☆2008/04~たびたび訪問
名前のとおり惹きつけられる社である。
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夫より湊を見れば東西仲仕小家 中に浜会所 間室方軒ならべ中東西波戸をツ築出し 北前船にて米穀肥し類の如く 数艘の出入り舟荷役せしさま 問屋の番頭 手代 帳簿算盤にて忙ケ敷
仲仕衆の元気らしく 持運ふ有様 流石湊の繁昌目を驚かす計りなり
 大船も数艘きた米湊山 目を三角に問屋丸なる
 西東力競ふる仲仕衆 山も散して運ふ町方

☆東中西波戸と力石
  笠岡資料館に展示されていましたよ。 ⇒ 
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☆龍嶺の三叉松を発見
Web『思い出の衣笠鉄道』

阪倉信男氏のサイト
掲載の1970年笠岡-鬮場pix

☆高き山の嶺の松、竜王をまつれる社は未だ不発見。
2008
/05/26 敬業館訪問す。
CLICK here to敬業館
☆宮地発見!
 明治六年の測量図として小田県庁跡の案内板に地図が描かれていた。その絵を見て、古城山通りから土手を昇って南に歩いていくと、↑ここ♪
「ここは笠岡の宮地です」とあった。

篠崎小竹(しのざき しょうちく、天保元年4月(1781年) – 嘉永4年 5月8日(1851年))は、江戸時代後期の日本の儒者・書家。幼名は金吾、名は弼(たすく)、字は承弼、小竹は号で別号に畏堂・南豊・聶江・退庵・些翁などがある。 ...
☆2008/06/20  Click here

観音端散策~この日は雨でした。

澤三石
(1772~1853)は安芸の人、名 は喬、字は伯遷、号を三石・梅ウ(阜+烏)などと 称し、芸州広島藩浅野公の年寄職を務めた文人武 士。

☆2008/06/17 Tuesday

吉浜の菅原神社を参拝し、濱街道を東へ、湾頭を経て金浦へ。
いった!♪
Click
関藤藤陰(1807-1876)
吉浜の医師・神官の関藤政信の第4子に生まれる。だが、生まれてすぐに両親が他界、父親の医師仲間であった同国の石川順介の養子となり敬業館で学ぶ。その後江戸にのぼり頼山陽の元を訪れて弟子となる。
☆2008/06/10Tuesday

陣屋稲荷を探して市内を歩く。
稲富・朝庫・笠岡稲荷等、
新たな発見にもつながった。♪
この場所は稲富稲荷の宮司さ
んが教えてくださった。
Click Here to 陣屋稲荷
☆2008/06/17 Tuesday

伏越の踏切を渡り地福寺の石段を登り境内と庭園と墓苑を見ました。
木製の句札も発見!♪
Click
酒井 器

通称百太郎 号大同
陸奥ニ本松藩士
今京師に住めり

・・・・ネット検索
       なし。。。。。
馬場竹琴

備後尾道の人

・・・ネット検索結果。。。。
ヒットなし
貫名菘翁(ぬきなすうおう)

安永 7年7月3日 (1778年 7月26日 ) - 文久 3年5月6日 (1863年 6月21日 ))は江戸時代 後期の儒学者 、書家 、文人画家 。阿波の人、京師にすめり
吉川松谷

江戸末期の画家。寛政12年(1800)生。近江の人。名は米、字は明啓、別号に少穀・樵谷、通称を松之助・巳之助。彦根藩士であったが、大坂に移り住み画業を営んだ。精妙な花鳥画や、人物・山水を得意とした。安政3年(1856)没。


小田郡村誌笠岡村


↓↓↓ 『笠岡市史』資料編 上巻より転記

地名考

備中国第壱大区小田郡小一区:市史からの抜粋『皇国地誌』(明治9年)

