「笠岡代官所跡」 と歴代奉行と代官リスト
 
笠岡駅下車し直進、県庁通りに交叉する小丸に在る

訪問日: 2010/11/10   その位置: 笠岡市小丸

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 「笠岡市史」によると幕領となった後の笠岡代官所は福山水野藩の笠岡町奉行所の跡に設けられた。
元禄十一年(1698)水野家改易後、岡山藩の総検地を経て新石高が決定された元禄十三年一月になって、備後七郡の総高138,000余石
のうち10万石分を受けて出羽国山形藩の松平氏が入封、備後内の残りはそのまま幕府領となり甲奴郡上下村に代官所が設けられた。
同時に備中分の小田郡27村と後月郡高屋村(石高合計11,464石余)も天領として残され、笠岡に58千石支配の代官所が設けられた。
初代代官として、福山藩遣領を預かっていた三人の代官の一人山木与惣左衛門が任命された。
その配下に入った村は、小田郡では笠岡・西浜・吉浜・生江浜・木之目・大河・大下・用之江・茂平・有田・押撫・篠坂・入田・小平井・広浜・
馬飼・絵師・富岡・横島の19村と、神島内浦・神島外浦・白石島・北木島及び真鍋島(以上24村、現笠岡市内)大江・上稲木・下稲木(以上、
現井原市内)の二七村(島)、後月郡では高屋村の一村である。
このほかに、現市域内にあった天領でそれまで他の代官に支配されていた、今立・園井・新賀・山口・甲弩の各村も、このとき笠岡代官所
の管轄に入ったと思われる。従って小田郡南部で笠岡に近い村では、東大戸・中大戸・西大戸・入田・尾坂の各村などが、私領のままで
笠岡代官の管轄外に置かれたようである。
(市史参照文献:鳥越家所蔵「管轄庁沿革」および田中舜二氏著「笠岡歴代代官来」)以下も同じ

《歴代代官リスト》
☆水野時代は笠岡奉行所
 東清兵衛 元和五年(1619)の水野勝成入部の時期に初代笠岡奉行に着任、寛永七年(1630)まで11年完。笠岡で病死す。
 河上清太夫 寛永八年(1631)から同十三年(1636)まで6年間。 田井助之丞 寛永14年(1637)から正保元年(1644)まで8年間。
 加藤三太夫 寛文九年(1632)から延宝八年(1680)まで、重複あり? 中尾三太左衛門 最後の奉行、改易まで 元禄11年(1698)
☆天領代官
 初代 山本与惣左衛門 元禄十三年五月(1699)〜 同十四年(1700)より、第42代長坂半八郎、慶応四年(1868)解任まで170年間。
 〜第9代遠山半十郎 享保5年ー享保6年(1721)の間、笠岡専業代官
 10代鈴木九太夫 より倉敷代官が兼務〜13代竹田喜左衛門まで 享保9年(1724)〜享保17年(1732)
 14代井戸平左衛門正明 享保17年(1732)〜享保18年(1733)大森・倉敷兼務
  〃 窪島作左衛門     〃                     久世兼務
 15代小林孫四郎 享保18年〜享保19年(1734)倉敷兼務
 16代曽根五兵衛       〜元文五年(1740) ⇒ 28代万年七郎左衛門 までは預かり、赴任、倉敷兼務
 29代蓑 笠之助 天明8年(1788)2月〜7月 大森代官兼務
  〃    早川八郎左衛門     〃     久世代官兼務
 30代早川八郎左衛門     〃     久世代官兼務 〜 32代 山田常右衛門 文化9年(1812)まで久世兼務がつづく
 33代脇坂中務大輔  文化9年(1812)〜天保11年(1840) 播州竜野藩主預かりとなる
 34代高山又蔵 〜 天保13年(1843) より 第41代横田新之丞 〜慶応3年(1867)は倉敷兼務
 <安政6年12月より倉敷代官所が大森代官の預かりとなる>
 42代長坂半八郎、慶応四年(1868)、江戸から赴任し安芸藩接収まで
倉敷代官所支配について(2011/05/06記)
 お隣の倉敷も関ヶ原合戦の後、天領となり小堀政一の支配地となった。慶長19年(1614)大阪冬の陣の兵糧積出しのため倉敷陣屋が
設けられた。寛永19年(1642)寛永19年(1642)倉敷は天領となり、陣屋は代官所となった。初代代官米倉平太夫重種が赴任した。
以後、代官所廃止となった慶応四年(1868)1月まで127年間、この間代官の数は31代(現地赴任者は23人)を数え、備中(倉敷)美作
(久世)讃岐(塩飽諸島)の天領を支配する枢府となった。
特に笠岡代官所との関わりでは、享保六年(1721)笠岡代官第九代遠山半十郎の時代には倉敷は笠岡支配下であったが、寛保元年
(1741)分離独立して城山に代官所陣屋が建設され、更に天保十一年(1840)には倉敷代官所が笠岡代官所をその支配下に置いた。

Created 2010/11/10