Kasaoka 古城山公園
笠岡という土地で、江戸時代以降の歴史に最も顔を出すスポット
公園内の案内板:標高68mの吸江山を登りつめて頂上の広場に至るコーナーに設置
伝承
拝標高約七十米、古くから内海の景勝地として知られる、もとは海中の一孤島とも、応神山と連続していたとも伝えられる。
別名、「海松(みる)が丘」、「吸江山」、「高松の城山」といわれた。
笠岡城 -------⇒ 唯一今に残る南側の城郭の石垣
弘治年間(1553-1558)に能島村上水軍の一族、村上隆重が笠岡城を築城、
隆重は能島村上水軍の頭領である村上武吉の叔父にあたる人物である。 はじめは宗勝と名乗っていたが、小早川隆景の旗下にはいってから
隆重と改名した。笠岡城は能島城の出城ということで、名目上の城主は武吉だったが実際は隆重が城主として常駐していたと思われる。
隆重の生年は不詳、死亡年は「小田物語」で天正3年(1575)となっている。
隆重の嗣子が景広で弘治元年(1555)の出生、慶長4年(1599)に毛利元康の笠岡領有で、景広が周防国に所替えになるまでの間、村上父子の
笠岡支配は60~70年にわたって続いたと推定される。
「水野記」の「備中国小田郡後月郡社寺」の項で威徳寺・寿正院・東八幡宮・北八幡宮・天神社・地福寺・南昌院および西浜や神島の社寺にたいし
村上隆重・景広が社寺領を寄進したことが載っている。
文禄4年(1595)毛利家の領地替えで、小田・甲弩・走出・山口・新賀・関戸は毛利輝元の直轄地(蔵入地)となる。
慶長3年(1598)上記の領土は備後深津の城主毛利元康に与えれた。
翌慶長4年(1599)、毛利元康が笠岡城へ入城す。 → 新たに築城を計画 =西の浜の漁師を魚渚(いおすな)へ移住させる。
要害のための堀を造る目的であったが、関ヶ原の合戦で頓挫する。
慶長5年(1600)関ヶ原の合戦
関が原合戦後、徳川家康の所領となり、代官小堀新助が入城。
元和二年(1616)池田備中守長幸の居城。
元和五年(1619)松山城(高梁市)に移り笠岡城は廃城となった。

(その後の経過)水野時代 福山市史より抜粋:福山藩の成立、徳川幕府時代の福山。-------⇒ 城主なき城のまま
元和5年(1619年)、家康とは母方の従兄弟関係であり親藩大名だった水野勝成が大和郡山より福山へ移封となる。 勝成は当時56才、7/22に移封通知を受け
海路にて南下、8/4に鞆津上陸後、神辺福島丹波旧邸(神辺城)へはいった。 神辺城は天文7年(1538)、天文18年(1549)、永禄12年(1569)の攻防で落城していること(山陽道という基幹道路に近い場所は敵からの攻撃を受けた ときの対応のリスクが高いこと)、さらに当時の物流交通は海上に重点が移行していた。 つまり年貢米の大阪回送など船による瀬戸内回送が主流であり、水際線に面していない神辺よりは福山が城下町にふさわしいとの決定が下された。 築城は候補地のなかから野上村常興寺山が選ばれ、幕府からは絵図面割師・石垣奉行などの人的援助と御助力として12,600両と銀380貫の借入れ 金、加えて豊臣家ゆかりの伏見城の拝領品の櫓・ご門・御殿・など建造物の下知を受けた。 当時の芦田川の本流は本庄高崎の端から神島にあたり、おおきく東南に流れを変えていた。当初まず野上新涯を完成させここに移住、造成に際し 灌漑用水池を村内に築造した。この福山城建設工事の竣工はわずか三年後の元和8年(1622)8月15日、勝成が正式に入城したとの記録。 城号は「敵追山(鉄覆山てきおいざん)朱雀院久松城、またの名を葦陽城(いよう)」、それを巡る城下を福山と命名した。 (城が築かれた山を蝙蝠山(こうもりやま)といい蝠の字が福のにながっての命名だという説もあり)
明治四十年(1908)未(ひつじ)新田埋め立てのため切リ下げられ、城の遺構が消滅した。