 本村古来ヨリ本郡ニアリ漁渚郷ニ属ス従前ヨリ其称ヲ改メズ。
 地勢: 三面峯巒ヲ負ヒ南一帯海ニ面ス 東古城山ト西金崎ト海中ニ斗出シ相対ス、山下東ヨリ西ニ向ヒ波戸ヲ築イテ港ヲ為ス 船楫常ニ出入リス
      運搬至便ニシテ薪炭乏シカラズ。
 山:   龍王山 高サ直径九十丈本村ノ西ニ在リ、嶺上三分シ西隣区西浜村ニ接シ北木ノ目村ニ接シ東南本村ニ属ス、嶺上松樹アリ其ノ下龍王祠ヲ祭ル。
      西方西浜村ニ至ル小道アリ新道ト云、往昔浜街道ノアラザルトキ西浜村ヘ往復スル道ナリ、嶮ナラズ。
      應神山(一名加佐米山ト云フ)高サ直径九十五丈本村ノ東ニアリ嶺上四分シ東南富岡村ニ属シ北馬飼村ニ属シ西方本村ニ属ス。
      全体禿倮シテ往々巖石痩松ヲ生ズ山脈連亘シテ遠ク阿部山ニス 登路渓流ナシ。
      古城山高サ直径三十丈本村東ニアリ南海ノ濱ニ崛起ス山容温雅松樹蟠鬱頂上松王廟ヲ置ス南ニ江水ヲ隔テ神島ニ対シ波光瀲灔黛色ヲ極ス。
      舟帆其間ニ往来ス風趣太タ佳ナリ伝道フ往古應神山ト一線ノ小山脈連亘シテ一山タリ  故ニ中古迄テ加佐米松此ノ山ニアリト云 今ニトナルハ
      戦乱ノ世此山ニ城塁ヲ築シトキ防御ノ為ニ割断ス現今其処ヲ呼テ伏越ト云フ。
      古城山ノ南辺ヲ海松岡(みるがおか)ト云フ蓋シ山脚潮ニ涵ス処海松ヲ生ズルヲ以テ名ク 海松岡ハ全山中眺望最佳ナル処トス。
      従来騒人墨客其勝ヲ詩歌ニ遺スモノ尠カラス。

 字地: 伏越 本村東ヨリ西ニ連リ笠神社前マデ東西弐町南北壱町、八軒屋町ニ属ス。
      大磯 本町東ヨリ西ニ互リ伏越マデ東西四町南北壱町半、八軒屋町ニ属ス。
      追分 本村南ヨリ北ニ互リ戒堂マデ東西二十間南北三町、川辺屋町ニ属ス。
      西本町 西ノ濱・橋西・十四新町等隷属ス
      石橋町 又中之町ト云、東浜隷属ス
      八軒屋町 山ノ下、稲荷町、助一小路等隷属ス
      仁王堂町 宮道 俗ニ宮地ニ作ル非也 浜田・院ノ馬場等を隷属ス
      殿川町  洲崎・鬮場・千一町・背戸之町等隷属ス
      正寿場町

 人数: 男三千五百三十七口 女三千五百四十六口 総計七千八拾七口
 寺:  遍照寺 真言宗西京嵯峨大覚寺末派ナリ 同宗二十四ケ寺総管ス

 社(やしろ) 笠神社: ⇒ ClickHere to 笠神社 創建は永禄八年(1565)4月25日、その後改修は寛文十年(1661)3月5日・安永四年(1775)

 拝借地東西二拾八間南北二十三間面積弐反弐畝二拾三歩 本村ノ東ニアリ、祭ル神応神天皇ナリ本村ノ氏神トス、社内老樹駢植ス
 
        古城山稲荷社: ⇒ ClickHere to 稲富宮 創建は弘治二年(1556)
        ☆2009/11/03 文化の日:「秋の稲富稲荷神社コンサート」   Click here


 拝社地東西二十七間南北十九間面積弐反八畝八歩 本村ノ東ニアリ、元城内鎮座ノ神タリシカ城塁ノ廃頽スルニヨリ片山某現今ノ地ニ移ス。
 当時小祠ニ過ギズ後年ニ至リ村民尊崇シテ造営頗ル美ナリ

景色考

笠岡市内各所の名勝Point(笠岡二十勝景図)江戸末期の景勝地 ⇒ 地福寺陣屋稲荷社西濱村観音端敬業館稲富稲荷神社
この画集は『笠岡ニ十勝景画帖』(1841-1851)天保12年-嘉永4年 by 森田一瓢編集 高おう神社笠岡湊の力石(ちからいし)笠神社

画題  詩歌  往時の風景 現今目線の風景
大磯春望

  by

貫名海客
雨添濃緑  看将没梵関
鯨音流不得 隋約舞俗間


大磯 吾笠岡の東入り口にして昔ハ富岡村吾里より十八丁東にてなへておほいそのうちなりし山の裾海の渚の間うちひらきたる中一すちの道いとゆたかにてけしきよし吸江山眺望十景之中にも表なる詩画ハ貫名氏名ハ名 は苞(しげる)。字 は君茂(くんも)、子善、号は海客・菘翁。 
古城山公園の頂上から水際線に沿って東を眺望。
直下左が伏越、そして大磯から~富岡へつづく浜街道の構図。
小高い山が応神山で、海に浮かぶ正面右手の島が横島とおもわれる。 










