|
| 『笠岡お夏ケ瀧』 by 笑門舎華遊 安政五年(1858年)五月 |
|
| 爰に一奇談あり。 |
| 吉備中州笠岡の里に年久しく住み馴れ 商業して不自由なく暮らせし洲浜屋政右衛門と云う人あり。 |
| 男子二人あり。 兄を兵七 弟を衛介と呼び 兄弟とも至極孝行にて 内和合 楽々睦間敷繁昌しける。 |
| 兄兵七 温和廉直にして人品骨柄賎しからず。 |
| 善心慈悲の志深く しかし商事 世事をうとみ嫌ひ 常に読書風流を好み 雑俳・狂歌・連歌の戯れを好き |
| 芭蕉・一休・蜀山人の秀句を集めて悦び 三十歳に至るまで妻を娶らず 富貴を羨まず 金銭を苦とせず |
| 己の不自由をいとはず 人に投し 実に当世異様なる一奇人なり。 |
|
| 三十の春を迎え いろいろ思いけるは 我素より商事に疎とく 世事を好まず 何卒弟に相続を譲り |
| 古跡旧郷を行脚せんものと頻りに志願止まざりける。 |
|
| 折りしも四月上旬の頃なりしか 常の如く一室に入り柱上に行灯かけ灯火に和歌集類など披見して余念なく |
| 既に三更(およそ現在の午後11時または午前零時からの2時間)告わたり 短夜の節なれば世上寂莫たり。 |
| しのび声につれ思わず暗然たりしか 忽然として白髪の老翁来たりて曰く 汝常に書読を好み 風流の道に |
| 心気を尽くすこと久し 汝精神尽きて既に今盲目たり。 |
| 然れども、自ら盲目になりし所以を知らず。 追々知得すべし、我 汝が善心たることを知るが故に |
| 天帝の命を受け 爰に来って汝を助け晴眼たらん事を欲す。 |
| されど今我容貌汝の眼に見ゆるは汝の眼に見ゆるにあらず、皆我仙術にて思うもの随って見せしむるなり。 |
| 我か教諭を疑惑することあるべからず。 我に従い来るべし と告げければ 好笑大いに悦び異人の後に |
| 随ひ行けるに 須臾(しゅゆ:ちょっとの間)にして山中に至りけるか 寂寥(せきりょう)として一宇の草庵あり。 |
| 後ろはけわしき山を負ひ 南海一目に見え渡り 左右樹木枝を交じへ 草木咲き乱れて神仙境と見えにけり。 |
|
| 芝の戸を明け内に入れば 自在釜掛茶器取り揃え 歌書を積み 机文台文庫 竜渕香墨風雅を尽くし |
| 台所廻りまで自由自在ならしむ。 |
| 好笑見る事毎に称讃し 我日頃斯様な処に住みたき志願なりしか 今不計先生の助情にて見る事を得たり |
| と頻りに悦びて止まず。 異人の曰く 我久しく住み馴れし所なれども 汝晴眼たらん迄 暫時此の草庵を |
| 譲るべし。 乍併(あわせながら)此の草庵を尋ね来る頼みのあらば 善悪に不拘随ひ 必ず人の志を負く |
| べからず。 自ら其身安じるべし。 其外汝の心の侭(まま)たるべしとなり。 |
| 今より名を改め置かん、 美風舎夏谷を唱ふべしと云ひ捨て 呪文を唱へしかば 不思議や紫雲たなびき |
| をり異人をのせ 消ゆるか如くなりにけり。 |
|
| 夏谷奇異の思ひをなし、 |
| 草庵の美風夏谷の水音を 友とするこそ 心涼しき |
| とう笑舎好笑といふ世事も捨て 果報ねてまつ今日の仕合 |
|
| 一両日立つに従い 夏谷思いけるは 我案外の仕合せを得てかゝる仙境に住み 米酒野菜に至る迄思う侭 |
| なり。 是そ蓬莱山ならんかと怪しみ思ひける。 我住ひながら未だ地名を知らず。 |
| 老翁に問はん事失念せり。 |
| 併し日頃の志望成就せしは全く神明の加護ならんと信心弥増して老翁の教諭守りける折節 芝の戸明けて |
| 入り来るものあり。 |
| 見れば知れる同好の友なり。 両友怪しみながら 好笑君ならずやと問ふ、しかりなり。 |
| 両君此処へ尋ね来る事 故あらん 先つこなたへと 庵室に招し 席定まりしかば 夏谷是までの始終具に |
| 語り聞かせしかば 両友奇異の思いをなしける。 |
| 夏谷問ひて曰く 両友尋ね来りしも故あらん されば今日竜王山に遊び 夫より古城山へと志し 下山せんと |
| 思ふ折節 白髪の老翁来て 両友連の好友 此山続き陶山の荘 向ふに見ゆる樹木茂れる渓間に 草庵を |
| 構へ安住せり 尋ね玉へと云ひ捨て行き。 |
| 尚事問はんと思ふ内 行方知れず、 不思議に思ひなから教の侭来りしなり。 |
| 両友夏谷に向ひ 是より古城山を遊歴せんと欲す 兼而弁当用意いたし遣しあれば 同伴仕るべし、と |
| 勧めければ 夏谷かたく両友の厚志を感し 三人誘引にて古城山へと赴きける。 |