昭和三十一年(1956)笠岡市の都市公園となる。 笠岡市都市計画課
古城山公園文学碑めぐり -------⇒ ☆まとめてみました(2008/06/19)Cick here
おなじく古城山頂上に設置の案内板(登山口にもおなじ案内があったほうがより親切かと。。。)あがってこなきゃあ読めん!(w)。
この略図では国道2号線から登山口への道路に入り、入り口でまず「関鳧翁墓」を見る。
九十九折になった登山道を登り、三番目のヘアピンカーブを過ぎたあたりに、⑨と書いた碑があると表記。 ⇒ 高木甲之歌碑
<順路⑨ならば、、、、①をさがすと、宗祇休石(句碑)になっている。
九十九折の高木甲之歌碑を最後に見ようと思ったら、登山道ではない道を頂上まで登らなきゃあいけない????>
それにしても可笑しな案内板だ♪ 以下、順路はともかく数字に沿って碑をたどろう。
① 飯尾宗祇休石(句碑)
② 芭蕉鏡石(句碑)
③ 平松措大句碑
④ 木山捷平詩碑
⑤ 塚原夜潮句碑
⑥ 清水比庵歌碑
⑦ 大仁力歌碑
⑧ 津田白印(一如)碑
番外案内 ⇒ 稲荷マークに破線で「遊歩道」 ●開拓碑 招魂社 衣笠山 あとは 展望台と駐車場。
この案内表示板設置後に、新たに建てられた句碑があったが、それは別として
⑩ 古城山の頂上は「衣笠山」という別称があること。
⑪ この頂上には招魂社(靖国神社の末社?)があること。
⑫ 開拓碑なるものの建立
宗祇の休石と芭蕉の句、さらには笠岡川柳愛好家の手になる川柳公園等が在ることは知っていたが、⑩~⑫項は初めて知った。

☆2008/08/26 古城山の地から消えていった遺跡 by 岩山保志氏 fm「笠岡史談」会報
[龍の観音] 古城山の南東中腹。 ⇒ 所在地を示す古地図がありましたよ(2011/08/25)ClickHere
宗祇・芭蕉の句碑を平坦に南に歩き藪を過ぎると道下に真言宗派巌蔵寺(がんぞうじ)が建っていた(今はナシ)。
この付近にお寺にかかわる観音堂があった。この観音は西浜の漁師たちが信仰していたが、彼らが金浦へ集団移住後に衰退し、跡形なし。
[旧金刀比羅宮] 国道2号線のトンネルの西口付近にかっては十数段の急な階段があった。
この階段を昇りきったところに金刀比羅宮があった。 沖仲仕東浜組の信心が厚かったので、社は東浜組の寄場の東に移された。
華表は額石だけ残して、本体は笠岡の堂上地内秋葉宮の前に建っている。
(額石は朝庫稲荷社にある)
[雲碩庵] 古城山の北西の麓。
享保年間(1716-1736)に浄土宗の僧天頂の建立した草庵。 本尊は観世音菩薩。
現在では俗家に転用せられている。その墓地は洲崎町の浄土宗寺院「智光寺」の所有。 ---*--- ⇒ Click Here
☆2008/09/07 古城山の地から消えていった遺跡II by 『おや こんなところにこんなものが』 郷土史愛好グループ
[城山不動院] 登り口を左へ分岐、小径を分け入る
民間信仰の祈りの場、建屋がありそのなかには岩肌を掘り込んだ本殿があり、そこに不動明王を祀る。
[十二社] 不動院のすぐ隣、すこし登ったところに在る。
十二社と書かれた木の鳥居が2基並び、ブロックの基礎のうえに小祠が建っている。
病疫退散を願って祀られているのだろうが、いつ頃からあるのかは不明。
[成羽大明神] 古城山公園の頂上、招魂社の奥
右からひだりへ「成羽大明神」と書かれた小さい祠。 この社は笠岡湊の仲仕組のひとたちが祀っていた。
[文政の供養塔] 成羽大明神と隣り合って木立のなかにある。
正面には「南無阿弥陀仏供養」、右面に「文政六年三月日(1823)、右面に「世話人 仁王堂町 常吉」と刻まれている。
[定兼弥九郎之碑]
☆公園を巡る遊歩道があります*------------- ⇒ ☆さがしてみました(2008/09/07) Click Here

☆2009/02/16古城山の再発見
