| 村上隆重の築城とされる笠岡城址(古城山公園) 海松丘(みるがおか)、吸江山(きゅうこうざん)と呼ばれた標高69mの古城山 |
訪問DATE: 2008 04 15~ 頻繁に♪ ![]() |
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| 笠岡城跡(かさおかじょう) 弘治年間(1553-1558)に能島村上水軍の一族、村上隆 重が海松丘(みるがおか)△68.6mに築城したとされる。 この後、隆重の嗣子景広が、慶長4年(1599)に毛利元 康の笠岡領有まで(景広の周防国に所替え)の60~70 年の間、毛利幕下で村上親子の居城となった。 慶長3年(1598)備後深津の城主毛利元康に与えれ、翌 慶長4年(1599)入城、元康は新たに築城を計画し、西の 浜の漁師を魚渚(いおすな)へ移住させる。が、要害のた めの堀を造る目的であったが、関ヶ原の合戦で頓挫。 関が原合戦後、徳川家の所領となり、慶長五年(1600) 12月に小堀新助政次が備中の国奉行として1万4千石を 領し備中松山城へ赴任した。慶長九年3月、政次は急死 その後を息子の小堀政一が嗣いだ。政一は後に遠江守 となったため小堀遠州と呼ばれた。この小堀父子統治の 間、代官山脇九郎右衛門が在番していた。 元和二年(1616)8月、池田備中守長幸が鳥取藩より移封 となって笠岡城へ入城。翌年の2月、小堀遠州の後任と して松山城(高梁市)に移り、笠岡城は廃城となった。 城の南側に残る石垣のみは当時の城壁の一部だと言わ れて伝わっている。 |
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2009/05/04 Created 笠岡城は元和三年(1617)池田備後守長幸が松山城へ移った後廃城となった。その後、明治40年の未新田(ひつじしんでん)埋立の ため土砂が切り下げられて遺構が消滅、古城山の南側斜面に僅かに石垣跡が残るのと、笠岡城の城門が小平井の「乗福寺」の山門 として移されて残っていると言われる (昭和31年に笠岡市の都市公園となる)。 一方、陶山氏が築城したと言われる笠岡山城は古城山の西方に聳える龍王山(△175m)の東麓の威徳寺辺りに居館があった。 いずれの笠岡城も著名な史書には登場することなかったために、その歴史は伝承の域を出ない取り扱いである。 在城した城主たちの氏名とその年代、城郭の図面などの記録はもとより、明治40年以前の古城山の状況写真などの資料もお目に かかったことがない。唯一現存していた小平井「乗福寺」の木造城門も取り壊されて更新されている。 この古城山はかって應神山との峰つづきであったが、伏越で山を切り崩されて現在の地形となったという説もよく聞くが、その年代もは っきりとしない。 しかし時代が下って、徳川の幕領となってより文化・文政年間には笠岡の町は大いに賑わった。その証拠となる富の寄進者たちの 石造(境内石塔・玉垣など)遺跡が城なき古城山公園の北麗に鎮座する「稲富稲荷宮」の境内に数多く残っている。 慶長4年(1599)村上景広が周防へ出た後、備後深津の城主毛利元康が入城。一年後には関ヶ原合戦のため空城となる。 合戦後、徳川家の所領となり、代官小堀新助が入城。在番として小堀の代官山脇九郎右衛門が在城していたという。 その後、元和二年(1616)8月15日に笠岡・小平井・東大戸と旗本岡領だった今立・園井・吉田・甲弩の7ケ村の領有となった 池田備中守長幸(ながよし)が入城。長幸は小堀遠州の残務処理を待って元和三年(1617)2月松山城へ移った。幕府よりこの 時期に出された武家諸法度・一国一城令などにより元和3~4年頃に廃城となったと思われる。by「笠岡市史」第2巻。 |
位置図:笠岡市笠岡(古城山) <笠岡城関係サイト内・リンク> 笠岡周辺中世城郭リスト → ClickHere 笠岡市 鳶ノ子城阯 → ClickHere 笠岡市 西浜城(陶山城)址→ClickHere 里町町 鳶ノ尾城址 → ClickHere 笠岡小平井「乗福寺」山門→ ClickHere |
| 2011/02/09 『「岡山の城と城趾」岡山文庫s43.11刊』by藤井駿・市川俊介著 この城は、元弘元年(1331)陶山藤三義高が領内を巡視したとき、海に浮かぶ小島(笠岡山)をみて、海城として最適な場所として築城した、といわれる。義高の弟陶山高盛もこの 城に在城して、足利氏に属していた。永正二年(1506)に、細川頼春の子満氏が備中征覇の野望を燃やし、部下の村上二郎満兼にこの城を攻めさせた。 天文年中(1532-54)村上水軍の一族村上隆重は勢力をのばすため備後・備前の海岸地帯を攻めた。隆重は笠岡山が海城として絶好の場所であるところから、陶山氏の古城址を大 改修した。そして、この城を根拠にして侵入を始めた。手はじめに笠間市内の村々を攻め、神戸山城主小田氏を攻めたので、小田氏は中谷・広井の両将に命じて山口村(笠岡市)に迎 え撃たせた。この合戦は激烈で、負傷や討ち死した将兵の血で一面に草木が、もえぎ色に染ったから、ここを「萌黄ケ原」と呼ぶようになった、といわれている。 隆重の子景広は、天正四年(1576)、織田信長が石山本願寺(大阪城)を包囲したとき、毛利の水軍として、織田軍の水軍を破って石山城中に兵ろうを運んだ。この城には伝説が多い。 たとえば城内に稲荷宮がある。これは景広が家臣安福某を手打ちにしたところ、毎夜亡霊があらわれ、城兵がつぎつぎと不眠症になって倒れた。この霊魂を慰めるために建立されたも のだそうだ。城内には古井戸があるが、これは城が包囲されたときの逃げ道で、二〇〇〇㍍沖の木之子島に通じているという。 慶長四年(一五九九)備後深津城主毛利元康がこの城に入り、景広はやむなく周防小畑に移った。関ケ原合戦の結果、元康は周防に移り、元和二年(1616)池田長幸が居城したが、 三年後に備中松山城に入ったので廃城となった。 |
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