☆2011/02/07

絵図中央の山が鍋山か。
現在は造成され春日団地がある。
ここに神功皇后の井戸がある。
紀元1~2世紀の頃からの伝承か
ClickHere⇒『神功の井』
Photo by: S.新谷氏(市内田頭在)
Photo by: S.新谷氏(市内田頭在)

表示順は小字面積の広い地域順

☆2011/02/07 Monday
この池を「新池」という。この土手南側に小祠と石灯籠があり
珍しい地神碑を祀る。

⇒ 地神碑ClickHere
江戸末期の画家。寛政12年(1800)生。近江の人。名は米、字は明啓、別号に少穀・樵谷、通称を松之助・巳之助。彦根藩士であったが、大坂に移り住み画業を営んだ。精妙な花鳥画や、人物・山水を得意とした。安政3年(1856)存。
☆2008/07/01  Click here

応神山踏破~いつの日か決行と
思いつつ、意を決しこの日に登頂。
思った以上に急傾斜あり。
☆2008/07/04 Friday

竜王山に登った。
頂上の八大竜王善社まではなんとか行ったが、古道はおろか車道からの脇道へ分け入るほどの体力は無いなぁ~と体感。


小田郡村誌笠岡村(2)


↓↓↓ 『笠岡市史』 地名編 より転記

地名考

応永19年(1412)の笠岡は陶山庄と呼ばれていた。そして遍照寺には多くの僧侶がいたことが知れ、京都北野社一切経供養に遍照寺僧の名前あり。
文安2年(1445)には「兵庫北関入船納帳」(東大寺の管理による関税徴収帳)に笠岡からの船舶の入港が記録に残る。
ただし、文書記録が残っている時代はおおむね江戸以降となり、室町~鎌倉~平安時代にまで遡る史料が発見されていない。

笠岡各地の地名の復元:明治22年の郡区町村制施行にそなえて、連合戸長役場で『大字図』が作成された(明治20年)。

 1-連合戸長役場『大字図』(明治20年) そのまま現存 21ケ村。
     笠岡 生江浜 木之目 大冝 用之江 茂平 入田 東大戸 新賀 山口 小平井 今立 馬飼 富岡 横島 入江新田 神島内浦
     神島外浦 白石島 大島中 西大島新田

 2-連合戸長役場『大字図』(明治20年)を縮小した昭和28年頃の大字図より復元 4ケ村
     吉田 尾坂 関戸 西大島

 3-国土調査に基づく地区評価図(昭和39~56年)から復元、もっとも小字名は地番を対照して復元・採録 11ケ村
     西浜 吉浜 大河 有田 篠坂 西大戸 甲弩 走出 園井 広浜 絵師

 4-国土調査に基づく大字図(昭和59~63年)から復元、
     押撫 北木島 真鍋島


小字の整理統合:
この表から言えること。上位ほど地名統合が進み、下位になるほど原型のママの推移。






























 笠岡村の小字名:笠岡には字の下位に「町」がある。その経過をたどる。
 
  1-『備中国笠岡町坪地詰帳』 ならしじづめちょう(寛文11年(1671)の検地帳には14の町小字67がある。数値は屋敷数、()は空家数
      胡町29(3)  辻町20(0)  川辺屋町49(9)  石橋屋町88(17)  殿川町44(4)  仁王堂町42(18)  たいけん町22(8)  州崎町17(4)  べにや町8(0)
      たくみや町14(8)  正寿庵町32(14)  西念寺町20(2)  公事場町18(12)  西本町29(4)
      --------→ 合計すると、屋敷数=432軒、うち空屋=103軒、在住屋敷数=329軒 (空きや率:31.3%)
      おなじ史料からの引用で、笠岡町と笠岡村の数字が掲載されている。

        笠岡町  石高  97石1斗9升(14.6tons) 屋敷・田・畠面積 4町3反6畝6歩 (4.4ha) 家数 383軒
        笠岡村      627石8斗7升(94.1tons)           79町2反9畝9歩(78.5ha)     42軒