<その後の経過>
『おや こんなところにこんなものが』 郷土史愛好グループのリーダーであり編集・執筆をされたFさんに幸運にもお会する機会を得て、
ずいぶんいろんな史実をお教えいただいた。
1-住吉神社はかっては古城山の西麗に鎮座されていた。その名残が古城山公園下の八軒屋踏切へ古城山遂道西口から抜ける道路にい
まも 注連柱が残っている。 また、住吉神社の場所が記されている当時の市街地図を見せていただいた。 → Click Here
2-村上隆重が築城したと伝えられる吸江山「笠岡城」の城門が取り壊しの前に、小平井の乗福寺へ移設されていた。この城門には合戦時
の槍傷が残存すると伝えられる(文献でも「岡山文庫」の写真集のどれかに記載されているのを読んだ記憶)。→ Click Here
3- 「村上水軍史」などの書籍を読んでみたが、笠岡城関係の記述にはHitしなかった。
陶山一族の代27世 高雅が四国讃岐より攻め上ってきた細川頼春の五男讃岐守満氏に竜王山「笠岡城」を無血開城したのが永正3年(1506)
7月である。城への寄手は村上二郎満兼を大将と為して三千余騎兵船五十余艘、防戦の高雅は「城内に疫疾熾(さかん)に流行し、之がため
に城中の士卒此症に罹(かか)り、大半患者たり。壮健の者は百人に満ちず」という状態から7日間の猶予をもらって城を開けた。
刑部高雅の妻は後に吸江山に築城したと伝えられる村上隆重の妹であるとの説もあり、陶山~村上の関係は特別なものであったと推測で
きる。 この後の笠岡の世相も乱世の時流を反映し細川氏に代わった大内氏の支配下となったことだろう。「大内幕下の節は井上伯耆守
春忠城主なり」、と「備中府志」にある。また、この井上伯耆守春忠については、「「里庄町誌」同町鳶ノ尾城(とびのおじょう)の城主大内義高、
城代井上伯耆守忠春とある。陶山氏が笠岡城開城のあと、村上隆重までの間の一時的な城主で笠岡付近の守将。後に小早川家の武将と
して活躍している。(笠岡市史)」 → 井上伯耆守春忠の鳶尾城 ClickHere
永正5(1508)、周防(山口)の大内義興は足利義稙(よしたね)を擁し京都へ入り、将軍義澄を廃す。細川氏(代々備中の守護職)にかわり
管領代になるという展開があり、更には大内氏は天文20年(1551)家臣の陶晴賢に討たれることとなり、毛利元就の台頭となってくる。
この笠岡城が隆重によって具体的に何時築城されたという記録は残ってなく、天文年間(1530年代)だというのが定説のようだ。
村上弾正少弼高重、同嫡八郎左衛門尉景広城主村上父子が笠岡を支配したのは、慶長4年(1599)までの約70年間である。
景広が笠岡を去った理由は毛利家内部の配転により毛利元康が笠岡を領有、そのため村上八郎左衛門尉景広は周防へ移封となった。
村上隆重が笠岡城主となったのは毛利一族の後ろ盾によるもので、毛利の勢力が備中に浸透する時期を勘案しまた古城山の稲富宮
の創建が弘治2年(1556) であることを考慮すると隆重の築城は弘治年間(1555-58)のほうが理屈にあっていると思う。
この村上文書には「笠岡」が「加曽岡」と記述されているらしく興味深い。また隆重より「伏越荒神社」の禰宜・立神権太夫に宛てた永禄
13年(1570)書状があるという(市史)。
「伏越荒神社」とは今は城山に建つ「城山三宝荒神社」のことか?景広が出陣の際に礼拝したという記録があるという。 → ClickHere
4-市史による村上父子の事跡
『水野記』の「備中国小田郡後月郡社寺」の項に、威徳寺・寿正院・東八幡宮・北八幡宮・天神社・地福寺・南昌院および神島や西浜の社寺
に対し社寺領を寄進した。
とくに神島の青岐山朝福寺については、天文十六年のころ村上右近大輔(隆重)より寺領古銭三貫匁を寄す。この高米九石なり、また