|
| 折柄卯の祭り中 今日は殊の外美晴にて 参詣絶え間なく 先稲富宮を拝し 夫より鏡岩を拝しあたりを見れば |
| 市中の男女老若弁当を携へ 此処彼処と風景の場所を見やりつゝ いと賑々敷 夫より古城跡 龍の観音の |
| あたりを見れば 流石古城の跡と見え 広き場所に陣構へし 三味太鼓をいれ 酒興の体 実に孔明八陣を |
| しくかの如く 長蛇に備えて手を打つあれば 鶴翼に備えて踊るあり、 円月に備えて列を乱さぬあれば |
| 酒充満して雁行あり。 雑兵共てんてんと舞行く様面白く興しける。 |
| 夫より観音を拝し 少し西手人少なき風景よき場所を見合わせ席を設け暫く休みし折柄 用意の弁当は源より |
| 仕出し参りしかば 丁度よき時分なりと開き 四方山の珍説奇談 へうへうたる青海原 鞆 泉水島に渡海の |
| 白帆 漁舟 無余念興し 風景いはん方ぞなかりけり。 |
| 思わず熟酔しければ 各席を払ひ 此処かしこ眺むれば 早乱酒となり多く下山と見へにけり。 |
|
| 乱軍や 酒の兵もの 戦ふて 飯の豪傑陣を堅むる |
|
| 手合の丁稚 跡片付て 下山のていを見て |
| 兵卒は弁当箱をこしにつけ おふてからめて 右往左往す |
|
| 夫より三人熟酔のあまり思ひ思ひに爰かしこと別れ遊覧しける。 |
| 夏谷は独り宗祇塚の方におりにける。 遊山の人も多く下山せしと見え余程静かに見えにけれ。 時節なれば |
| 夕陽さし暑気強く殊に酒気充満して堪えがたく 肌打ちぬき、松下に行き乾かしてありけるに 谷間より吹き |
| 来る美風心よく 既に眠りを催す気色なりしか。 |
| ふと心附き 此谷はお夏か谷とて名高きところ 如何なる谷にてかく名を残せしや 頻りに恋しく思ひつゝ |
|
| そよそよと 夏の谷風 身にしみて |
| ひとり 恋しき 松の下風 |
|
| かく詠し 腰より矢立取り出し 懐紙一枚詠せしまゝ戯れ書せしに 折節一手の風吹来て かの紙吹き飛ばし |
| お夏の谷の方へ落ちにけり。 |
| 夏谷興さめ 汗も乾きしかは 身繕いしてありければ 粉々と蘭麝の薫り鼻をうち 向ふより一人の美婦出て |
| 来りぬ。 |
|
| 年頃二十四五才と見え 其出立を見れば先つ素顔に薄化粧して あさやかに髪は油にて梳き上げ 毛筋透 |
| 通りて美しく 割唐子に結び 本へつ甲の短き笄(こうがい:かんざしのこと)六寸計にて 両方端の角に調ひ |
| たるをさし 野代の櫛に蝶貝珊瑚珠にて 万年草(おもと)を彫入れた政子形なるをチョイとさし 衣装は糸織 |
| 藍立筋の着物を着 襦袢の衿は鼠襦子(ねずみしゆこ)に白糸 茶にて花の丸を浮織にせしを掛け 袖口は |
| 絞りの縮緬 三寸程奥の裏袖折り返しに付けたるは鴇色縮緬なり。 |
| 湯文字は極薄き浅黄の風織縮緬 帯は鹿張子に両龍の丸飛び飛びに織出し 九十幅唐桟御手縞鯨にしころ |
| を結びし姿は 実にみよしのゝ花も是にはよもや及ぶまいと しばし見とれてありければ 夏谷の前を会釈し |
| つゝ莞爾と笑を作り行きぬ。 |
|
| 如何なる金鉄の志も動く如く 酔へるが如く しばし茫然たりしばかりなり。 |
| 折柄両友もとりかけ 夏谷君未だ酔醒ぬるばかり なほやうす察し金馬西に傾けり。 |
| いさ帰らん と三人打連れ伏越迄下り 両友は外に要用ありとて爰にて暇を告けゝれば 夏谷両友に謝し別れ |
| て陶山の荘に帰りけり。 |
|
| 程なく日も暮れ 今宵は殊に美晴にて 古城山の方より出る月鏡の如く 月夜は物を思はする西行の昔し思ひ |
| やられ、 今日見し美女のこと迄も思いつゝ |
|
| 月雪や 花の風香もよけれとも 美人の風が格別なもの |
|
| 実にも男の心を動かするもの 女にまさるものあらし。 |
|
| ・・・この後、草庵に年が十二三の少女が文箱を届ける。 |
| 差出人は 白霊、 夏谷の御君殿へ おなつかしより との手紙で、昼間に谷に飛ばした歌への返信だった。 |
| この手紙を読み、夏谷は心を決める。 |
| 今世事を捨し 此身、 恋路に惑うべきにあらねとも 志し無下になすも君子のせさる所何にもせよ婦人に |
| 会ひ諭すへし 兼て笠岡の神社 仏閣名所古跡 遊歴 一社一仏え狂歌 雑詠 戯句杯いたし 笑草にも |
| せんと思ふ心頻りなる折柄なれば 幸の事なりと直様用意いたし 暫し眠を催ふ。 |