      職業統計: 檜物屋(8)  大工(20)  鍛冶(3)  紺屋(7)  桶屋(10)  畳屋(1)  神主(1)  禰宜(3)  合計 46軒

  2-『備中国笠岡村町屋敷御検地水帳』(元禄13年(1700)
      西本町  辻町  石橋町  矢掛屋町  仁王堂町  殿川町  大玄町  胡町  浪崎町  川辺屋町  西念寺町 
      風呂屋町  工屋町  正寿屋町
      町分・村分の石高と面積
                        町分  石高 109石4斗4升6合    面積 5町3反2畝20歩
                        村分      916石6斗2升9合        69町6反3畝9歩

  3-その後の推移
      文化7年(1810)  次ぎの10町に集約: 殿川町 大玄町 胡町 紅粉屋町 州崎町 川辺屋町 西念寺町 風呂町町
                                 大工町 正寿庵町。
      『皇国地誌』明治6年(1873) 10字の内7町小字26: 西本町 石橋町 八軒屋町 仁王堂町 殿川町 川辺屋町 正寿場町
                                     町のつかない3字: 伏越 大磯(八軒屋町に属す) 追分(川辺屋町に属す)。

景色考

笠岡市内各所の名勝Point(笠岡二十勝景図)江戸末期の景勝地 ⇒ 八幡神社(笠神社)、笠目山(応神山)

画題  詩歌  往時の風景 現今目線の風景
八幡社
  聞鵑

  by

Unknown
八幡社
我里東八幡宮の社にて宮居かうかうしく松杉いといと神さひたり
このあたりすへて時鳥おほき中にわきて待たんにも聞むにも此処いといとよろし


「よにしのふ
  ねきことなれや郭公
  八幡の森に
   夕かけて啼」
      by 高雅
『鵑』は「ほととぎす」のこと。音読でケン
晩春に啼きその声は哀切。くえん、くえんと啼く声の擬音の字。
『時鳥』 その時節に啼く鳥、ニッポンでは「ほととぎすを当てる。
一方、『郭公』は

さびれたさまのことを「閑古鳥が鳴く」というが、この閑古鳥とはカッコウのことである。古来、日本人はカッコウの鳴き声に物寂しさを感じてたようであり、松尾芭蕉の句にも「憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥」というものがある。
☆笠神社 ⇒ ClickHere
 絵では鬱蒼とした社に見える。
 松と杉がいといと神さびたり。今は
 境内に残るは銀杏が数本宮道の
 下に棚田があるのも変貌してる
☆北八幡社 ⇒ ClickHere

笠目山
   時雨
  by

 西浦
笠目山 
 吾里の東に高く横たはれる山にて吸江山もむかしはこの山との尾崎なりけんをきり開きて往来を通せしかとおほし
 姓氏録笠朝臣のことはまた楢園大人の笠臣考証を引て備中名勝考笠目山の条にこの処ならんかといはれき

「笠目山時雨
 いにしえの御狩
  たたしき大君の
   笠目の山に時雨
    ふるなり」 鳧翁
 
   応神山の八丈岩
 鳧翁曰く。「この山に八丈岩といへるありて遠方よりよくみゆる也」

当時から笠目山を応神山とも呼んでいたし、この山のふもとを宮道(今は宮地)と呼んでいた。同一の山(または海とかの自然の呼称)に名前が二通りある場合、異なる文化(集団)が隣接していたにちがいない。その集団は相互に統一される時期まではそれぞれの呼称を使っていた(と考えられるがどうだろ?
米谷秋花
  
  by

岡本霞嶠
 
米谷

 独松嶺をあなたに下り立たる処にてここは馬飼村の内なれとも我里人の花折きのこかりなと春秋たへす遊へる所なれはとまれかくまれ吾名所といはむもひかことにはあらさるへし

画は岡本霞嶠
通称平吉
吾里の人にて初の名
米谷といへりしも
此処の名によりたるなり
  馬飼村「大字図」に小字『込山』あり
地元では「こめぇ~たに」と呼ばれ
て名勝であった。込⇒米であろう。
近くには白石(しろいし)破石(われ
いし)と石にちなむ地名があって、
この辺りが粗粒の黒雲母花崗岩の
土質による白石景観地だった。
fm: 市史・資料「地名編」
茅原瓜田
画 by
松庵

or
草谷
尾道の人
<註>
石川淵蔵とは関藤藤陰のこと。
作家栗谷川虹氏の同名の著作あり。茅原の場所はどこ?
⇒Click
茅原
小丸山の北の麓田頭まてなる処をいう
そもそも石の子瓜は我里の名産にてこのたね他にうつせは
たちまちかはりてなみなみの瓜となる
これううる処我里数多処なれと此あたりわきておほく花の頃実のころながめも又涼し
味ひのみにあらす