慶長二年、同男(むすこ)村上八郎左衛門に至って四石五斗七升六合の地を寄す。同三年毛利大蔵これを没収す。
寄進の対象には「稲富稲荷宮」が入っていないのはこの社が別格なのであろう。
稲富宮には市外の「干鰯仲買人」や海運業関係者からの寄進が多いなかで境内のいしぶみには「小黒崎」という文字が数多く彫られている。
聞けば氏子が小黒崎~西大島に集中している理由(わけ)は村上一族の家臣たちが郷士として野に下った歴史があるという。
小黒崎を訪ねれば村上一族の痕跡が見つかるかもしれない。 → 小黒崎の注連柱 ClickHere
「おや こんなところにこんなものが」によると、稲富稲荷の創建は村上隆重の京都「伏見稲荷」からの勧請で弘治元年(1555)である。
その後、いろんな人々の痕跡が寄進という碑によって現存している。以下、本書に記されている記録を列記してみよう。
文化10年(1813) 9月階段中断にある「使はしめのキツネ像」、「松本屋清齊」・「三谷屋佐助」の寄進。
文化11年(1814)拝殿の鬼瓦の向かって右側に記年、一方の左側には「大島住嶋田源七」の記名。
文化12年(1815)百数十段の階段はこの年3月から翌年8月にかけて築造された。
階段に建つ左右の玉垣は355本を数え、文化12年(1815)から明治8年(1875)まで、東北地方から九州に亙り寄進あり。
文化13年(1816)参道入り口の大鳥居、高さ6.3m、柱間3.6m、笠岡随一で柱銘西側は「備後尾道亀山本助仕綱他十七名」・東側は「戌
歳男四十一名 石工 尾道住 藤川小兵衛」。
文化13年(1816) 左右に建つ常夜石灯には西本町「胡屋佐助」
文政2年(1819) 拝殿再建、地福寺別当「法印大幢上人(だいとう)」・「胡屋」他十名による。宮大工は笠岡在住「山本茂平」「山本修平」
文政3年(1820) 階段の登りきった境内の左手に建つ「百度石」、大戸村「守谷半兵衛」。
文政11年(1828)拝殿の天井画に記された記年号、寄進者は丹州、江州と各国にわたっている。
天保9年(1838)備前焼の左右の狛犬に彫られている年号、ただし台座にある年号は十年後の弘化5年(1848)
天保11年(1840)参道鳥居の背後の「石の反り橋」の築造は九月。
弘化2年(1845)本殿再建、遍照寺第21世「法印瑞明権大僧正」他による。宮大工は笠岡在住「山本茂平」「山本修平」。
弘化4年(1847)石の反り橋の左側の自然石の常夜灯は伏越町中の寄進。
年号不明のもの 「亀台宝珠」の祈念碑、石工「忠三郎」
階段を上った境内の一対の常夜灯、「家運長久・海上安全:胡屋佐助」
拝殿前の一対の常夜灯には、「諸国御客船中安全、海上安全祈願、『八幡丸 長梅屋定七』」
社務所前の自然石の手水石、「奉進・伏越中」
拝殿左奥にある古井戸、市川俊介・藤井駿共著「岡山の城と城跡」に「笠岡城の抜け穴で沖の木之子島につづく」とあり。
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(雑感)稲富稲荷宮は吸江山「笠岡城」の造営と同時に村上隆重により創建された。弘治元年(1555)である。
その後、約260年の時を経て江戸中期の文化年間になってより拝殿再建、階段・玉垣の造営、大鳥居の設置などの修復がおこなわ
れいる。この長いブランクの時代が意味することは何であろう。
当時の笠岡代官は第33代脇坂中務大輔、播州竜野の藩主が兼務しており、家臣による輪番統治下である(1812-1840)。
市史の記述では当時西浜で無運上船積(港湾税を逃れる貨物流通)がひどいのでお上に取り締まるよう要請があった、という記録が
紹介されているだけである。当時の船で流通する荷物も、茶・綿・戎(その他)の三区分である。
境内の存在感のある「亀台宝珠」には干鰯仲買中という文字が刻まれている。干鰯は肥料であって綿栽培には欠かせないとされた。