☆2008/08/20
 

大磯詳細Pageへ⇒ Click here
海松岡観月

  by

吉川松谷
海松岡 
この山のすべての名は吸江山という
天正の頃毛利家より村上景広この所に砦かまへて居られし山ともいへり むかし宗祇法師この山にのぼりて
山松のかけやうきみる夏の海 とよまれたるみるか岡という
   古城山の南崖
 当時は海松(みる)が繁茂していた場所だったことからの命名。海松は海藻、ミル科に属する緑藻類の一種で湯どおしして和え物にしたり乾燥させて保存食にしたりされていた)
山吹岡款冬
  
  by

馬場竹琴
 
山吹岡

みるか岡にむかひあわせてこの所に地福寺という寺あり
この岡に山吹いとおほかりけるころ
「山吹をこころの色かほとときす」宗祇法師
これより後山吹の岡といひつたふ祐為ぬしもこの句を一字つつかしらに冠らして十七首の歌をよまれたるが今も額にものしてかの地福寺にかけられたり
  地福寺 の建つ伏越浜街道
 道路を隔てた稲富稲荷社の参道石段の踊り場から地福寺が眺望できる。
龗社看花

 by

酒井大同
龗社
吸江山の西面の麓にてたかお神たたせ給へり
桜花数数多ありておよそ我里の花ある処ここよりおほかるはなし
花さかりの頃里人つとひきてみるにたゆるなし
高龗神社
松と桜の樹木の境内には松はなく桜あり。
未新田の住吉神社が移転し、合祀されていると聞いたが確認できず。
小円山
霜葉

by

片石臺
小丸山 我里の東北にて鎮守稲荷社あり小寺氏世々奉祠たりこのやま紅葉あまたあり。
我里のまつりことし給へる陣屋もここにあり。
陣屋稲荷社
 笠岡市庁舎の別館公民館が南側より参道に沿って建っている。
第一の鳥居は表通りからも見えるが緑が生茂って人通りが途絶えた神社と判る佇まいだ。

龍峯遠望

by

琢堂逸人
龍峯 我里の北西にいと高き山の嶺に一もとにて三つにわかれたる松ありて遠方よりよくみゆる
この山に竜王をまつれるかやがて名となりたる也
ここにのぼり南は海原遠くうしわたされ北は山又山立重なりて四方のながめ隈なし
この山の麓に敬業館あり
殿川町あたりの上空からの俯瞰か?
龍王山の麓の棚田風景はいまも同じだが、絵のごとき稲田ではなく果樹園。
正面に描かれた建屋が敬業館とすれば樹の茂りが鬮場辺りか。
鬮場に井笠鉄道が走っている頃、この辺は一面たんぼだった、と畑仕事をしていた人(t13生男性)から話を聞いた。

金崎行人

 by

藤陰主人

金崎 吾里の西にて海にさし出たる山の腰にひとすじの道うちめくれり行かう人たえずこの先やがて魚渚にて釣舟なと多くながめよし
この不思議は絵ではすでに国道2号線が出来上がってる。しかも、金崎橋もなくひとすじの道が生江浜へつながっている。

吉浜新田が17世紀後半に完成しこの絵を描いた絵師の目には、20世紀の情景が見えていたのかもしれない。
住吉千鳥

 by

沢三石
住吉 吾港の入口波戸端に松ひとむらしげりて築垣立めくれる中にたたせ玉へり夏は納涼によろしく冬は千鳥いと多し 未(ひつじ)新田の船着場。
松の陰に見えるは住吉神社?

宮道洗竹

by

三宅西浦
宮道
八幡社のうしろにて笠目山のふもとなり。我里の中なから里離れしていともの静けくたかむらしけり実に幽栖閑居の地この処にまさるなし

画は備中連島人
三宅西浦か 詩は篠崎氏名は弼小竹と号す
浪華の儒家

古城山公園の頂上からの目線ではなくあきらに海上、笠岡湊の沖合いの高所からみた俯瞰図だ。画面右上に「白津橋」そしてその右に見えているのが住吉神社だろうか。
見渡したところざっと15~6隻の貨物船とちいさい伝馬船がみえる。地図によると船が係留しているあたりが中波止(なかはと)画面右のみえない桟橋が東波止、正面の蔵屋敷がずら~っと並ぶ波止が西だろう。この西波止に船が繋いでいないのはここが亀川屋の土場だから、つまり年貢米等の官品の荷揚げ場だから許可制だったのかもしれない。
積み上げの荷役をする人足(沖仲仕)たちの姿がみえないのは人がまだ寝静まっている時間帯だから、町にも人影がない。あるいは絵師の力量か?