漢詩は石川淵蔵
氏名は章 字君達
号 藤陰 通称渕蔵
吾師関鳧翁の弟也
(藤陰主人章 印)
小丸山の北
田頭までの麓とは?下の小字図でいうと殿川から大久保~狼辺りのことだろうか。絵では山が描かれている。加入堂山かもしれない。大正から昭和にかけて、殿川から北は畑が続く情景だった。井原・矢掛への分岐である追分までの道はゆるやかな登り坂。その麓の斜面が瓜畑になっていたのだろうか。

田間乱蛍


by

饗葉
 泰文山
田頭
 我里の北市中を少しへたてて
田家あまた有
川壱すち中におきて彼面此面の田畑に夏の頃蛍いと多し
田頭と蛍
 隅田川の清流に蛍が生息していたのだろう。隅田川は西ノ浜から西本町~八幡平と北にのぼりこの田頭で東へ曲がる。この絵は南から北を見た絵であろうか。左の山が地元では宮崎山。

ここに「岩塚稲荷宮」がある。
☆2009/02/23 この稲荷社を発見、ClickHere

追分
 池水鳥
by

吉川松谷
追分
田頭より十まちはかり北にて大いなる池有
納涼月見なといとよきのみならすこの池水吾里の田大方をやしなへり

追分は江戸時代から笠岡の町からははずれていたようだ。
その意味で笠岡市外地区(市内はずれ地域)の西域が西浜村、東が大磯、北がこの追分だろう。田頭から十町北へ今でも池が在る。
笠岡旧市内へこの池から隅田川が流れている。笠岡井原線の道路に沿って南流する墨田川に沿ってかっては軽便鉄道が走っていた。
鬮場から大井村への軌道敷の跡は今でも残っている。
この軽便道を歩いた。 ↓
軽便道 ⇒ClickHere
鼓渓梅林

 by

加藤棕蘆
鼓渓
 龍王山を北西の方へおし下ればやかてこの渓間にて鼓石といへるあり
岩間行水の流れいと清く夢はかりのけかれなし
今より四五十年はかり前まては此辺梅花いとおほかりしを彼処の里人としとしに切たやして畑となしつる
この処は木之目村のうちにてかの米谷とひとしくはつかに我里と地を接したり

「木之目村地名編」by 市史
南端にある小字竜王の北側、メトウ岩と大谷から西南へ進めば西浜だわを経て西浜村の峠(たわ)から町の中心部へ出る。またこの谷の古道を右折すれば竜王山の南を経て笠岡の八幡平へ通じる。西浜だわにもどって左に下りると小字「塚の谷」にでる。
この道筋が左の鼓渓に至るのである。
(☆2011/02/20北八幡宮から歩く)

木の目道 ⇒ ClickHere
       
独松嶺
   眺望

 by

海客

(貫名海屋)
独松嶺
 宮地畷(なわて=畦)の辻に一樹のふるき松あり
往来の人畑うつ男ともの憩ふ処にてこの処より海原はるかにうちわたされて景色いとよし

独松嶺逢雨

白雨(ゆうだち)の
はれまをまつのこすえ
より
蝉の声さへ
しくれきにけり
独松の姿は判るが、その周辺の外観がさて何処だろう?と思える絵だ。
松の生えている箇所が宮地であり、この場所と海との位置関係で絵を見ると手前の山は応神山である。
続く海原は大磯だとすれば、その沖に横島もなければ神島もなし。
(描く画面の外側だよ~っ!?)
応神山の裏側を道が伸びているのは小丸南平から馬飼越の街道だろう。
とすれば、画面の一番手前の木の繁るあたりが古城山でその先の木の繁りが笠神社か?
神社の本殿はおろか宮地~浜田~笠岡の町にも一軒の家屋なし。