単なる憶測ではあるが、江戸で寺社奉行に抜擢された竜野藩主脇坂中務大輔(なかつかさたいふ:後に老中となる)の取り計らいで
笠岡への海上貨物が増加し、そのために無運上船取り締まり嘆願の問題につながったのではいだろうか。言葉を換えればそれほど
までに笠岡湊はこの時期に活況を呈した。
稲富稲荷に寄進した玉垣355本からその寄進先別のデータベースを作られた方がいらっしゃる。
「笠岡史談会会報」に掲載された『玉垣は語る by 小見山熊夫氏』の論文より、
玉垣355本のうち数の多い順に、1-筑前(福岡)69本、うち27本は小倉の在従者。2-播州(兵庫)37本、豊後(大分)、長州(山口
)24本、肥前(長崎)22本、、、、などなど実に二府十八県・三十二国にわたる。全国が六十余州のうちほぼ半分を占めている。
地元はどうかというと、備中12本、備前6本、備後9本となっている。
日本海廻りの北前船の寄港地からの寄進をみると、出羽国本庄よりコンブ・米・鰊カス・秋田杉、佐渡・能登・加賀・丹後由良・佐伯
雲州松江からの特産品など、笠岡港が種々の荷物で賑わったことであろう。」
この稲富神社の盛衰が笠岡港の隆盛を映しているのであろう。
笠岡港は播州竜野藩主代官預かり時代、大いに隆盛をきわめた。
5-伏越薬師堂 と えびす社
稲富稲荷の石鳥居横にあるお堂。
祭神は「一畑薬師」を祀り、堂内正面に「薬師如来像」、両脇には二体の石仏を祀る。この薬師堂は元禄十三年(1700)に水野藩改易に
ともなう池田藩の「元禄検地帳」に田頭地蔵堂、宮地阿弥陀堂と共に記載されている。
薬師堂のとなりに小さい祠がある。 この社が「戎社」でもともと八軒屋の商家で商売繁盛を願って祀られていた屋敷神であったらしい。
現在東本町のアーケードのある東口の北側あたりに鎮座しておられたとか。その後、道路改築等、祭主の都合でこの場所へ移設された。
いってみました。 → 薬師堂とえびす社 ClickHere
| No. |
表題 Title |
内容 Contents |
| 001 |
衣笠山からの眺望 |
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1-市中が一望
2-西ノ浜
3-神島大橋
4-旧笠岡湊の一文字
5-舟の難所の女石(めいし:目石とも)
☆句碑は↓
ここClick
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古代のヒトが居城に選ぶ場所的要件
下々が一望できること。下々からは仰ぎ見られる位置にあること。
山城が好んで築かれたのが戦国時代、治世のためというよりもまず戦闘のための要塞としての条件を具備していること。
通信手段として狼煙がまだ使われていただろうから、遠くから目印になる位置を占めていること。特にこの地は南は海がひらけ、晴れた日には遠く四国の山までの眺望が利き、水軍監視台としての機能も具備できていた。
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| 002 |
招魂社 |
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4-笠岡市戦没者芳名碑
昭和47年五月
5-「招魂碑」明治34年十月
6-「日露戦役記念碑」
7-「征清紀念」明治31年五月 |
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頂上に鎮座する靖国社
城の跡=戦場=戦役の鎮魂 ⇒ 靖国神社。
神社の標柱裏面には昭和十五年九月の皇紀二千六百年祝典時に「帝国在郷軍人會笠岡町分會」建之と刻字されてういる。 肝心の左右対称に五文字ずつ書かれた雄渾の文字、が、、、読めない! 向かって⇒右柱 「忠誠は八紘を掩い」でどう?
