2008/09/09 発見!
道上稲荷:金比羅宮と粟嶋宮の上に在り。当時「夜籠り」信仰があったらしい ⇒ 仮眠地ナリ。
訪問スポット





白岩地蔵尊


勧善寺

西本町

天満宮









威徳寺


粟島神社


金比羅宮






江戸後期、笠岡歩きの文芸作品 ニ題


天保十四年(1843年)五月『笠岡遊覧恋浮雲』ほか一編

地名考

 
笠岡市史 資料中編 by 『近世』の文芸掲載から引用
 
 恋の浮雲の語り手は古城山の鏡岩で女人の虚像を見たあと世を捨てて行脚にでる。
それから十五年の後、「笠岡お夏ケ瀧」という作品が書かれている。よく似たストーリだが、後者ではお夏という女性と語り手の先祖との邂逅の因縁で霊との対話となる。場所はおなじく宗祇の碑文のある古城山公園だ。
筋立てとしては同じだが、二編とも市内名所のガイドプックとしての実用書だったと思われる。
どんな体裁でどれだけの量がどんな販売ルートでどこに頒布された書籍なのか、詳細記述がないのが残念だが、当時の町並み描写が実に生き生きと描かれて愉しい気分にさせてくれる。
世捨て人となる思いつめた挙句の語り手の心情は恋という普遍的テーマが絡み合って古典にふさわしく思われる。

☆2008/09/08 「笠岡遊覧恋浮雲 山本尹口」by ゲンキ笠岡まちづくり支援事業 恋浮雲研究会

 なんと、そのものずばりの本があった! 郷土史関係書が並ぶ図書館の書架にこの本を偶然みつけた。昭和50年の笠岡市区画整理事業のなかで
「まちおこし」「町づくり」「文化の花咲く笠岡づくり」のコンセプトから「ゲンキかさおか支援事業」に展開された。(渡辺市長の「序」のことばより)
作者山本尹口のご子孫である山本優氏が「(復刻)はじめに」のページにこう書いている。
「昨四十九年の春、自宅仏壇の奥の方に古い巻物があったのを思い出し持ち出してみると、紙装撚糸一本でくくった「笠岡遊覧恋浮雲」と題したもので
した。裏打ちなしの和紙一枚で横二五〇センチ縦二〇センチの大きさ、筆がき総行数三百行の巻物でした。(後略)」
現代文への解読を千原万亀男氏に依頼し、昭和五十年五月、タイプ印刷限定三百冊限定で出版された。
この書がさらに「平成版」として校注を加えて平成九年二月二十八日、限定500部で発行となっている。  ⇒ 詳細 ClickHere

☆2008/08/24 「笠岡史談」会報by 関藤不二男氏より引用

  本書は昭和50年6月に千原万亀男・山本優の両氏により発行された。
 作者は笠岡の商人、山本与惣治で天保14年(1843)の作である。当時、風呂屋町内に十数軒の家作を持ち、商売も繁昌し裕福であったと思われる。
 諸芸に秀で文学に才能があった。慶応三年(1867)六月二十日、64才で病歿した。法名を「鳳嶺杉雲禅定門」という。
  与惣治の息子に善七がいて、彼もまた安政五年(1858)に小説「お夏が瀧」を書いている。
 父親の作品の「笠岡遊覧恋浮雲」とおなじ舞台で、和歌百数十首を入れた充実した内容である。善七のペンネームは笑門舎華遊といい、親と同じ年
 の慶応三年三月に死去した。法名を「恵眼浄光信士」という。
 この時代が山本家の全盛だったようで、親子二代にわたってそれぞれに優秀な文芸作品を遺したことは稀有のことであり、笠岡の誇りでもある。
 (最下段につづく↓)

               カサオカ遊覧ユウランコイ浮雲ウキグモ」 天保テンポウ14ネン(1843ネン) by 山本ヤマモトインクチ
  時候は五月、天候は時雨空に晴れ間がのぞき、主人公のオトコはひとり西浜村方面からおそらく金崎のハナ まわりで
海の景色ケシキを眺めながらカサオカにむかってアルいている。 ムネのうちにはオモツヅける女性ジョセイがいるが、なかなかこの
恋の成就はかなわない。してオガレイ白岩シロイワ地蔵ジゾウソン、ここをひりに神仏の冥助をモトめてのカサオカ市内シナイ遊覧ユウランである。
                   