宮地・馬飼道 ⇒ClickHere
遍照寺
  鐘声

by

馬場竹琴

遍照寺
 光明山金剛院此辺真言宗の本寺にして広く六勝あり

『遍照寺報時鐘』

鐘の音はおなし
ひゝきを
おきよとも寝よとも
人のうえに聞くかな

by 鳧翁

一説には陶山藤三義高が鎌倉時代末期(応長元年(1311)とも元弘元年(1331)ともいわれる)に、吉田村(妙見山の西麓、花操峠の付近か、ここには壇ノ池・ドウドウ池・石塔などの地名が残る)から笠岡仁王堂へ移したといわれる。史実を語る確証なし。
史料として残るのは、応永十九年(1412)に京徒北野の天満宮に一切経の倉があり写経所があった。
そこの大般若経を写したもののなかに
備中国陶山庄笠岡遍照寺の名前と僧
の瑛乗(えいじょう)・宥兼(ゆうけん)・宥真(ゆうしん)・妙安(みょうあん)・覚真(かくしん)・定泉(じょうせん)の署名が残されている。また、陶山庄は陶山氏の荘園だというのが定説。
遍照寺Photo ⇒ClickHere
威徳寺
 観雪



by

Unkown

威徳寺
 笠岡山という禅宗なりこの地山寺にて庭の姿なとわさとならすおかしく作りなして花の頃月の夜なとのなかめよきか
中にも海山かけたる眺望の地にてここよりは我里隈なくみわたされ
とりわけ雪のけしきおもしろき処なり


『威徳禅寺賞雪』
月花をめてし
日数もいつしかと
つもれは雪の
ふるてらの庭
曹洞宗笠岡山威徳寺。
元臨済宗の寺で鎌倉時代に陶山義高が開基したとされる。笠岡山は陶山氏が居城を金浦から移し笠岡山城を置いた所。(笠岡市HPより)

西の山竜王山の麓に在り、境内には陶山一族の山麓に散在し苔むす五輪石を壱ヵ所に集め慰霊する碑文が建っている。
「(前略)戦国の世に城滅びて四百数十年、茲に一門ゆかりの威徳寺の一角に古墓石を集め祀りてその霊を慰めんとす。
願わくば、魂魄この地に鎮まりて城下を守りたまえ。昭和61年5月吉日
笠岡山城を古墓を祀る会」

威徳寺Photo ⇒ClickHere
         
☆サイト内リンク
日付 地域 表題 内訳
2011/02/07 笠岡追分 新池地神祠 追分の新池の南に石の常夜灯がありそのそばに小いさい祠が建っている。この中に珍しい地神碑あり。
2011/02/01 笠岡追分 神功の井 神功皇后が三韓征伐の帰途にお立ち寄りになり御裳を洗われたという伝承の井戸。口碑のみで文書はなし。
2010/11/30 下田頭 下田頭地神碑 自然石型地神碑、現在も地元の方が社日に祀る。場所は県道34号井原笠岡線、中電田頭変電所の西側道路脇。
2008/12/28 宮地 笠神社 明治四年より今の社名、以前は伏越八幡宮、宮地八幡宮、東八幡など 。創建は永禄八年(1565)四月二十五日
2009/04/26 八幡平 北八幡神社 寛永3年(1626)、氏子間の諍いが原因で東八幡神社(現「笠神社」)より分祀「北八幡神社」
2008/07/03 笠岡全域 応神山を歩く 『古へよりこの地、笠岡の人々が日々仰ぎし山』という印象の笠岡の霊山を縦走。この山の正面は北側だと実感。
2009/02/23 上田頭 岩崎稲荷他 「岩塚稲荷宮」と「三社稲荷社」がある。石鳥居の高さは驚くほど低く、稲荷社は石積みの祠に鎮座。
2009/11/02 上田頭 岩塚稲荷古墳 古墳は消滅。稲荷社はごく最近再興されたものだろう。朱塗りの鳥居もピカピカだし祠も真新しい造りである。
2008/05/10 西浜 光明山遍照寺 門前町笠岡の中核寺、伝承によると創建は白鳳期に吉田村、其の後元弘年間(1331ー34)に笠岡へ移転す。
2008/10/19 西浜 笠岡山威徳寺 開山は文保年中(1317-1319)陶山藤三義高の頃で、義高は朱印地として拾三貫を給し菩提寺に定めたと伝う
2008/06/10 笠岡 古城山公園 笠岡遊歩のスタートは茂平散策からはじまって、古城山周辺の散策につながった。史蹟が混在して眠っている