左柱の下ニ文字は「千載」、右柱二文字は「八紘」、右端に建つ碑文は「忠魂」中央社殿右の碑に「招魂碑」は読めるのだが、、、、
神社にかぎらずニッポンの碑文は漢文・草書体が多い。 ⇒ 左柱 「皇威は千載を輝す」 (2011/11/26)
神社にかぎらずニッポンの碑文は漢文・草書体が多い。
変態仮名で草書体で刻まれた碑文にもまったく手がでない。⇒敬業館では小学生に漢文と草書体の読み書きを最初に教えたとか。
この日亦浅学を恥じ、初心を思い出し改めて手習いに励もうとおもった次第。
九段の靖国は戊辰戦争の戦没者たちの英霊の祭祀から始まった。
笠岡靖国がどんな経緯で祀られ、今日まで継承されているかは判らないが、大東亜戦争の戦没者慰霊碑のほかに境内には
日清・日露戦争記念の石碑があった。
さきの不幸な戦争とは異なり戦勝国であったニッポン時代のこれら二つの戦いは勝ちイクサのゆえに弔い方がちがうのかな?
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003
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開拓魂碑 |
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8-碑文表
9-同裏面
10-満州逃避行地蔵尊 |
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満蒙開拓青年義勇隊:
表面 「とこしえに 月日はてらせ くにのため 散りにし拓友の みたまいしふみ」
裏面 「碑は大島分村大陸錬成隊岡山県報国農場を母体に朝陽屯(第五次)竜爪(六)七虎力(七)舒楽鎮(八)柳樹河(九)天理村並びに
満蒙開拓青年義勇隊開拓田殉難二百数十柱の英霊を合祀するに始まる。」
昭和12年11月30日満洲建國の一翼を担う平和部隊として青少年義勇軍を訓練送出することが國策として決定せられ昭和20年迄に
総数8万6千有余の15~16才の青少年が満州へ送出された。
彼らたちは義勇軍綱領「我等義勇軍は天祖の宏謨を奉し心を一にして追進し身を満洲建國の聖業に捧げ紳明に誓って天皇陛下の大御心に
副ひ奉らんことを期す」を遵奉してひたすら心身をかため世界青史に燦として輝く基礎を着々かためつゝあった。
終戦によって世紀の偉業は屯座し言語に絶した犠牲は永久の礎石として現地に残ったのである
☆満州逃避行地蔵尊 1978年(昭和53年)建立
「せめてもの たむけと志れや 石地蔵 阿えなくちりし あはれをさなご」 by 満州開拓団元団員
日露戦争後、日本の支配下となった満州への農業移民を昭和7年(1932)より政府が国策として積極的に奨励した。
外務省数字によると約27万人が本土から満州へ渡った。岡山県下では2,858人とある。世界恐慌と飢饉発生で東北地方が打撃を受け、政府は
この難局を海外移民策で乗り切ろうとした。
昭和11年(1936)には百万世帯・五百万人の移民を目指す壮大な計画が打ち出されるが、募集が進まず政府は経済的に行き詰まった地域を
モデル地区に指名し「分村」という形で移民策を進めた。
昭和14年(1939)当時の大島地区がそのモデル地区となった。
除虫菊・麦かん真田等の生産が低迷し、備中杜氏の出稼ぎもまた低調となっていた。
昭和16年(1941)、当時の村の助役を団長に20人が先遣隊として浩良に入植、その呼称を「浩良大島開拓団」とした。
その後、団員数は232人にまで増加、壮行式では県知事が団員を激励した。岡山県下で大島地区の他に二地区が「分村」したが、それいがいの
の地区では計画が進まなかった。
現地満州では生活が厳しかった。そして、終戦を迎える。
本土を目指し逃避行がはじまった。引き揚げちゅう68人が死亡、その大半は幼児だった。
終戦記念日の八月十四日、無事生還した元団員らが集い毎年、古城山山頂のこの地蔵尊で慰霊祭がおこなわれる。
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2011/11/26更新 |
2008/06/11 |

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