リュウオウヤマをまわってヤマスソをぬけヒトイエがちかづくと、カンゼンカネがおヒルの12げてりだした。  
いよいよカサオカ、ここは西ニシ本町ホンマチだ。イエ々がノキをならべてっている。食事ショクジドキのかまどからのけむりのニギわいに
平和ヘイワネンじ、ショウネン父母フボ孝心タカキヨできねども、夫婦フウフがみさお三味線シャミセンの オトこえし天神テンジンさん  
げにカミさびて黒髪クロカミや 松風マツカゼさえも高砂タカサゴの 左右サユウにゆるす越後エチゴ獅子ジシ イク八代ヤシロ獅子ジシ 万歳バンザイハイわりてオキみれば
ウミやまやまの浦島ウラシマに ナミこす のとにワタる。          
                   
はやユウソラもちかければ もはやこれよりクダり すくなるミチをまがれども まがらぬカミ正直ショウジキは げに  
天照アマテラスオンカミの オンスエイマにいたるまで 連綿レンメンたりし威徳寺イトクジを アオぎてればフウなる 二重ニジュウツクりの本堂ホンドウも いともカシコ
風景フウケイも コトカツれしカサオカヤマ 吉備キビ中洲ナカス霊場レイジョウと いわぬとそれとられたり。      
                   
ここから夕暮ユウグれになりアワシマグウ境内ケイダイ一泊イッパクとなる。          
これよりアゼミチツタひ。 見上ミアくるソラベニをさし モロトリハイコロなれば 今宵コヨイはこゝにイチ宿ヤドオリふしつくる入相イリアイ
カネヒビきでタカラゲンテラ レイシルシあらたにましませし金比羅コンピラグウ通夜ツヤせんと こころばかりの供物クモツソナへ スズりならし
不浄フジョウハラい 二度ニド三度サンド礼拝レイハイし ショガンテラなさしめと ふせ秋葉アキバナカとても オモひをかけし恋人コイビトマワ粟島アワシマ大明神ダイミョウジン
ジョニンタットオンカミなれば マタノウきつてもあらんかと 祈念キネンタンヨルきて タダドウウエなりにて オモわずねぶり
モヨオしたり。                  
                   
けのカラスの飛行ヒコウコエがる。            
アサよりハイ風呂フロマチ 日々ヒビアサユウオンメグみの ショク三宝サンポウダイ荒神コウジン 一番イチバン礼拝レイハイし ツギ貧乏ビンボウ悪魔アクマをはハラタマ
清めて給ふジュウエビスオンシャ、、、、ココロとなりきて 大事ダイジウシナショウ寿ジュマチ アトかやすもことはりや   
                   
こんな調子チョウシで、食事ショクジき(?)でこのあとも、アルオガみ、ひたすらシャをまわる、まわる。 以下イカ  
川辺カワベマチ   ダイゲンヤマゲンチュウ            
    寿ジュセイイン   → 出口デグチ石橋イシバシをわたり、ケン      
                   
ヒダリ筋交スジカんで ケイギョウカン   → キタ八幡ハチマングウ        
                   
クジマチ   ダイセンイン   → 洲崎スサキセンイチマチ ウミヤマヒカリイン    
                   
ベニマチ殿デンカワマチ仁王ニオウドウマチ  → ヒカリメイヤマ遍照寺ヘンジョウジ → ヒロ小路コウジイン馬場ババ      
                   
マルヤマ   オンジン   板倉イタクラグウ          
    セイイチ稲荷イナリ大明神ダイミョウジン            
    ダイカクヤマミョウテラ            
浜田ハマダマチ   ブツセイヤマジョウシン            
三軒サンゲン   リンヒカリイン              
ツツミにのぼりて応神オウジンヤマ 八幡ハチマングウ              
宮地ミヤチカワ                  
                   
伏越フシゴエマチ   ヒカリメイヤマフク            
大磯オオイソカド   地蔵ジゾウソン              
                   
古城コジョウヤマ   稲富イナトミグウ              
                   
それより城山シロヤママワらんと ヒガシホウクダザカ 道筋ミチスジまではりずして わざとケワしきミチツタひ イワハナ  
マワり オモわずハッアシシタに スベるまじとつゝしの こめにうがしオモわずらず ミチハナまでぞ  
ちにける。                
コレ若気ワカゲイチオコと をふるひつゝノボる はやチカづきし宗祇ソウギヅカ コレにおふ備中ビッチュウに 名所メイショ古跡コセキ  
国々クニグニに 賞美ショウビせられしカガミイワ 三種サンシュ神器ジンギヒトつ 八咫ヤタカカガミもかくあらんと いともトウトガタ  
オモテればジュウユウサン タマ文字モジをちりばめたり そのウタ        
 ナカは さらに宗祇ソウギの 宿ヤドカナ            
                   