☆笠岡湊事情
 濱の仲仕たち ⇒力石 ClickHere

 現在の笠岡湊 ⇒ ClickHere




☆2008/08/24 『笠岡史談』会報より by 広沢澄郎氏 笠岡の人口は5~6千人

 文化7年(1807)の町屋敷名寄によれば、笠岡町の屋敷数はつぎのとおり。
 胡町(えびすまち=八軒屋町)18、辻町32、西本町66、石橋町68、川辺屋町67、殿川町39、洲崎町25、仁王堂町76、大玄町22、紅粉町(べにや)12、
 工屋町(さいく)12、正寿場町17、風呂屋町27、西念寺町18、矢掛屋町20 Σ合計 519軒
 以上は町方の高持ちの数で、その他村方あるいは無高(水呑)が900戸はあったろうから、笠岡村全体では1,400~1,500戸、人口は5,000~6,000人と
 推定される。 

No. 表題 Title   内容 Contents
001 伏越から真角まで大磯方面を望む(稲富稲荷社の境内より)  画像みる    ↓
     
 
 前方の山は里庄の毛野無羅山(▲206M)いちばん手前の緑濃き小山が横島。
護岸まで海が迫る風情は知識として持っていないと想像はできない現状。
手前を走る道路は県道60号倉敷笠岡線、ここから国道2号線を高架橋で跨いで海に側に伸びる。
002  地福寺の前の浜街道  画像みる    ↓

☆08/06/16

伏越の踏切を渡って地福寺の石段を昇ってヤマブキの花をさがして訪ねた。


⇒Click

  地福寺の下を山陽鉄道(現JR山陽)が走る。
『地福寺には、当時から〃魚の観音〃と呼ばれる小さな観音像が祀られていた。この観音像は、地元笠岡の漁師が網にかけ、海に帰したが再度網にかかり、また海に戻すが結局三回も網にかかった。その漁師は、観音像を持ち帰って地福寺に安置した。
この〃魚の観音〃は、地元笠岡をはじめ、遥か四国の漁師たちまでの篤い信仰を集めていた。不漁が続くと漁師たちは四国からでも願を掛けに地福寺に参拝していた。
 そして、参拝した帰りには、地福寺の石段の端をかいで、持ち帰っていた。その石段の欠片を海に投入すれば不漁は止まる、と信じられていたからだ。不漁が続くと、地福寺の階段は、悪くなる一方だったようだ。
地福寺の本尊の地蔵菩薩も、すぐ下の海岸に流れ着いたといわれるものである。先に述べた〃魚の観音〃は、現在その本尊の体内に納められている。 地福寺の開創は、室町時代と伝えられている。その後、数百年を隔てて、江戸時代には、遍照寺の頭寺院となり、それまでの山号「吸江山」を改め、遍照寺やその他の塔頭寺院と同じ「光明山」と号している。
 春には、|面に山吹が咲き乱れ、とても美しく、山吹寺と呼ばれていた。
 松尾芭蕉の師匠である宗祇が、福寺を訪れ、詠んだ俳句がある。
  「山吹をこころの色かほととぎす」』 from:『高野山真言宗備中寺院めぐり』より

003
吸江山の北麓に鎮座する 高龗神社 画像みる    ↓


 当社情報『市史』ニハ不詳:

 
岡山県神社庁HPによると、祭神は高龗神、大山祇神 元禄年間(1688)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 『淤加美神または龗神(おかみのかみ、神)は、日本神話に登場する神である。罔象女神とともに、日本における代表的な水の神で、古事記では淤加美神、日本書紀では龗神と表記する。日本神話では、神産みにおいて伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際に生まれたとしている。古事記及び日本書紀の一書では、剣の柄に溜つた血から闇御津羽神(くらみつはのかみ)とともに闇龗神(くらおかみのかみ)が生まれ、日本書紀の一書では迦具土神を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が高龗神(たかおかみのかみ)であるとしている。
また、龗(おかみ)は龍の古語であり、龍は水や雨を司る神として信仰されていた。「闇」は谷間を、「高」は山の上を指す言葉である。
祈雨、止雨、灌漑の神として信仰されている。』
2009/10/12更新 2008/06/18