜組の浜仲仕で力が強く「大仁力」「鬼力」と名づけられていた。

☆2008/08/26『笠岡史談』by岩山保志氏
 未新田の旧敷島紡績時計台の西側に住んでいた富士野某はあだ名を「大仁力」といった。
老年になって白髯(しろひげ)が印象的で、城山の史跡宣伝に努めた功績を称えられて、句碑が立った。

☆2008/09/06『郷土史愛好G』

 本名富士野守三郎、笠岡東浜組の仲仕。古城山登山道下で茶店を開いていた。相撲が強く興行番付に出ていたという。歌の作者・施主は不明。筆者の直木とは、本名田中章一、笠岡高女、金光学園の國語・書道の教師。
『大仁力能
  あか支 許々ろも
        強き名毛
 世々尓朽ち世ぬ
  閑多美那里希利』

(おにりきの
  あかき こころも
        つよきなも
  よよにくちせぬ
    かたみなりけり)


 

No. 公園ガイド   内容 Contents
001 古城山公園文学碑めぐり略図  画像みる    ↓
     
 
 読み人知らずの『古城山公園文学碑めぐり略図』
 古城山の頂上設置されている。
 この案内板が登山口ではなくここに在るのは、「平素から徒歩登山者がいない」ことを如実に物語っている。
 登山口で案内すべきだし、案内表示をした当事者は記名すべきだろう。
 そして何故この公園に碑文を集めるこのになったのか、その経緯ぐらい知りたく思う。

002  市都市計画課設置の公園案内板  画像みる    ↓
 ☆2008/09/06『郷土史愛好G』
  
  笠岡城は江戸幕府二代将軍「徳川秀忠」の時代に発令された「一国一城令」により取利壊された。
 その時代ははっきりとはわからないが、元和三ー四年(1617-1618)頃かとおもわれる。
 明治40年(1907)未新田の埋めたてのために切りさげられ、その遺構はほとんど消滅した。その中で、南側の斜面に僅かに石垣
 跡が残るのと、笠岡城の城門が小平井の「乗福寺」の山門として移されて残っている。


【サイト内リンク】 笠岡城に残る石垣 ⇒ ClickHere

2009/09/26更新 2008/06/19