オトコはいまマイった稲富イナトミグウイノる。このカガミイワオモオンナ姿スガタウツせと。        
そするとトシ二十八ニジュウハチばかり、小野オノ小町コマチカオオオうほどの美女ビジョカガミイワウツて、恍惚コウコツとなり朦朧モウロウ茫然ボウゼンとなる
一陣イチジンカゼとともにオンナり、オトコ宗祇ソウギナラっててることを決心ケッシンする。      
その場所バショ一泊イッパクし、翌朝ヨクアサおきて雲水ウンスイネズミをまとい、マワノコした神仏シンブツハイおわらんとす。    
                   
用意ヨウイした食事ショクジをとったアト一本イッポンツエをもち、古城コジョウヤマをおりる。        
                   
シマ   リュウ観音カンノンドウ            
                   
観音カンノンバナ   西ニシヒガシ仲瀬ナカセショウイエハマカイショ問屋トンヤカタフネ      
シロハシ   住吉スミヨシ大明神ダイミョウジン            
    タカおう神社ジンジャ            
八軒ハチケンマチ                  
                   
これよりすぐ托鉢タクハツせんと こころをキワちて モトミチカエし はや八軒ハチケンのなかばより ホソミゾツタひに
ちのぼり ウンセキアンへぞハイりけり。            
アンシュによしをげしかば アンシュもことに感心カンシンし いとていねいにあしらいしかば 今宵コヨイはここに一宿イチシュクし 一句イックウタ
いて ナニクニともなくりにける。            
そのウタ                  
  ナカを またにはさみし 行脚アンギャかな          
                   
かくなんユウければ るひとコト感心カンシンし をすてたりし ヒトココロヒロきこと 凡夫ボンプのはかりることならずと
かんせぬものも なかりける              


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記念碑考

現在の町なみとの関係

  笠岡市内の埋め立て工事は大磯新田を除き完工しており、神社・仏閣は明治6年に書かれた下の測量図とほぼ同じ位置関係だっと思われる。
 敬業館も明治16年までは生徒がいただろうし、本文ででてくる地名も地図に書かれた字句とほぼ重なっている。
 このガイドプックが書かれてから165年経った現在と比較するとかなりの変化があり、時間による風化というか淘汰がありそんなところが面白い。

No. 表題 Title   内容 Contents
資料図001 笠岡市内図(明治6年) 小田県庁址の案内板掲示より引用  画像みる    ↓
     

☆2008/09/16 笠岡町名と地名(明治六年/1873)by 平成版「笠岡遊覧恋浮雲」 谷口靖彦氏

 西本町、石橋町(中之町)、八軒屋町、仁王堂町、殿川町、川辺屋町、風呂屋町(正寿場町)
 以上七町のうち里俗名を分かちて称呼するあり、又裏町の名目あり(資料「笠岡風土詳細記」)
 
 「西本町」の東端を十四軒町、西本町の南裏を西の浜という。
 「石橋町」の南裏を東の浜、「八軒屋町」のうち笠神社以東を伏越といい、その東を大磯という。
 「八軒屋町」の北裏を浜田、南裏を稲荷町という。
 「殿川町」の南端を殿川、中を州崎、北を鬮場という。州崎町の東裏を千一町、鬮場町の東裏を背殿町という。

 「川辺屋町」の北端を隅田、州崎町と接するところを紅粉屋町、その西の風呂屋町の内を大工町という。
 「仁王堂町」の東端を浜田、水流に沿って八軒屋に出る町を新入という。
 石橋町の中央に出る町を横町という。北裏を院の馬場、遍照寺の西を大玄という。この他、川辺屋町の内に八幡道と、土居の後ろという所あり。
 十四軒町の北に戎町あり。 宮地は「仁王堂町」に属す。 田頭、池の上、追分は「川辺屋町」に属す。
 岡は金崎の東端にあり。

資料図002 ☆2008/09/08 「笠岡遊覧恋浮雲 山本尹口」by ゲンキ笠岡まちづくり支援事業 恋浮雲研究会  画像みる    ↓

平成版
笠岡遊覧恋の浮雲
復刻本
(笠岡市立図書館所蔵)



発見された江戸時代の原書(巻物)上書の口絵より


1-表紙


2-導入


3-結末

復刻版編集にたずさわった各氏の顔ぶれ(敬称略)
 (昭和版)s50.6.28 限定300部発行
 解説 中山正英、住吉巴、関藤不二男、田中舜治、東山福明の各氏 過去帳調査 安藤浄雲、写真 石井愛山氏
 (平成版)h9.2.28 限定500部発行
 恋浮雲研究会 浅野吉太郎、池田美枝子、石本彰、大塚政樹、谷口靖彦、中山正英、藤井寿幸、柚木義和の各氏

2008/7/16
2008/9/14


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