 ☆ 2009/11/02 上田頭の岩崎古墳・岩崎稲荷宮を訪ねる ⇒ ClickHere


No. 表題 Title   内容 Contents
001 笠岡村大字古地図(資料出処:笠岡市史 地名編 『皇国地誌』(明治8年))  画像みる    ↓
     
 
 『笠岡市史』地名編 笠岡村より

 「大久保」→大窪み、「田頭」→谷頭水田(こくとうすいでん)の上限部、「追分」→道路の分岐点(甲弩~矢掛、蛸村峠~井原)。
 信仰・社寺にかかわるもの。「狼」→狼信仰は全国に分布、狼を迎え祀り災害・悪霊をしりぞける信仰。高梁市の木野山神社には狼の石像あり。
 塩が供えられ、明治12年のコレラ流行時には笠岡へ勧請された。
 「三ノ内」→山内(さんない・寺の境内)からの転嫁した仏教地名、「絵下谷」→ゑ下谷・会下谷(修行僧が集まって修行する場所のあったところ)
 「カニワ堂」も堂宇ありし場。
 「高細」「鍋山」→山の形から、高細とは対照的に鍋を伏せた丸みをおびた山への命名で備中には多くみられる。
 「宮地」→宮道とも呼ばれていた神社への参詣道、「小丸南平」「馬飼越」→笠岡・小坂東線という旧い断層線で谷となった交通路。
 
002  軽便鉄道図(井笠鉄道)  画像みる    ↓


 軽便井笠鉄道の歴史
 
 大正から昭和にかけて、笠岡を起点に井原・矢掛が線路でつながっていた。
 JR笠岡駅のホームに立つとかってこの駅から北上する常軌道が敷かれており、笠岡駅から西へ走り2号線の跨線橋をくぐって
 西念寺橋を北に上る。
 県道34号笠岡井原線に沿ってかっての軌道はほぼ原型のまま残っている。
 いつの日がこの跡をたどって、笠岡から矢掛~井原まで歩いてみたいとおもっている。
 この軌道に惹かれるのは、たぶん、当時とおなじ景色を自分で確かめてみたいという願望が強いからだと思っている。
 が、現状では残念ながら脚力がない。
 すこしずつ、鍛錬を積んで踏破できるよう、成就できる日が早く来るように祈っている。

003
吸江山の全景 画像みる    ↓


 吸江山(古城山)、吸江湾(笠岡湾)の由緒ハ不詳: -------⇒ 吸江山散策 ClickHere

 
笠岡商業高校同窓会発行『吸江』第一号の巻頭に記載された命名の由来

 『吸江者、笠岡古城山之別名也。今乃古城山公園、天然之美景備矣。古松鬱然聳蒼穹、白帆翩々入眸中。潮来即沾海城、潮退即現山根。
 恰如山吸江者。又似江吸山者。古人曰、江吸山乎、山吸江乎、蓋吸江之名基干此。(以下略)明治42年2月紀元節後、一日。宇岳定市 』
 「吸江は笠岡古城山の別名なり、今の古城山公園は天然の美景を備えるや。古松そうぜんと、そうきゅうにそびえる。白帆へんぺん(翻って)と
  ひるがえり、視野に映る。潮は満ちて海城をひたし、潮は引きて山根をあらわす。あたかも山が江を吸うがごとし、また江が山を吸うに似る。
  古人いわく、江が山を吸い、江が山を吸う乎、けだし吸江の名はこの干にもとづく。明治42年 宇岳定市」

 別説として「吸江」がチュウゴクの禅匠、馬祖道一の「吸尽西江水」の句だというが、笠岡と禅宗との結びつきの度合いと笠岡とチュウゴクとの
 影響等を勘案すると、この場所に突如としてチュウゴク語ルーツの山が出現するのは不自然だ。

 一方、宇岳定市氏の文章にある「吸江」とはまさにこの地、笠岡の潮の干満の激しさを動かざる山を基点に命名となったのであろう。
 笠岡は瀬戸内の中央に位置し、潮位の差は4~5mに達する。
 古来から湊を中心に発達した笠岡には、潮の動き、流速、転流、潮位、などからの命名である「吸江」の名前がふさわしい。

2011/02/22 更新 2008/11/30